夢の館の招待状 ――2――

 薄い緑色をしたリノリウム張りの階段を上る。医院長室があるのは三階だ。

 特に考えることもなかったけれど、昨日の今日のようなことでもあった。話の内容にも予想はつく。ぼくも凍もスマートフォンや携帯電話の類を持っていない。だから、八重霧から連絡を受けるのはいつも笹良だと決まっている。

 この間の件でなにか続報があったか、はたまた光り目事件に関しての別件か。こんな朝早くから呼び出される理由なんてものは、なにもないぼくに用事があるなんてことは、限られる。


 廊下を進み、医院長室と示されたドアの前でコンッ、とワンノック。「どうぞー」と欠伸が混ざる気の抜けた声がする。

 礼儀として返事を待ってからドアノブへと手をかける。記憶がなかろうとそれくらいのことはぼくにだってわかっている。生活する上での常識は別に忘れているわけでもない。


「失礼します」と一応ひと言かけ、ドアを開いて一歩。後ろ手にドアを閉めたところで、部屋の奥に構えられた大きな机についている笹良と目が合った。

 相変わらず眠そうな表情をしていて、全体的にシャープな顔つきはしているのに、気が抜けたようにだらしなく引き締まっていない。耳の下ほどまである黒髪に、細い銀縁眼鏡に薄いレンズがきらりと光る。剃り残した無精髭に、まどろみ帯びる垂れ下がる目尻。整った顔はしているのに、女っけはこれといって聞いたこともなし。通っている若い看護師にも、仕事上の連絡以外で相手にされているようなところを見たこともない。

 笹良は「ふわぁー」と我慢もせずに欠伸をして、返事代わりとばかりに革張りのソファを指した。


 医院長室はそれなりの広さがあって、応接間を思わせる背の低いテーブルとソファが用意されている。こんな山奥の病院(それも訳アリ)ともなれば来客は珍しいはずだけれど、それはもう立派なものだ。実は入院患者がぼくらだけと言えど、儲かっているのだろうか(それもお金は取られていない。八重霧がどうにかしているのだろうか?)。診ている近所の患者さんはそれなりにいるらしいけれど、経営がどうなっているのかは少し気になった。


 とまあ、ただそんなことをぼくが気にしていても仕方がないので、言われた通りにソファへ腰を下ろす。背の低いソファに座るぼくと椅子に腰かける笹良とでは目線が合わず、やや見上げる形になった。


「で、わざわざ瀬月に頼んでまで、こんな朝からなんだって?」


 笹良は眼鏡を上げ、眠たそうに目元を拭いながら返事をした。


「八重霧から電話があった。頼みたいことがあるらしい」


 頼みたいことというのも妙な話だ。『なにかわかったら連絡します』と一昨日彼は言っていたけれど、なんの前置きがないことから考えるに、なにもわからなかったということらしい。やはり、自殺はただの自殺。そこに秘見弥の名があろうとも、なにも事件性はなかった。そう考えておくのが賢明か。


「この前のことは?」

「遺書に秘見弥の名があったというあれか」


 笹良は思い出すことも腹立たしいといった調子で、頭を掻きながら欠伸を我慢する。夜中に電話で叩き起こされたのは他ならぬ笹良なのだから、それもまあ仕方がないのかもしれない。


「警察でも事件性はないと判断されたようだ。それに事が事なだけに、あまり表沙汰にもされていないって聞いたぞ」


 事が事なだけに、ね。場所が場所なだけに、でもある。あの後、あのレストランがどうなったのか。無事営業再開はしたのだろうか。頭を抱えていた剣野義さんのことを思い返すと、ぼくとしてもやや胸が痛い。表沙汰になっていなかったとしても、噂くらいは立っているだろう。


「そっか……」


 ただ、ぼくにできることなんてなにもないのだからやはり他人事だ。


「ただまぁ、どうも無関係ではないらしい」

「無関係ではない?」

「そうだ。どうもそのレストランのシェフからの頼みらしくてな。八重霧を通して、『凍に連絡をしたい』、と」


 それもまた妙な話だ。剣野義さんが凍に頼み事をしたいと思った。まあそれは凍の力を目の当たりにして、なにか思うところがあったのだろうことも想像ができる。

 だとしても、八重霧がそれにこたえる義理はないはずで、そこにあるリスクを凍に背負わせる必要性も感じられない。気軽に頼っていいものではないことくらい、八重霧にだって、笹良にだってわかっているはずだ。

