無音の喝采

丹路槇

無音の喝采

通勤と逆方向の下り列車に乗るのはいつ以来だろうか。途中で武蔵野線に乗り換え、南浦和駅で下車。ロータリーを出て緩やかな坂道を登っていくのが懐かしい。交差点の向こうにある市民文化センターの大ホールを目指す。

時間を確認するために手首にはめたスマートウォッチをタップした。今年の結婚記念日に妻から贈られたばかりのそれは、家庭内の自分の価値が顕在化しているようにも捉えられる。記念日はおろか、誕生日すら見過ごされて小遣いを目減りさせられる同僚諸君の悲しき処遇を聞いていると、僕たちの夫婦仲はかなり良好な方だと思う。

時間と共に携帯電話の本体に蓄積されている通知の冒頭部分だけ確認する。今日は職場の部署の集まりでバーベキューをしているので、その写真共有が多い。

部長職に就いてからも、職場の人間関係は頗る良好だと自己評価している。若い独身の後輩たちも会合に僕を誘ってくれるし、こうしてやむなく不参加の日にも、気さくに現場の様子を連絡までしてくれる。

それを微笑ましく思う一方、そろそろ我が子と同世代の子らと働く時期も間近に迫ってきたな、と胸中に穏やかな斜陽を見ている。

今日は仕事でも夫婦の趣味である観劇でもなく、子どもの部活動の様子を久々に観賞する予定だった。中学の部活引退以来、観客として赴くのはしばらくご無沙汰だったので、そのわずかな本番の時間を見守るだけでも自然と心が逸る。

かつて自分たちが挑んだ舞台と同じで、今日もてっきり所沢ミューズが会場になるのかと思っていたが、昨年に続き今年も南浦和で行われるらしい。今日は吹奏楽コンクール高校Aの部、埼玉県大会の日だ。

僕はこれから、かつての母校の演奏を数十年ぶりに鑑賞することになる。同じ高校に進学し、同じ吹奏楽部に入部を決め、今年やっと〈乗り番〉になれた息子の、晴れ姿を見るために。

アスファルトがたわんで見えるくらい歪な光景に、坂の途中にあるコンビニへ堪らず駆け込んだ。少し歩くだけでも息が詰まるような暑さだ。扉を押し開くとどっと流れ込む店内の異常な冷気でも、首の後ろにだらだらと滴る汗を妨げることができない。

雑誌コーナーを素通りして、壁面いっぱいにディスプレイされているドリンクから緑茶のペットボトルを引き出す。体脂肪が気になるので燃焼機能がある少し高めのものを買うのが癖になっていたが、今日は水分補給を優先して、安価で大容量の物を手に取った。レジの方へ向き直ると、同じような世代の人が既に数人並んでいる。扇子を忙しなく振るご婦人の手に塩飴が握られているのが見えて、きょろきょろと周囲を見回し、同じものを見つけてひとつ確保した。

僕の前に並ぶ人は、濃紺のポロシャツを着ている長身の男性だ。襟足にかかる後ろ髪が汗を吸って束になっている。毛先に溜まった水滴が不潔に見えないのは、この人が纏う特有の雰囲気なのか。

たまたま後ろに並んだだけの僕が、気づけば不躾にもその男性の出立ちを具に観察していた。見ているだけでは迷惑にはならないだろうと購入するものなどに目を落としていると、その手は持ち替えられ、鞄から取り出したタオルハンカチで頸の汗を擦り取った。代謝の良い人なのかと思い、拭われた後の首まで盗み見た。

出来物というには大きな瘤がいくつか浮かび上がっている。汗疹のような皮膚炎でも起こしているのかと思っていると、前に並ぶその男性は、不意に此方へ振り返った。

「お急ぎでしたら、どうぞお先に」

親しげな言葉に反して、その声は足下に落ちるような重々しさを感じた。暑さのせいかもしれない。この酷い外気の熱と湿気は、人を容易に不機嫌にさせるから。

僕は「いえ、大丈夫です」と微笑んでから、視線をまた下へ流した。彼が前に向き直り、レジへ案内された後、もしかして後ろからじろじろと見ていたのを咎められたのかとやっと気づいた。僕は昔からそうやって無遠慮に人の不可侵の領域に踏み込みすぎた結果、よく知り合う前に嫌われてしまうという失敗を繰り返してきた。

仕事や家庭ではこれでも精一杯、努力をしているつもりだ。それでも時折こんな風に一時のぼろが出てしまうあたり、いい年になって嫌な性分が残ったものだと自嘲する。


文化センターのエントランスを通り、大ホールへ続く階段をのぼる。コート加工された立派なプログラムを受け取り、全席自由の1階客席へ入った。今日は2日に及ぶ県大会の2日目で、この大会日の出場校だけで西関東大会に進む高校が選抜される。金・銀・銅の各賞が与えられ、金賞は上位大会の出場権獲得を意味するが、中には出場権のない金賞、いわゆる〈ダメ金〉も出るシビアな戦いだ。

