夢の館の招待状 ――1――
夢というものは、往々にして経験したことを見るものなのだろうか。
脳に蓄積した情報を整理するために見るなんて説もあるけれど、記憶を失ったぼくに整理することはなく、思い出すこともできやしないのに。
どこか他人事のままに流れる毎日という光景が、この一ヶ月、ただただ流れ過ぎて行った。
生きているはずの自分が見ている世界は、本当は誰のための世界であったのだろう。そこにちょっとした
ぼくにとっては現実も夢みたいなものだから、そう思えてしまっても仕方がないだろう。
ただそんなぼくであっても、眠っている間に決まってひとつの不思議な夢を見る。必ず同じ光景が見えて、必ず同じように巡るものだから、不思議と言い表すしかない。
それが毎晩のように続くこともあれば、忘れた頃に見るときもある。
誰しも毎度見た夢を覚えているわけでもないだろう。ただし、ぼくが覚えていられる夢は決まってひとつ、その夢だけだった。
その日はとても明るくて、心まで晴れやかになるほどに雲ひとつない青空だった。
優しい風が吹く音が聞こえた。春先の暖かい空気が頬を撫でて、鼻先をくすぐる花の香りを妙に懐かしく感じた。開けた小山の上、長い石造りの階段を駆け上がり、こぢんまりとした決して立派とは言えない赤い鳥居をくぐった先で、静かな境内が出迎えてくれる。神社だろう――名はわからない。寂れているようで誰もいないのに、けれどもなぜだか、人の温もりを感じた。
鳥居の先に続く石畳の道に、桜色の花びらが散っている。
吹き上げた風に花びらが舞い上がって、ぱらぱらとバラバラに、はらはらと落ちてゆく。
それはまるで、まとまらないぼくの思考のようにして散ってゆく。
混濁とした意識の中に渦巻いた風、見えていた光景がかき消されてゆく思考の巡りの最中、ぼくは縋りつくように手を伸ばして考える。
そこを訪れた意味がなにかあったはずで、そこにはなにか大事なものを置いてきてしまったような気がした。というのに、思い出すことはできず、思い出そうと頭を捻れば、ズーンとした重い痛みが襲ってくる。
ふらふらとした足取りで膝をついて、ふと空を見上げれば、蒼空が――とても眩しい。意識を手放すようにして、ぼくは眠るように目を閉じる。
あぁ、きっと……もう目覚めることもない――決まって最後にそう考えたところで、いつも夢だと気づくのだ。
◇◇◇
その夢を見た日は決まってはっきりと目が覚める。ハッと目を開くと、そこにはもう見慣れた病室の白い天井が広がっていた。ぼくが入院という名の
白いシーツに白いベッドカバー。腰ほどの高さがある鉄組みの丈夫な担架にもなるベッド。部屋の中に置かれた棚にはなにも入っておらず、ベッド脇に置いてあるサイドテーブルの上には、小さなアナログの目覚まし時計と、申し訳程度に花瓶に活けられた青い一輪の花が飾られている。薄いクリーム色のカーテンの裏からは、昇りはじめた朝日が差し込んでいた。
目覚まし時計を手に取れば、針は七時をちょっと過ぎたところを指し示す。早起きするにしてもちょうどよい時間だろう。時計を元の場所に戻し、ベッドより抜け出して、白いスリッパを履いて立ち上がる。「んっ」と伸びをしてカーテンを開ければ、飛び込んできた眩しい朝日に自然と目を閉じた。
「また、あの夢か……」
他人事のような話だけれど、どうってことない、いつもの光景だ。
眩しさに慣れて目を開けば、緑ばかりの景色が飛び込んでくる。窓の下に広がる芝生一面の庭と、その先に続く木々。自然溢れる山々の影から顔を出す朝日が目覚めを歓迎してくれているようだ。雲も少ない晴れ空。もう六月、梅雨入りしたとも聞いたけれど、今日もいい天気になるらしい。
足を引きずるようにして部屋の中に備えつけられている洗面台へ近づけば、ボーッとした男の顔が鏡に映った。
よれたスウェットの上下姿はだらしなく見える。見てくれはいいほうなのだろう。ただどうもパッとしない顔つきをしている男が、鏡を通してぼくと目を合わせる。
それがまあ、ぼくの顔ではあるのだけれど、それすらもう自分のもののようには思えなかった。
記憶を失くしたぼくの身元を証明するようなものは見つかっていないと聞いているけれど、そこになにか理由があったことくらい、記憶がなくたってわかる。
唯一覚えていたことは、『
そこからどういうわけだか紆余曲折あって、ここ、足桐医院で世話になることになった。別に入院の必要性がある大きな怪我をしているわけでもなかったのだけれど、『ここに入院していたほうが、都合がいい』というのが、ぼくを保護してくれた警察の人間、
足桐医院と言えば、都内(といっても都心部から離れた西のほう)山奥にある入院施設が併設されたちょっとした大きさの個人医院だ。
正面玄関には立派な庭園まであり、白い清潔感ある三階建ての病棟が構えられている。そのうち、上ふたつのフロアがぼくらの住む入院施設と医師たちの部屋。勤務する医師は医院長である
どうして八重霧が『都合がいい』なんて言い方をしたのかというと、この医院が訳アリだったから。入院している患者はぼくを含めて三人、その全員がぼくのように訳アリなのだ。八重霧が担当しているのが光り目事件、その関係者だといえばわかりやすいかもしれない。
隣の病室、202号室に住むのが、ぼくが覚えていた唯一の存在、秘見弥 凍。
秘見弥という魔眼を継ぐ一族から除けものにされた、行く当てなき盲目の少女。
さらにその隣203号室には、
彼女もまた光り目事件に巻き込まれて、行く当てをなくして世話になっているらしい。
まあ互いに訳アリ同士、余計な詮索をすることもなく、そんなこんなで奇妙な事情が靄に包まれたまま、ぼくがここで暮らしはじめてから一ヶ月。過ぎて行く時間を眺めていると早いものだ。
洗面台についた蛇口を捻れば、新鮮な山の天然水がジャージャーと溢れ出た。そっとすくって顔を洗い、目を覚ます。蛇口を閉めてタオルを取って顔を拭き、もう一度伸びをして欠伸をする。
そういえば、あれから八重霧の連絡はないらしい。夜中の急な呼び出しから早二日。先日のことは秘見弥の名が出ていたものの、なんの成果もなかったということになる。
凍はあの場で口にした通り、世に出てくる魔眼の力を追っている。
そこにどのような理由があるのか、そこにどのような覚悟があるのか。残念ながら今のぼくにはわからないけれど。それが彼女の望みだと言うならば、付き合ってあげるのがぼくの役目なのだろう。
ぼくは彼女の杖であり、彼女は、なにもないぼくの行く先を示してくれる杖なのだから。
――コンッコンッコンッ!