 この前のことは、秘見弥の名が直接関わっていたから例外だとしても、魔眼の力を一般人相手に見せることすら例外だ。剣野義さんとの間にも固く口止めの約束がなされているはず。


「それでも連絡がきた……」

「あぁ、面倒な事にな」


 笹良は気だるそうにこたえるけれど、たしかに面倒なことなのだろう。


「頼みたい……依頼ってこと?」

「まあ、そうなるんじゃないか?」

「凍には、なんて?」

「……まだ言ってないがな。とりあえず先に、おまえに確認をしておこうかと思って」


 確認。一体このぼくになにを確認しようというのだろうか。


「剣野義ってシェフのことは俺にもわからん。直接会って顔を合わせたのは、蒼起だけだろ?」


 それもそうか。笹良がたしかめたいというのは、人となり。


「八重霧が俺に連絡してくるくらいだ。なにか信用に足る部分はあるのだろうがな」


 別に悪い人には見えなかった、といえば正しいのだろうか。気難しそうな印象は覚えたものの、しっかりとした人物だったように思う。別に彼の料理の腕なんかを知っているわけではないけれど、一等地にレストランを構えるにはそれ相応の苦労もしているはず。

 ただ、ぼくとしても剣野義さんがなにを考えているのかはわからないところだ。


「頼み事の内容は?」

「付き添ってほしい、と」


 一体どこへ、なにをしに。


「夜中のうちに情報は仕入れておいた。これだよ」


 そう言って席を立つ笹良が一冊の雑誌を手に近づいてきて、テーブルを挟んでソファの向かいに座った。

 テーブルの上に乗せられたのは有名な観光地などを特集した旅行雑誌。ピンク色の付箋が貼られているページがある。

 ようやく笹良と目線の高さがあった。その目は説明するより見たほうが早いと語っている。雑誌を受け取り付箋の貼られたページを開く。

 木ばかり目立つ山の中腹に、ひっそりと、と言い表すのが正しいように立つ赤い屋根の洋館の写真が載っている。『知る人ぞ知る~』なんて見出しと共に、カラフルな文字で洋館の紹介がなされているけれど、知らなければ知ることもないような、本当になにもない山奥にあるらしい。


『夢占い』――。


 並ぶ単語も、こういうのもなんだけれども、と思ってしまうほどに実に胡散臭いものだった。


「夢占いの館……?」


 半信半疑のままに口にして顔を上げれば、笹良は頷いて「あぁ、そうらしい……」とこちらもまた半信半疑の様子だ。まあ半分どころか、全部乗せて疑ってかかっている勢いだ。


 なにも知らないままに第一印象だけで語るのもどうかと思い、雑誌に目を落とす。見開き一ページを堂々と使って、なにやら記者が体験したらしい『夢占いの館』での一日が紹介されていた。

 ホテルというよりはペンションとして経営されているもののようだ。料理もどうやら経営している方が振る舞ってくれるらしい(それも大変美味しかったというレポートつき)。映画やドラマの撮影には持ってこいのような印象を覚える洋館の全体像が映った写真に、経営者らしきふたりの姿が納められた写真も載せられている。


 白い歯をにかりと見せつける笑顔を浮かべた、清潔感ある大人の色気を持つ男。切り揃えられた灰色の髪に、白っぽい背丈ほどあるローブを羽織って、ピースサインを作る指には金の指輪を三つほどはめている。どうにも信用ならない印象を受けるのだけれど、その男が『夢占い師』として写真には紹介されている。夢目沢ゆめめざわ 志士郎ししろう。四十五歳。


 もうひとり、ペンションの経営を担当すると紹介されている女性も笑顔で写っていた。横にいる男とは対照的に、柔らかく慈愛に満ちた笑顔。長い黒髪をふんわりとサイドテールに結って、濃紺色を主体としたワンピースに、肩かけの真っ白なエプロンをつけたエプロンドレス。いわゆるメイドさんのような格好をした女性が『夢占い師の助手』として紹介されている。猫魔ねこま 夢乃ゆめの。十七歳。