妻は息子の部活の時間に合わせて朝早くに出かけ、高校へ一度赴き、それからこの会場まで帯同してきているはずだ。保護者会というにはハードな業務で、おそらく客席で座って曲鑑賞することはなく、部員が帰還するまで無償のサポートをやり遂げる。

なぜそこまで熱心にするのかと少々疑問に思いながら見守っていたが、どうやら彼女は息子が夫と同じ高校へ入り、夫と同じ部活、夫と同じラッパ吹きになったということを大変誇りに思っているようで、その支援を半ば生き甲斐のように嬉々としてやっていた。

息子はむしろその追い風に少し煽られ気味に部活に参加しているようである。演奏は楽しいし、センスもからきしないわけではないが、この先大学へ進学後にオケやビックバンドに加入したいとか、まして音大を考えるなどという余地は無さそうだった。

開演前のアナウンスが流れる。1階席はまだ通路を行き来する人があって落ち着かない。携帯電話をマナーモードにセットして、暗転を待つ。

ステージ脇の壁に設置されたデジタル時計を見る。ホールに施された戸板が重なったような壁面の形状をぼんやりと眺めた。所沢ミューズであれば開かれたステージの上に堂々たるパイプオルガンが荘厳に聳え立っている。高校のコンクールで所沢ミューズのステージに立ち演奏をして以来、僕は其処で演るのも聴くのもとても好きだった。最後に演奏したのは、市民交響楽団を辞める少し前だっただろうか。


緩やかに照明が落ち始めた会場で、再び意識の焦点が間近の通路へ向けられる。まだ席を探して行き来している人がいるようだ。身内との待ち合わせか何かだろうか。

プログラムの中に折り込みされているチラシをうっかりして床に落としてしまった。隣の席にも光沢紙がするすると滑り出したが、幸いにもその席はまだ誰にも使われていない。端々に皺や折癖が入るのも構わず一気に掴んで取り上げる。チラシを除けてすぐ、その空間に品の良い薄灰のデッキシューズが歩みを止めて留まった。あれ、この靴は、最近何処かで。

ふと顔を上げると、それは先のコンビニで僕がじろじろと見ていたあの男性だった。

「お使いですか」

「いえ、空いてます」

それでは、と彼は小さく頭を上げて客席に腰掛ける。上背のある体格に反して、人が尻を置くにしては軽い衝撃だった。この頃の若者によく鍛えているが女性のように線の細いといったタイプの男性は職場でもまま見かけるが、それとは少し違う心許なさを覚えたのは何故だろう。

彼は暫くじっと前方のステージを見ていたが、次第に少しそわそわし始めて、緩く暗転が始まっている会場内をちらちらと目で追う仕草が見られる。それを察してからこちらもつられて落ち着かなくなり、お茶でも飲みたいところだが彼の膝前を横切ってロビーに出る勇気もなく、またパンフレットに目を落とした。

さしあたり母校の、つまり息子の出場校の演目を見る。課題曲は5曲から選択可能だが自分の頃と同じく、今年もマーチを挙げていた。

自由曲は「交響詩ローマの祭り」。これも当時の好敵手であった近隣の高校が引っ提げてきた曲目でよく覚えていた。

僕たちが演ったのは「中国の不思議な役人」。今年も前日の大会で選曲されていた、いわゆる自由曲の定番だ。

出場校は半分は古参の強豪校で、2つあるシード校はこの地区の王者と言っていい。県内は公立に男子校、女子校共に文武両道を謳う熱心なところが多いが、今年も共学校ばかりが目立つように思えた。

隣の男性はやはり頻回に視線を動かしては何かを探しているように見える。まさか手洗いかと思い、生理現象は死活問題だと決め込んで、僕はまたここで悪い癖を出した。

「あの、トイレでしたら曲間で行けますよ。休憩もあります」

突然不審な中年男性に話しかけられた隣席の人は、びくりと肩を立てた。目が合う。

これは驚いた。まるで西洋人形みたいな、見たこともないような美丈夫がそこにいた。

頬は重ねた年に合わせて落ち、瞼の下は細やかに皺が交差して刻まれている。しかし大層な相貌だ。眉は描かれたように緩やかな弓形に引かれ、目の上にかかる睫毛はくっきりと輪郭が現れるように並べられている。瞳は飴色と呼びたいほどの薄茶、少し濡れた黒髪は生来持っている艶やかさであると讃えたい。

