第10話

 ハシェンの滞在先かつ隊長の仮の生家である屋敷は、ヨバの屋敷から南へしばらく向かった先の、海の近くだった。昼間なら遠くに海が見えただろうが、残念だ。

 隊長を息子として迎えた家族達の挨拶を受けたあと、隊長の支度が終わるまで部屋で待つ。石造りなのはうちもヨバの屋敷も同じだが、質の良い調度品や潤沢に使われた布で財力は推し量れる。かつて宝物庫で見たような異国情緒溢れる置き物もあった。やはり、次期王を引き受けるだけはある。部屋のあちこちを見て回ったあと、センのものに見える卓に用意されていたナツメヤシの実をつまんだ。

「富める家ですね。次期王を受け入れるだけはあります」

 近づく気配に伝えると、背後から伸びた手が同じようにつまむ。

「ここも、うちの部族の出だ。元は、メナムとの交易の橋渡しをすることで栄えた部族でな。街にも拠点があった方がいいだろうと、住まわせたんだ」

 ああ、と納得して確かめた隊長は、いつもとは違う亜麻の一式を身に着けて金の指輪をはめていた。

「よく似合っていますね。見違えました」

「普段は砂埃に塗れてるからな」

 隊長は軽く笑い、種を吐き捨てる。苦笑して、自分の種はきちんと小皿に出した。

 さて、行くか。

 促す隊長の手に頷き、緊張の滲む手で亜麻の前を少したくし上げる。深呼吸をして、ハシェンの待つ部屋へと向かった。

「主人が言うには、『気難しくて扱いにくい客人』だそうだ。宴も拒み、部屋にも殆ど人を近づけないと」

「そうなのですか。かつては人懐こくて好奇心旺盛ないたずらっ子でしたが……まあ、もう六年も経っています。私が十六ですから彼は十八、二人共に大きく変わったことでしょう」

 私の願いを聞き入れてくれるのだろうか。アテナン王は全てハシェンに任せると書いていたが、断ると分かって任せただけなのかもしれない。湧いた不安を宥めた時、大きく目の前の扉が開かれた。

 懐かしい礼をして、少しずつ部屋の奥へと進む。隊長が背後に控えたところを見ると、身元は明かしていないのだろう。

 私の通された部屋より更に豪奢な室内は、メナムの装飾に合わせているのだろう。あちこちに置かれた灯りに金が照って美しい。

 ハシェンは部屋奥の長椅子に腰を下ろし、肘掛けに肘を突いた姿勢で私を眺めていた。リシェマとサマティラは、男女共に長袖の衣の上に上着を羽織り頭巾を被って日差しから肌を守っているが、メナムはその逆だ。ハシェンの上半身には、メナムらしい青紺石せいこんせきが美しい首飾りと、金細工の細やかな腕輪しかなかった。彫刻のような腹を一瞥して、前へ進み出る。

「ご無沙汰をしております、ハシェン様。シャヤでございます」

「亜麻を取れ」

 近くでひざまずいた私に、少し硬い声がした。素直に被っていた亜麻を脱ぎ、視線を上げる。黒々とした凛々しい眉を少し顰めて見据えるのは、確かにハシェンだった。

 瑞々しく膨らんでいた頬は引き締まり、足りない灯りにも深い彫りは際立って見える。メナムには髭を伸ばす習慣がないから、顎の辺りもすっきりとしたものだ。

「王の言いつけは守ったようだな」

「はい。このように」

「要らぬ」

 続けようとした説明をあっさりと拒否して、ハシェンは手を払った。

「私は王にお前に会えとは言われた。ただし、お前の話を聞くかどうかを含めて、全ては私に任せると。帰れ、話すことは何もない」

「ハシェン様、お願いいたします。どうかお力をお貸しください。このままでは、危険を顧みず我が身を引き取りここまで育ててくれた男が牢の中で命を終えることになります。それだけではありません。レアブがサマティラ内を揺らしているのはご存知のこと、このまま祝祭を迎えれば戦の引き金が引かれかねません。そうなれば、メナムにとっても少なからず脅威となりえましょう。ですので、どうか」

 頭を床へすりつけて願う私の耳に届いたのは、深い溜め息だった。

「……男勝りにそれほど頭を働かせながら、なぜたった一つのことが分からぬ」

 ゆっくりと顔を上げた私を、ハシェンは射るような視線で見下ろす。

「私にその生存を伝えることは、それほど難しいことだったか。たった一言、『生きている』と伝えることさえできぬ六年だったのか」

 激しさを含む言葉に、自分の視線が揺れるのが分かる。……私は、待たれていたのか。

「お前はどのような思いで私がここに座っているのかも、決して分からぬのだろうな」

「申し訳ございません。私はまだ十歳で、恋を知るには幼すぎました。あなたに、どのような思いを向けられていたのかも」

 私にとってはまだ、友の域を出ない思いだった。当然ハシェンもそうだろうと、やがて忘れていくだろうと信じていた。少しでも思い至っていれば、どうにか一筆を届けたはずだ。でも私は、その考えが浮かばなかった。

「それが、今の男か」

 ハシェンは体を起こし、顎先で後ろを差す。

「えっ、いえ、私は男として暮らしておりますし、彼は王宮の」

「謀るな。私が何も知らぬと思うのか」

 きつく響いた声に、思わず黙る。まあ、そうか。外交の裏で諜報を行っているであろうハシェンが、気づいていないわけはない。

「砂漠の民は、混乱に乗じて王を立てるような連中だ。大層鼻が利く。お前が『失われた王女』であることなど、とうに知っていたはずだ。そういえば、アビムと取り引きしてリシェマの内乱に加担し、その見返りとして王の存在を許されたとの噂もあるな」