 ぼくや凍と同い年だということが目について、大人びた一人前の表情に、さらに紹介文には料理も彼女の担当だと書かれていて驚かされた。


「問題はその次だよ」


 笹良が指し示すところには、『夢占い』についてのレポートも書かれていた。

 夢占い。人が眠っている間に見る夢を〝視て〟、占い結果を示すものらしい。

 体験した記者の感想は、どうにもあやふやなものでよくわからなかったが、『不思議な体験をしました!』というひと言でしめられている。


 外観の写真に続いて、洋館の内側の写真だろうか。中庭に建つ四角いコンクリートの小屋のような部屋の写真も掲載されていた。そこには事細かにとまではいかないものの、おおよその手順が書かれている。

 宿泊者の中からスケジュールが組まれて、夢占いを受けることができるらしい。小屋の中で眠りについて、その間に占い師が夢を視てくれるということ。一時間から二時間ほどの睡眠を経て、結果は目覚めた後に教えてもらえるとのことまで書かれている。


 記事を読んでいるうちにしっかりとしたルールがあるらしいことまでわかり、意外に思った。その証拠になのか、今や知る人ぞ知るものとなり、人気の宿泊施設になっているとか。その占いの性質上、一度に見ることのできる人数に限りがあるため、予約を取ることも困難なほどらしい。


「どう思う?」


 ちょうど読み終えたタイミングで、笹良がざっくりと聞いてくる。

 率直な感想として言えば、胡散臭さが拭えない。新手の詐欺か、新興宗教の類か、怪しさが抜けきらない印象を覚える。

「そうだよなぁー」と頷く笹良も同意見のようだったが、しかし、それでも気になるところがある。きっと笹良も同じところが気になっている。そして、八重霧がわざわざ連絡をしてきたことも考えると、そこに関係があると確信できる。


――夢を視て、占いをするという概要。


「魔眼か……」


 どう視るのかなんてことはわからないけれど。


「だろうな。だから八重霧も連絡をしてきたんだ」


 やはり笹良も同意見。凍には後で話すと先ほど言っていた。ただ間違いなく、凍がこの話を聞いたらなんとこたえるのかは目に見えるようだ。


「付き添ってほしい……剣野義さんは、この夢占いを受けるってことか」

「どうもそうらしい。もうずいぶん前から予約していたらしくてな。それで亡くなったウェイトレスの女性が同行する予定だったらしいのだが……」


 その予定もなくなってしまった、ということだろう。


「ひとりで行くのも惜しい、ということで、同行者を探していたらしい」


 どういうわけがあったのかはわからないけれど、それで凍に白羽の矢が立った。それはひょっとして偶然か。否、なにか理由はある。それは凍の魔眼を直視したゆえ……か。ぼくにはちょっと判断しようもないけれど、しかし、話は巡ってきた。八重霧を通して、笹良を通して、ぼくを通して。


「ぼくは、凍がどうするかで決めますよ」


 雑誌を閉じて、笹良の目を見て返事をする。


「……まあ、そう言うだろうとは思ったよ」


 ぼくは彼女の杖であるのだから。彼女が向かうというのならば、それに沿うのが道理だろう。


「じゃあ、凍にはこの後そのまま話すぞ」


 ぼくの確認なんて本当は必要がないことだろうけれど、笹良は律儀にそう言ってソファーを立った。

「はい」と返事をしてぼくも立つ。これで話は終わり、どうするかは決まったようなものだ。


 雑誌には宿泊施設だと書かれていた。ということはつまり、この前みたいにちょっと出かけて戻って来られる用事でもないわけだ。泊りがけになる。そこにはちょっとした緊張感も覚えて、後ろ手に医院長室のドアを閉め、部屋を後にした。

 記憶を失って以来、寝泊まりし続けているこの医院を離れることに少しばかり不安もあった。それは裏を返して考えてみれば、ぼくが覚えた安心感がここにあったからなのかもしれない。なにもないと思っていたけれど、ただただ過ごしたひと月にも覚えたことはあった、ということなのかもしれない。

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