と、目を覚まして考え事をしているところで、軽快に部屋のドアがノックされた。こんな朝からなんだろうか、と振り向き様子をうかがっていると、返事をする前に横開きのドアが引かれる。
「あおくんっ! 起きてる?」
ぼくのことを『あおくん』などと気安く呼んでくれる当ては、その姿を見るまでもなくひとつしかない。
切り揃えられた明るい茶髪を揺らして、朝日に負けない無邪気な笑顔を浮かべる女の子がドア先には立っていた。ぱっちりとした目が印象的で、笑顔は無邪気なものの大人びた印象を覚える口元。身長は凍よりも低く全体的に小柄、まだ十四歳の成長盛り。ファンシーな淡い桃色の上下のパジャマに、ちょこん、きゃぴっといった効果音のついていそうなウィンクとピースを飛ばしてくるのが、隣の隣の病室に入院している、瀬月 梨離紗だ。
「起きてるけれど」
返事をすれば問答無用といった調子で部屋の中へと飛び込んできた。人懐っこく表情をころころと変えて、ぱっちりとした目を上向きにして見つめてくる。
「おはよ、あおくん!」
手を上げて挨拶してくれる様はなんとも元気な調子だ。目はすっかり覚めていたものの、そのテンションに朝から付き合うにはちょっとばかりしんどいところがある。
「あぁ、瀬月。おはよう」
だからいつも通りにこたえてやった。
「それにしても、瀬月も早起きだな」
朝の七時。眠たい盛りの子は眠っている時間だろう。
「にへへ、早起き! 定期健診だから! えらい? ねぇ、えらい?」
居候のぼくとは違う入院患者特有の予定か。体を斜めに振って付き纏ってくるようなテンションに、ぼくはつい一歩後ろへ下がってベッドに腰を下ろした。
「あぁ、えらいえらい」
「やったー! 褒められた!」
付き合っているとずっと彼女のテンションに乗せられそうだった。だけれど、飛び跳ねるように目の前で無邪気に笑われてしまえば、適当にあしらったことがちょっとした罪悪感にもなる。
「じゃなかった、笹良ちゃんがお呼びだよ、あおくん」
ため息をつこうかと息を吸ったところで、急にテンションを素に戻したようにして、瀬月がそう言った。
瀬月は『笹良ちゃん』などと呼んでいるが、医院長の足桐 笹良は三十を過ぎた、言うなれば立派なおっさんだ。だらしなく白衣を羽織って無精髭も目立ち、かけた眼鏡も斜めになるような気だるい雰囲気を纏ったおっさん。だからこんな子にも舐められるのだろう、と思わなくもない。
ただそんなおっさんであっても、彼からの呼び出しとあっては無視するわけにもいかない。仮にも現在ぼくの身元を引き受けてくれている人であり、数少ない凍の味方でもあるのだから。
「わかったよ、笹良が……」
「伝言を持ってきたわたしに、お礼は?」
にこにことして目をぱちぱちとさせる瀬月に、ぼくは「はぁ」と息をこぼしてからこたえる。なにもしないでいるとテコでも動かない雰囲気がぷんぷんとしていたので、仕方なく頭を撫でてやった。
「ありがとな」
「にへへー」と溶けたように笑顔を浮かべて、瀬月は飛び跳ねながら背中を向けた。「わーい」などと口にして、子供っぽくパジャマの裾を揺らしながら、ドアのところで振り返る。
「花丸満点だよ、あおくん!」
朝日に照らされる彼女は、それはもう花丸を咲かせたような笑顔を浮かべていた。
そのまま横開きのドアを引いて、彼女が部屋から去って行くと、病室は嵐が過ぎ去ったかのようにして静まり返った。
実に嬉しそうな笑顔だった。まあ、喜んでくれるならそれでいいか。対応の是非については、甘やかしていいものかについては考える余地はあるけれど、彼女に対してはそれでいいのだろう。
朝からちょっとした疲労感を覚えたものの、ぼくはそのまま着替えもせず、部屋を後にした。
一体なんの呼び出しだろうか、なんて考えるまでもなく、それはきっと大事な用事だ。こんなに朝早くから、わざわざ朝の定期健診を終えた瀬月に伝言を頼んでまでのこと。きっと瀬月ならば、ぼくが眠っていても問答無用で病室へ入ってきて起こされていたことだろう。
そう考えると、そこにはなにか事件の予感があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます