夢の館の招待状 ――3――

 医院長室を出たところで待ち伏せていたのは、ぼくを部屋まで呼びにきた瀬月だった。桃色のファンシーなパジャマ姿を廊下に浮かせるようにして、ドア横に背を預けて立っていた。


「なんだ、つけてきたのか」


 一瞥してそう声をかけても、彼女は顔を上げなかった。切り揃えられた明るい茶髪の裏側に視線を隠して俯いている。

 大方、伝言を頼まれはしたものの、話の内容は教えてもらえなかったのだろう。盗み聞きしていたのか。まあ、笹良としても聞かれて困る話をするために瀬月に伝言を頼みはしないと思うけれど。

 ただどうも、瀬月はそれだけではない雰囲気を纏っていた。決して目を合わせようとしない。どこを見ているのかわからないまま、背を離して真っすぐ立つ。

 黙って様子をうかがっていると、彼女はふらふらとパジャマの裾を揺らしながら廊下を歩き出した。魂が抜けたようで、さながらゾンビ映画に出てくるゾンビのようでもあって不気味ではあったのだけれど、ただ、ぼくはその後を追った。


 階段を下りて廊下を進む彼女の背には無言の圧力がある。放っておくという選択肢もあっただろうが、その行く先がぼくの部屋であったのならば、自動的にその選択肢も消えている。やはり礼儀なんてものがありはせず、なんの断りもないままに部屋のドアを引くと、瀬月は呑み込まれるようにして中へと消えていく。プライバシーも関係ない。勝手に入って勝手に出て行く。まあ、いつもそんなものであるから、気にはしない。

 横開きのドアは重みが調整するためだろう、自動で閉まる。瀬月が消えて、朝の病院の廊下には誰の姿もなくなった。ここでこうしてボーッとしている時間は、それこそ空っぽで意味がない。ある種の覚悟を決めて、ぼくは自分の部屋のドアの取手を握った。先ほどから様子がおかしかった彼女は、瀬月 梨離紗ではなかった、そう確信して。


 ドアを引くと彼女はベッドに腰かけて、床へ届かない足を交互に振っていた。気分がいいのかどうなのか。いいのならば、いいのだけれど。

 彼女が浮かべる無邪気な笑顔は、起こしにきたときと変わらないものであるように思えたけれど、薄暗い部屋の中には翡翠色の光が満ちている。


「ボクは思うんだ。凍のことなんてどうでもいいけどさ。ただただボクらの『この力』を利用する大人のやり方ってやつには、同調できない」


 彼女は語る。左眼を、透き通る翡翠色エメラルドグリーンに輝かせながら。


「そうだろう? 『あおくん』」


 部屋へと一歩立ち入ったところで、自然と足が止まってしまった。「くっ」と胸を押さえて奥歯を噛みしめたのは無意識だったけれど、表情に出てしまったのだろう。それを見た彼女はカラカラと笑って見せた。溶けたような瀬月の笑顔はそこになく、翡翠に輝く薄目を開けた、邪気に満ちた笑顔を浮かべて、瀬月 ルリサは笑って見せる。


 瀬月 ルリサ。瀬月 梨離紗の中に存在する魔眼を持つ少女。梨離紗が魔眼を開くときに目覚める人格がルリサなのだ――と笹良は言っていた。

 ぼくは彼女の瞳から目をそらして返事をする。


「別に、利用されているなんて思ってないさ」

「……そうやって知らないふり、わからないふりをしていられるのが羨ましいよ」


 知らないふり、わからないふり。記憶のないぼくを指して、遠慮も配慮もせずに彼女はそう言った。ぼくが都合の悪いことを見ようとしていない、と言いたいらしい。だけれど、利用している、されているなんて話をするのならば、ぼくだって彼らを利用していることには変わりない。凍にしたって、目的のためにぼくのことを利用しているのだろう。