先ほどの僕はどうして彼の顔も確認せぬまま目を逸らしてしまったのかと胸中で小さく溜息をついた。

きっと同じように、息も忘れるほどの美麗な細君との間に今は高校生になるお子さんがいるのだろう。

いや、ひょっとすると彼は役者かタレントなのかもしれない。テレビ以外の芸能はすっかり疎くなってついていけていないから、僕が知らないだけで有名人とか。業界の人が何も全員が世田谷に住んでいなくてはいけないということもない。

尋ねたこちらが変な顔をしていたからか、突然話しかけられた隣席の男性はしだいに表情を崩していった。

「お手洗いは、大丈夫。さっき場所を確認しました」

「そうですか」

「ここにはいないのですね」

「誰が、です?」

「演奏者……高校生たちは」

なるほど、彼は子どもの姿を探していたのか。会場のことを事前に聞き及んでいないことは少々意外だった。完璧な出来の人を見たら家庭も何一つ不足のないものだと思い込むのも、自分の悪い癖だとすぐに気づく。

「出場順に来ますからね。自分たちの出番が済むまで、基本的に聴きに来ないのだと思いますよ。終われば2階席から、終盤はこちらの1階席にも来ることも……ああ、これは古い記憶で、今もそうかは分からないんですが。すみません」

穏やかな冷房の中でも話しながら背にじわりと汗が滲んだ。仕事でもここまで上がることなどもうないはずなのに、今日の僕はどうしてしまったんだろう。

ちらと横を見遣ると、男性は濃紺のポロシャツの上のあたりを引っ張り仰ぐような仕草を見せた。それを勝手に、自分と同じようにこの会話に幾分か心地良い緊張を持っているのではないかと解釈してしまう。

アナウンスと共に客席は一気に暗転する。開演のブザー音に紛れて、隣からほとんど聞き取れないくらいの声が聞こえた。

「そうですか。ありがとう」

こちらがそれに応える前に、ステージ上へ歩み出た主催挨拶が始まる。僕のつまらない性分で、壇上に偉い人がいて何かを話し始めると、否応無しに口を噤んでしまうので、しばらく隣席の様子を窺うことも叶わない。


3校の演奏が終わった。課題曲と自由曲の演奏は制限時間が12分。入れ替えもあるのでうまくいっても1校15分はかかる。間もなく開会から1時間が経とうとしていた。

今のところの感触では、3校目の私立高校が抜きん出て優れていた。おそらく金賞に入ってくるだろう。審査員気取りでプログラムにペンで印を付けていると、隣人となった壮年の美丈夫は矢庭にこちらを覗き込んだ。今度は僕の方が驚いてぐんと背を伸ばす。

「……あの」

その距離が思いの外近かったことに肝を冷やし、何やらいけないものを覗き見されている気分にもなって、おずおずと声をかけた。

「ああ、すみません。何を書かれているのかと思って」

男性はさっと目を逸らすと、同じページに山谷を逆さに折ったプログラムを目元に近づけて文字を確かめている。僕はもう老眼が始まっていて、むしろそんな風に紙を顔に近づけると霞んで何も読めないくらいだから少し不思議に思った。

彼は手元の印字された曲目をゆっくりと確認すると、僕から見れば大仰に、苦行が済んだかのような吐息を漏らしている。その様子をまたも無遠慮に眺めてしまっていたことをごまかすように口を開いた。

「これは……子どもが出ていない高校の演目は、どうも気が削がれてしまって。偉そうに審査の真似事のようなことをしています。ご不快でしたら……」

「いいえ。ご経験が?」

薄暗いステージで椅子と打楽器、ハープの配置変更がされる中、彼のさほど潜めない声が耳元を擽った。僕はこれが単なる社交辞令と分かっていても、気づけば自分が高校時代の華々しい吹奏楽生活を語りだしてしまっていた。

次の高校の演奏が始まった。12分後に喝采の拍手が鳴り止むと、隣席の男性は「それから?」と静かな笑顔で先を促す。先ほどコンビニで出くわした折の、人を跳ね除けるような声はやはり酷暑による嫌厭だったのか、とぼんやり思案しながら、僕は所沢ミューズでトランペットを吹く在りし日の少年の話を、各校の演奏が終わるたびに彼に朗々と話し続けた。

彼は時折相槌を打ち、分からないところだけ口を挟み、僕がにわかの演奏知識を説明すると、感心して頷いてみせる。こんな例えはおかしいと思うが、学生時代に履修している教養科目で狙っている女の子と隣の席に座れた時のような、空回りには違いないがそれを恐れる暇もないというような、不思議な高揚感に満たされていた。

そうこうしているうちにアナウンスが息子の高校の出番を告げた。途端に話を打ち切った僕を浅く見据えた後、彼は「次、ですか」と言葉をかける。

「そうです。少し緊張します」

「ええ」

目映い白光が集まったステージに、揃いのジャケット姿で高校生が入場する。金銀に光を照り返す管楽器を腕に持ち、続々とひな壇に上がっていく。トランペット、トロンボーン、ホルン、木管楽器はオーケストラの弦楽器のような大所帯、サックス群、ダブルリード、ハープ、打楽器。