 ハシェンは目を細め、挑発するように隊長へ投げる。大国メナムにとっては、サマティラなど取るに足りない存在だ。同じ王子でも、必然的に立場の差が生まれてしまう。

「混乱に乗じて王を立てたのは事実だ。だが内乱に加担したことはない」

「それは、お前が知らされておらぬだけではないか? お前の父に問えば、違う答えが聞けるやもしれぬ」

 尚も言及を緩めないハシェンを、隊長はじっと見据える。

「私はシャヤと話がある、席を外せ。二度は言わんぞ」

 追い払うように払われた手に、私を一瞥して部屋を出て行った。

「邪魔者は消えた。これでようやく話ができるな」

「ハシェン様」

「ハシェンで良い、シャヤ」

 少し声の柔らかくなったハシェンが、手招きで私を呼ぶ。

「あのような牽制は、すべきではありません。アビムはメナムへ情報が流れるのを恐れて、ほかの部族に協力は求めませんでした。サマティラの王擁立を認めたのも、平定もままならぬ国内に攻め入られるのを恐れたためではないですか」

「言われずとも分かっている。だがお前も、あの男がお前の不安を宥めるためだけにそこに立っていた、などとは言わぬだろう?」

 私を隣に座らせ滑らかな手で頬を撫でたあと、耳飾りに触れた。

「これは、お前が作ったのだろう」

 頷くと、懐かしいものを見るような優しい笑みを浮かべる。顔立ちは骨っぽくなっているが、変わらないものもある。

「素晴らしい赤紅玉しゃっこうぎょくだ。父も、手紙に添えられていたシュは大変に美しく、間違いなくシャヤの目が選んだものだろうと綴っていた。『シャヤは生きている』と」

「私の生存は、ご存じなかったのですね」

「ああ。こちらから調べることはできなかった。知ってしまえば、前王とのよしみで救わねばならぬ。しかし救えば、リシェマの関係が更に悪化する」

 溜め息交じりに状況を告げ、細い眉間に皺を刻む。楽な状況でないのは分かっている。睨み合うメナムとリシェマ、その間に位置するサマティラ。

「メナムは既に強大な国だ。現在の領土を治めるだけでも楽なことではない。リシェマと戦えば勝つだろうが、その後の統治に見通しが立たぬ。もし攻めるのなら、まずは『ここ』だ」

「ハシェン」

「お前は分からぬ者ではないだろう? 国同士は腹を探り合うもの、だからこうして至るところに間諜かんちょうを撒いている。お前がそのどこにも属さずいられたのは『失われていた』からこそだ。だが、再びその名を蘇らせた以上はそうもいかぬ」

 諭すハシェンの声に、俯く。見逃されるとは思っていなかったが、やはりこうなるのか。

「お前の願いは叶えてやる。ただ、その首飾りをつけるのは王妃ではなくお前だ、シャヤ」

 再び触れた手の内から、ゆっくりと視線を上げた。

「義父を一日も早く牢から出したいのだろう。それなら首飾りが出来次第、お前が身に着けて私と共に王宮を訪問すれば良い。祝祭を待たずにな」

 確かにそれなら、いち早く義父を救い出せるだろう。他人に丸投げせず、自分でもどうにかできる。でも。

「いつまでも男の真似は続かぬ。女に戻り私のために生きよ、シャヤ。ほかに道はない」

「ハシェン、私は……まだ、決められません」

 ハシェンの元で間諜として働くのは、決して悪い策ではない。私の持てるものを発揮できる道には違いないだろう。でも、何かが引き止めるように答えを渋らせた。

「そうか。だが私は既に六年待っている。これ以上、待たせるな」

 ハシェンは私を引き寄せ、抱き締める。小さく私を呼ぶ切ない声に、胸が締めつけられるような心地になった。

「私を救えば今でも、リシェマとの関係悪化は避けられぬはず。弱みを作られるのは、よくありません」

「恋を知らぬ者の言葉だな。知れば、そのようなことは言えぬ」

 耳元で囁く甘い声に、顔が熱くなっていくのが分かる。こんな時は、どうすればいいのだろう。正解が見つからない。

「私よりお前の無事を願い、喜んだ男がいると思うのか」

 少し責めるような問いには、小さく頭を横に振る。さすがにそれは、私でも分かった。ハシェンは私の頭を優しく撫でたあと、また抱き締めて長い息を吐いた。


 特別何かをしたわけでもないのに、とても疲れた。

「六年前は屈託のない笑顔がかわいらしい子だったんです。あんな……まあ、いいですけど」

 帰りも行きと同じらくだに乗り、行きよりぐったりと隊長の胸に身を預ける。

「六年もあれば、どうにでも変わるだろ」

「そうですね。私も六年前は、こんな人生を歩むなんて考えたこともありませんでした。あのままずっと、宝物庫の番人として生きていくものだとばかり」

 予想していた未来を伝えると隊長は笑い、胸が少し揺れた。それでも、鼓動は一定に刻まれ続ける。

「あなたの胸は、落ち着きますね。気持ちが安らぎます」

 欠伸を噛み殺して目を閉じると、心地よい揺れも相俟って眠気に襲われる。

「寝てもいいぞ」

 許す声に甘えて、そのまま眠ることにした。

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