「なにか嫌な予感がするんだよ。凍の力ってのはそういうものだろう? ボクらが持つこの力は忌み嫌われて、歪んだモノさ。見せびらかすためのモノじゃない。凍がどうなろうと知ったこっちゃないけどね」


 ルリサは凍のことを心配してくれているのだろうか。いやいや、そんなはずはない。彼女は秘見弥である凍のことを毛嫌いしているのだから。同じ魔眼を持つものとして、それはもう、はたから見ていてわかるほどに。『凍のことなんてどうでもいい』と語るのは本心だろう。

 だけれどそうまでして、嫌いなはずの彼女の名を出してまでも、こうして突っかかってくることには意味がある。その本心を口では語ってくれない。

 だから、ぼくは顔を上げる。直視してしまえば、感情が縦にも横にも揺さぶられる。震えそうにもなる足を我慢して、もう一歩を踏み出し、ルリサの左眼を見ないように視線を向けた。


梨離紗あいつは全部、聞いてたんだな」


 夢占いの館という、どうにも胡散臭いところへ付き添う話を聞いていたのだろう。ルリサは「そうだよ」と頷いて、足を振って座ったまま、にやりと邪悪な笑みを浮かべてぼくを見ている。部屋の中に溢れる翡翠色の光の影で。


 ルリサはなにもなければ、呼べば出てくるような子ではない。普段は梨離紗の中で眠っているはず。だから、なにか彼女が出てくる要因があったはずだ。笹良とした話の中で、なにが彼女を刺激した……?

 ルリサは梨離紗と体も記憶も共有している。だけれど笑い方からわかる通り、梨離紗とは性格から考えに至るまでまるっきり変わってしまう。

 ただそんな中でも、ルリサがなにを思って行動するのかにはひとつの信念がある。凍を心配しているわけではない。ルリサが思っているだろうことはただひとつ、梨離紗の安全だ。


「なにが、気になった?」


 だから、ぼくが素直に聞いてやると、ルリサは「ぐっ」と少し困ったような顔をした。こたえづらいことを聞いたつもりはなかったのだけれど、笑顔を消してルリサは悩んだ。

 ぼくは翡翠色の光をあまり直視しないようにして、彼女の返答を待った。しばらくしてルリサは小声で言葉を紡ぐ。


「……梨離紗が、ずるいって」


 まるで子供の言い訳のように聞こえる言葉だ。顔をそらしたルリサにつられて部屋を照らす翡翠色の輝きにも陰りが見えた。

 目線を上げてその横顔を見つめる。振っていた足も止まっていた。言いづらそうに横顔を向けたまま、彼女は言葉を続ける。


「『わたしも行きたい』って、言うから……でもボクが止めた」


 ルリサが大人びた邪悪な笑顔を浮かべようとも瀬月自身が持つ本質が変わるわけではない。まだ十四歳の気難しい時期の子供なのだ。子供っぽいかわいいところも残ったままだ。三つしか変わらない、それも十七年間の記憶を失っているぼくにそのような子供扱いをされれば、ルリサが怒り出しそうだと思って口にはしないけれど。


「そのために、ひと肌脱いでくれたってことか」


 梨離紗の衝動を止めるために、ルリサは表に出てきてくれた。きっとそうでもしないと、無理矢理にでもついて行こうと、ついて行きたいと言い出したのだろう。そう考えれば考えるほどに、責任は伝言を頼んだ笹良にある気がしてきた。なんだ、聞かれて困るようなことがあったじゃないか、と、無責任さには腹も立ってくるのだけれど。

 そんなことを考えているうちに彼女はとんでもないことを口にする。


「ボク、脱いでないけど」


 ルリサはファンシーなパジャマの裾を引っ張って、とぼけたように首を傾げた。

 別に服を脱いだとは言っていない。十四歳の少女に対して難しい言葉を使ったつもりもなかった。だけれど、なんだかセクハラされたみたいな目つきで、ルリサは自身の体を抱きしめるようにして、真っすぐにぼくを見た。その翡翠色の瞳で。