息子はトランペットのトップ奏者のふたつ隣に座っていた。セカンドのオーディションに通ったという話を聞き及んでいる。酷く緊張しているのか、彼は着席してから唇を舐める仕草を繰り返していた。

着席した全員が楽器を脇に抱えて譜面の準備をする。音符はもちろん、奏法まで全員がすっかり暗譜している、本番では見返すことの無い〈お守り〉だ。

オーボエの基準音でチューニングを行う。最後に指揮者が現れる。

指揮棒がステージライトに照らされて鋭利に浮かび上がる。一瞬ふわりと浮いたそれは、躊躇いなく打点まで急降下し、はじめの音を一斉に会場に鳴らした。


高校時代に恩師に言われたことを思い出す。客席で聴く各校の演奏は、上手だと思うのは段違い、普通と思うのが大抵自分等よりも優れており、下手だと感じるところが同じレベルなのだと。

今年の母校の演奏は、はじめの一音から総じてなかなかに優れていた。時折、音程の崩れが耳につくところがあるが、トゥッティでの致命的なミスはない。無難にまとめられていてほっとした、というくらいなのだから、きっと普通かそれよりも上手、というところだろう。数回聞いた曲目で少し飽きてはいたが、直前の高校よりは音楽的で抑揚と叙情が感じられて良かったと思う。

課題曲の演奏は難なく終了する。

自由曲は、とにかくトランペットのファンファーレが見せ場であり、最大の難関だ。金管の腕に自信のある高校が挑む曲目で、ホルンやトロンボーンなどの中低音も踏ん張り所が多い。

各パート高音域が続くスタミナ勝負の曲に臨み、まっすぐ客席に向けられた金管の連なる朝顔の群像が若き果敢さの象徴に見える。

銀色にメッキした美しい金管楽器たちが朗らかな旋律を折り重ねて奏でる。会場の2階の最奥を見据えているのか、やや上を向いた奏者たちの顔は凛々しく、そして盲目的だ。

これまで数多の時間を費やし、日々の研鑽で不可能を可能にし、それを体現できた今この時が、高校生活に冠する誇りになる。そう感じられる悦びがある。

当時、同じ部員として晴れ舞台に挑んでいた自分の姿と重なった。あの頃はこれが世界の全てだと思っていた。

書かれた楽譜通りの音符を奏で、純正律で適切な和音の音程を打ち抜く強弱や打点の硬軟などの表現全ては顧問に指導された解釈の通り、その1曲のことだけを考えて半年間を過ごす。

だがそれでいいのだ。さも大人になった気でいる全能感に溢れた高校3年間が、実は大人に手取足取り組織の一員であることを教え込まれる日々だったということを、後になって知ればいい。

反発や不満があっていい。その世界の中で一等でなくていい。セカンドパートを雄々しく吹く息子の姿を見て、ひしひしと追憶を味わう。

12分の演奏が終わった。最後の音の残響が大ホールいっぱいに波及し、心地良く消滅していく。それが完全に失われる寸前に、どっと拍手が鳴る。努力と健闘を讃えるものだ。立ち上がった演奏者たちは、声も表情も殺して、黙したまま客席を俯瞰している。

遠く壇上に起立する、家では言葉少なになった息子の目を見た。君には今、何が見えているのかな。あの時の僕と、少しでも違う景色を見ていてくれと密かに願う。

妻が喜ぶからといって父の真似事をしなくてもいい。今日を境に退部してもいいと思っていた。でもそれは、結局はこちらの独り善がりだ。僕は居間で口下手に笑っているおじさんをするのが似合っている。息子の遅れた反抗期を穏やかに見守る覚悟は、とっくにできているのだ。


隣席の男性の様子がおかしい、と思ったのは、残り5校の演奏を控えての頃だった。

彼は自分のことをほとんど話さなかったが、合間に僕がお喋りするのを喜んで聞いていて、まるでコンクールの鑑賞を忘れたかのように「それで?」と薄暗い客席で僕からの話題を催促した。

ついにこちらが痺れを切らして、彼が聴くはずの高校を尋ねる。その美丈夫は少しも驚かず、隠しもせず、さらりと「次です」とだけ言った。有名な女子校だった。

「娘さんでしたか。それは、楽しみですね」

僕の相槌に彼は何も反応しない。その時だけ、微かに眉を寄せて僕の肩越しにどこか遠くを見ていた。

好演だったファリャの「三角帽子」が終わる。今までであれば勇んで拍手に励んでいた彼が、その時は身じろぎひとつせず、背もたれにぴたりと後ろを合わせて座っていた。

会場の拍手が鳴り止んでからも隣席は死んだように動かない。そっと様子を窺うと、遠巻きにあるざわめきに紛れて、僅かに呻き声を聞いた。

「いけない、一度出ましょう」

彼の腕を掴み立ち上がらせ、自分の脇に挟むように引き寄せる。彼の背に腕を回し、服を握りながら、またしても考えなしに動いてしまったと一抹の後悔がよぎったが、今はそれどころではないと開き直ってふたり分の鞄をひっつかみ、会場を出た。

僕に引きずられるようにして歩く彼は、息を詰めて何かに耐えている。扉を出ると演奏を終え制服姿に戻った県立高校の集団が横切った。その一群をやり過ごしてから、ゆっくりとホワイエの長椅子へ移動し、苦悶を噛んでいるその男性に横になるかと尋ねた。

肩が少し震えている。あっという間に頸から脂汗が滲んで流れ落ちていった。その軌道を目で追いながら、咄嗟にポケットから引き出したハンカチを当てようとする。

近づいて確かめると、それは皮膚炎などではなかった。皮下に埋まって内から浮き出る、性根の悪そうな痼りが無数にある。

折り目を解いて広げたハンカチを首の上に被せた。そっと手を押し当てて汗を吸い込ませる。

彼はやっと思い出したようにぜえぜえと息を吐いた。薄くこちらを見上げ、何か言おうとしている。

「お水、飲まれますか」

答えは出ないだろうと思い、そこの自販機に行ってすぐ戻ると告げ、鞄から小銭入れを出した。

自販機は飲料水と経口補水液が売り切れていた。何を選べばいいのか分からず、とりあえず麦茶とスポーツドリンクを買って戻る。その時の彼はもう幾分顔色が良くなっていて、再び目が合うと観念したようにやんわりと相好を崩した。

「すみません、いいのがなくて」

両手でふたつのペットボトルを差し出すと、彼はしばし静止してからスポーツドリンクを選んだ。一口だけ口に含むと、苦悶の顔が晴れないまま、肩で息をしている。

息子が幼い頃にこうして急な不調があっても何もできない僕に、妻はよく怒ったりうんざりしていたな、と寂しくも懐かしくもある感情を久々に取り出した。彼にも育児においてそうした経験があっただろうか、と思った折に、なぜか急にどくどくと自分の鼓動が逸るのが分かった。まるで悪いことを考えているような、奇妙な現象だった。


僕たちはそのままロビーで課題曲と自由曲を聴いた。彼が幾分寛解すれば受診の付き添いくらいは行こうかと思っていたが、それを安易に受け入れる人柄でもなさそうだという理解もしていた。

「本当に、平気ですか」

「平気ですよ」

彼はもう笑っていた。娘がクラリネットを吹く姿を見たかっただけなので、これでいいのだと言う。

「ご家族へのご連絡は? 奥様もご心配のことでしょう」

それを言いながら、何となく彼には今、近くに家族がいないのではと思っていた。その通り、精巧に作られた彼の笑顔は、僕の提案を黙って退けた。

娘さんは今、激しい反抗期の只中にいるのだろうか。夫婦の折り合いがつかない? それよりも、もっと計り知れない絶対の隔たりがあるように見える。どんなに努力をしてもトランペットでハイトーンが出なかった時の、永遠に知らない世界を取り残されたところからぽつんと独りで見るだけの、かつて味わった悲しい時間と重なった。

「それでは、大会の速報を」

咄嗟に思いついた申し開きで、僕は彼に仕事用の名刺を押し付けた。末尾には携帯電話の番号も書かれている。社用メールは職業柄、プライベートの時間中でもチェックできるようにしていた。

「吹連の公式サイトは明日まで更新されないでしょう。僕は会場に残りますので、メモを送ります。落ち着いたらこちらへ……空メールで構いませんので」

文化センターを出てタクシー乗り場まで送る。残り2校、シード校の特別演奏の時間が間もなくというところだった。結果発表まで客席へ戻る時間は十分にある。

僕より頭ひとつ分背の高い壮年の男性は、最後ににこりと愛想のいい笑顔を見せた。

名刺を受け取って、ありがとうと小さく頭を下げ、後部座席に潜り込む間際にこう呟く。

「メール、届かなければ、お忘れください」


不吉に言い捨てられたその言葉に反して、彼からのメールは3時間後に無事に受信した。会場で書き込みをしたパンフレットを見ながら、高校名と賞を全て打ち込んで送ろうとしたら、字数制限のアラートが出る。どうやら電話番号の方で連絡をくれたようだ。

手短に「お子さんの高校は、〈ダメ金〉でした」と送ると、すぐに「そんな気がしていました」と返ってくる。

メールには署名もなかった。こちらから「寄居陽一です」と名乗ると、その返事には渋々といった様子で「桜田です」と書かれていた。

その後も僕と桜田さんの不確かな交流は続いた。幸運にも息子の高校は西関東大会への進出を決め、お盆休み返上で部活動に励んでいる。妻も毎日息子と、ついでに僕の分も弁当を作り、ホール練習の日は車を出して近所の部員も一緒に送迎し、変わらず献身的に家族に尽くしていた。