 ちょっと気が抜けていた。ルリサの語った理由が理由なだけに、少しかわいいとまで思ってしまったのは事実。だけれど、彼女と相対しているところで気を抜くべきではなかった。


 視界が揺らぐ。ぼくは胸を押さえて膝をつく。

「あっ……」と、やってしまったという表情を浮かべたのは、ルリサのほうだった。申し訳なさそうに目を伏せて、だけれど、そうすると屈んだぼくの視界はより一層、翡翠色に染まる。


 ぐるぐるともやもやと、胸のうちで渦巻いたのは怒りか悲しみか、恨みか。荒くなる息遣いまで自覚できて、だけれど、なんとか落ち着かせようと大きく息を吸い込む。自覚ができるうちはまだ大丈夫。そう言い聞かせる。


 瀬月 ルリサの持つ魔眼は――人の感情を昂らせ、狂わせる。


 その光に包まれてしまったぼくの胸のうちは、なんとも言い表せないほどにぐちゃぐちゃになった。立つこともできず、床に伏せることもできず、膝をついたまま動くことができず。

 溢れ出しそうな衝動を必死に呑み込んで、ぼくはぼくであろうと、ただあり続ける。一体記憶を失ったぼくがなんであるのか、なんてわからないはずなのに、ただ必死にそう考えた。


「……」と無言のままに見下ろすルリサにこたえてやることもできなくて、ただただぼくは痛感する。


 これが、彼女らが持つ魔眼の効力。忌み嫌われた光り目と呼ばれるもの。

 ある程度はコントロールが効くらしいけれど、強すぎる力ではそうともいかないのだろう。だから凍は常に包帯で目を覆っているのだ。そうすれば、視たものへ力を発揮するリスクもなくなるから。彼女らは視たくなくても、その力を見せてしまうから。


 深呼吸をひとつして顔を上げる。すると、部屋を覆っていた翡翠色の光は消えていた。ルリサは左眼を左手で抑えて、右目で心配そうにぼくのことを見つめている。

 幸いなことに、彼女は本気でぼくを視ていたわけではない。それが救いか。なんとか落ち着きを取り戻して立ち上がり、ベッドに座ったままの彼女の頭を撫でてやる。


「……大丈夫さ。気にするな」


 彼女は無言のままにこくりと頷いた。

 今はまだルリサのままであろうか。瀬月の中でどういう風に記憶の混流がなされているのか、ぼくには理解できないけれど。これで気を遣われて、彼女の無邪気な笑顔が見られなくなるのはごめんだ。だから、本当に気にしないでほしい。


 瀬月がなにを思ったのかなんてことは少し考えればわかった。ぼくら訳アリの患者は、この病院に半ば軟禁されているようなもの。十四歳の女の子にとって、夢占いの館なんて胡散臭い場所の付き添いだろうとも、魅力的な話に聞こえたのだろう。旅行についていきたいという子供心。ずるいという嫉妬心。それが、瀬月の中で眠るルリサを起こした要因になったのだろう。


 笹良には後でひと言、言っておく必要がある。けれども、ルリサが口にしたこともまた事実ではある。凍の力を利用しようと考える大人たちがいるのも、それはそれで目の前にあることなのだから。

 彼女らが持つ魔眼の力をただ利用するなんてことは、やはりあまりよくないことなのだろう。本人が望んだわけではないのだとルリサは語る。『忌み嫌われて、歪んだモノ』だとたしかに言った。


 ひとつの縁から凍に届いた連絡。果たしてそれが、なにを意味しているのか。ぼくは決して、その点から目をそらすべきではなかった。

 頭を撫でながら考えているうちに、瀬月は照れくさそうに溶けた笑顔を浮かべて、ぼくを見上げていた。


「……留守番しておいてくれるか?」


 一応聞いておこうと思って口にして、瀬月は「うん」と納得しているように頷いてくれた。

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