時折「あんまり頑張りすぎなくていいよ」と声を掛けたくなるが、それで過去に何度か彼女の逆鱗に触れたことのある僕は、もう何も言えなくなっていた。昼は息子とコンビニで買って行くなどと気遣いのつもりで言った日にはもう手がつけられない。息子が反抗期をどこかへ忘れてきているのには、妻が突発的に引き起こすコミュニケーションの不和を恐れているのかもしれないとも思う。

受験戦争の前哨戦のような気迫で各所へ息子に帯同する妻から逃れるように、僕はたびたび桜田さんとメールを交わした。

「部員に熱中症患者が出たとのことで、部活動が3日間停止になりました」

「酷い暑さですからね。貴方もお大事に」

「部活動が再開されました。明後日はもう始業式です。お子さんの高校は、そろそろ文化祭ですか」

「そんな季節ですね」

後には続かない相槌だけの返事でも、通知が来るだけで不思議と嬉しくなった。あの時に急な不調に見舞われた人がすっかり良くなったことに安堵しているのか、それとも初めのコンビニで目を惹かれた人に根拠のない好奇心を持っているのか、自分でもさほど真意を噛み砕かないまま、揺蕩うような交流をやめられないでいた。

それが、ある時急にぷつりと返事が止んでしまった。送ったメールが届かなくなったのだ。

間違いかと思い何度か試行したがやはりエラーが即時で返送されるだけだった。英語でポップアップ表示される通知の意味を調べると、その電話番号が現在は使用されていないということだった。

連絡が途絶えて数週間、僕はどうしても彼を忘れることができないでいた。何にそこまで取り憑かれているのか全く理解ができなかったが、手がかりのない彼を探しに家族に黙って有給休暇を取ろうかと悩むほど、胸を突くようなつかえをずっと感じていた。

その後、彼を見つけ出してもう一度会うことが叶ったのは、きっとただの偶然であり、僕の無遠慮で散漫な神経がやっと役に立ったという他ない。


鉄道駅ホーム内の看板広告の設置・デザイン会社の営業部長を務めて4年になる。その日はたまたま下期契約更新の挨拶に、国道沿いの総合病院へ部下と共に出向いているところだった。

総務の担当者がいる事務所から出て、帰りは業務用エレベーターを使う。外来棟と入院棟の連絡通路が繋がるそのフロアには、オーガニック食材を取り揃えたコンセプトコンビニが出店していた。

無農薬野菜のチップス、全粒粉クッキーなど健康志向をくすぐるパッケージが視界におどる。僕へ適当に声をかけてさっさと先を行く若い部下から少し離れて、店頭でその包装を見ていた。

その時、レジを済ませて退店する車椅子に出くわし、避けようとしたらタイミング悪く車輪の後ろについている点滴棒にぶつかってしまった。僕の肩に引っかかって跳ねた金属の鈍い音が、存外大きく響く。

驚いた車椅子の人は、病衣姿で腰掛けたまま、ぼんやりとこちらを見上げた。目が合う前にもう誰なのか分かっていた。少し見ない間に、彼は随分と痩せていた。

「見つかってしまいましたか」

その声はあの日のままだった。コンビニで人を退けるように発した不愛想な声は、今は照れ隠しのように聞こえた。

桜田さん、と呼んだ声が震える。彼が何故、突然携帯電話を解約したのか、聞かなくても理解できてしまうのが怖くて仕方がなかった。

ふたつある彼の眼球の表層に出ている部分ほとんどが白濁している。左目の方が顕著に進行しているので、もう見えていないのだろう。右目に残った瞳の黒さに見入っていると、車椅子の男性はふと目を逸らし、連れの人が待っているのではないか、と僕に声をかけた。

「……お願いが、あります」

「なんですか」

彼の問いかけを無視して、外聞もなく嘆願する。

「僕が彼に断りを入れて戻ってくるまでここで待つか、病棟の部屋番号を教えるか、どちらかに応じてください。でないと……立往生になりますよ」

「はは、貴方、思うより怖い人なのか」

その時に初めて、この壮年の美丈夫が芯から笑った素顔を見た。最初に見た西洋人形のようだという陳腐な比喩を返上したいくらい、彼の笑顔は美しいと思った。何かを特別に与えられた人は何かを諸共に投げ出さなくてはならなくなるのかと、僕はまた余計なことばかり考えている。


その時は結局、部下と車で一度帰社して、手短に残務を済ませ、定時に退勤した。勤務中に問い合わせた病院の面会時間は20時までだったので、会社を出た足で近くのタクシーを拾い、総合病院へ舞い戻った。

エレベーターが一般病棟のフロアに着いた。降りた先のホワイエと通路には幾つも窓があって、日没後の青藍の空が雲を食んでいる。

コの字に曲がった廊下を渡り、ナースステーションにいるクラークさんへ声をかけた。名前を告げると面会諾否のリストを確認され、「よ・り・い・さん、ですね?」と念押しの上、やっと部屋へ向かわせてもらえる。

滑らかに動く病室のスライドドアを慎重に開けた。彼はナースステーション脇の広い1床室にいて、上体を起こし、静かにテレビを聞いている。

僕の気配を察知すると、やはり来たかというように小さく頷いた。

「こんばんは」

「先ほどは、突然すみません。夕食は摂られましたか」

促されるまま、床頭台の脇にある背もたれの低い椅子に腰かける。彼はその台に埋め込まれた保冷機を開けると、プリンカップをふたつ取り出して僕にひとつを差し出した。涼しい顔をした美丈夫は、ここに来てからすっかり甘味に目がなくなった、と何でもないことのように言う。食事制限など手遅れだし取り組む気もないという意思を汲み取った。

それぞれにカップの蓋を剥がして開ける。

「見ての通り、癌です」

「……そうですか」

「よくある話です。勤め先の検診で再検査になり、近所の医院で紹介状を渡され、大きい病院でMRIを撮ったら悪いものがたくさん出てきました。原発の腫瘍は摘出しましたが、リンパを通って転移が進んでいます。皮膚に出て、腎機能もやられ、少し前に生来の方法での排泄を諦めました。……汚い話でしょう、死ぬまでに身体が順々に壊れていくのだな、と実感しています。目も、お分かりの通り、もうだめです。今、脳転移の疑いで検査をしていて、結果は来週になります」

耳にするだけで怖気がする。彼を無理に饒舌にさせるほどの恐ろしい病なのだ。身内にも癌に命を取られた者がいたが、生きている間にここまで次々と侵攻されるのは、やはり血肉や細胞がまだ若いからだろうか。

「ご家族は」

月並みにそう尋ねると、桜田さんのプリンを持つ手が僅かに揺れた。

「癌だと、診断された時に、逃げ出しました」

「なぜです」

看取られるのが怖くて、と彼は手短に告げた。

機能が衰え、醜く変容する姿を家族に見せたくなかったのだろうか。受け入れるにしても受け入れるふりをさせるにしても、家族にそれを強いるという、使役の罪悪感は果てまで付きまとうだろう。

自分は施された分をもう何も返せない。特に子どもには、前途ある明るい未来を見ていてほしいと、親なら誰もが願うものだろう。朽ちる身体に構われることが、その器に閉じ籠められた自分が、きっとひどく無力に感じる。

彼が見た大ホールでのステージは、おそらく人生で最も幸福だった時との、最後の接触だったのだろう。

また勝手に踏み入って考え込んでしまった。この軽薄な同意や助言を吐露することはあってはならない。彼は今、ひとりで最期を迎える支度を整えている。そこへたまたま再会した僕が訪ねるのを許してくれた。今はそれだけで十分だった。

卵の触感は辛うじて分かるが、味のないプリンだった。しつこく咀嚼すると、固まった形が崩れて口内でどろどろと溶解する。ごくりと勢いで喉に押し込んで食べ終えた。見えていないプリンを手さぐりに食べる桜田さんに視線を移す。目は落ち窪み、頬が削がれていて首の筋が枝のように浮く。髪は艶を失って縺れ、耳の裏まで無数の痼りを抱えていても、それでも彼は、いっそう美しく映った。

「明日のご予定は?」

平易な質問に、彼は面白そうにこちらを眺めた。膝の上にある肌掛けに両手を置き、穏やかに答える。

「三度の食事、検温、あとは点滴の交換です。排尿と身体を拭く用事もありますが、時間は決まっていません」

僕は力強く相槌を打ってから、明日もまた来ます、と宣言した。不躾さを鬱陶しがられてもここは退かないと、口にする前から腹を決めていた。

「貴方、ラッパみたいな人だ」

それに呆気なく応じた桜田さんの誉め言葉がこれだ。

「本当に? 初めて言われましたよ」

僕が笑うと、彼は少し難しい顔をしていた。この美丈夫の不機嫌は、暑さのせいではないことがやっと分かる。


面会はそれから毎晩続いた。突然夫の帰りが遅くなったことに、妻ははじめ不審がっていたものの、僕が仕事の話をしてみせようとすれば、途端に口出しをしなくなった。息子は一貫して無関心だ。

桜田さんとまだメールを交わしている頃、夏休み中の部活動の様子を毎日聞き出そうとする僕に、一度だけ「気色悪い」と悪態をつかれたこともあったが、その父親がいない分には息子は何も思わないようだった。少し反抗期が始まっているように見えて、単純に嬉しくなる。

桜田さんはみるみる力を失っていった。毎日交わす言葉が顕著に減っていく。

「やはり、脳転移でした」

あれから数日後、彼は僕に当然のことのようにあっさりと報告をした。

「小脳なので、痛みはありません。運動機能に問題が出ると言われました。放射線治療ができるかは、説明が難しくて、よく分かりませんでした」

提案された治療についても、露とも興味を示さない。話す間、彼は皮と骨ばかりの薄い手でゆっくりこめかみを押さえた。

「急性期病院では邪魔でしょうね。そろそろ、出ていかないと」

「何処へ」

聞くと、桜田さんを担当している看護師長さんがソーシャルワーカーと共に緩和ケア病院への転院を手配してくれているらしい。親戚でも3年ほど前に同じような治療の変遷を辿った人がいた。その記憶を手繰り寄せながら、僕が話せば幾分か物事が進むのではないかとまた余分な節介を焼いてしまいそうになる。厚かましいがやらせてほしいと思ってはいるものの、言い出せずまごまごとしていると、朽ちてもなお美しいままの男性が、あの夏に僕と横並びに座っていた時のように、真横から緩やかに言葉を落とす。

「そんなにご心配なさらないで。じきに済むことです」

それを境に、桜田さんは肉体の機能と共に言葉を失っていった。

はじめは不意に忘れただけなのかと思っていたが、本当に何でもないことまで、単語を引き出せなくなった。何度かこめかみに手を当てる仕草をしていたが、そのうち努力も手放した。皮肉にも、そのせいで彼に笑顔が増えた。

僕は面会時間いっぱいその空間を埋めるように、ばかみたいに何でもないことを話すようになった。吹奏楽部員時代の些末なエピソードを話し終えると、金管楽器のピストン構造、和音と調の仕組み、各楽器が単音しか出せないという独特の組織の面白さについて、決着のない論述をつらつらと謳い続けた。遮るものがないので好きなだけ脱線もした。何を喋っているというのではなく、僕が話している時間、彼が新たに患っていた咳をしなくなるというのだけが、僕の拠り所だった。

時折、声のする方にゆっくりと擡げられる頭を手で優しく支える。どうしてここに僕だけしかいないのかという遣る瀬無さよりも、どうか僕だけを傍に置いてほしいという囚われた感情が、今の生活すべてをあっさり呑み込んだ。


秋が深くなる。長く続いた桜田さんの最後の抗癌剤のクールが終わった。経過観察のため数日入院は続くが、次の〈打つ手〉を用意しない場合、いよいよ別の療養病院へ移ることになる。

彼はもう何も食べなくなっていた。点滴を打ち続けると脚が痛々しく浮腫む。一度サイトカインという現象によって全身の肉を削ぎ落された身体に、無理に水分だけ押し込んで風船のように膨らませているのだ。その脚を優しく摩り、目やにと乾いた口端の唾を拭う。何気ない話をして、今にも破れそうな肌にそっと触れた。

あの日、たまたまコンビニとホールの客席と、二度出会った人に心を置く理由を、僕はもう考えるのをやめていた。仕事は好きだ。家族も愛している。僕の人生に少しの不満も不足もない。それでいて、ずっと何かを渇望していた。あれこれ試行しても埋まらない余白が、初めてぴたりと当てはまる調和を得たような心地がする。

「うまく、言えませんが」

他愛なく馳せていた思考の続きを、ほろりと口に出してしまっていた。桜田さんは夢見るような声で「ええ」と相槌を打つ。

「あなたがいなくなると、隣が、寒いです」

言葉にした後、どっと目から湧いたものが零れ落ちた。彼はじきに呼吸を止めるだろう。転移した小脳の腫瘍は彼の思考を打ち砕いて、もう医師や看護師、そして僕のことも、何者なのかを認識しなくなっていた。育児の逆を辿るように何もできなくなっていった大きな身体は、今は寝返りを打つ前の、ひょっとしたら新生児くらいの感覚で、ぼんやりと虚空を見続けている。

「はは」

反射で笑っているようだ。毎日散々見続けた顔が愛おしくて、堪えきれず頬を寄せる。

耳元でふうふうと薄くなった呼気を飽かずに聞いた。この音を聴くために、この頃は週末も家族に行き先を告げずに外出するようになった。それを白い目で見る妻や、反抗期どころか心配して僕に声をかけてくる息子との距離も、以前より少しだけ、俯瞰して見えている。コンクールの本番で、演奏者の意識はひな壇ではなくホールの天井にあり客席を見渡している、という比喩は、あながち間違いではなかったのかもしれない。

ベッドの隅に上体を伏せたまま、その心地良さに彼の傍から離れられずにいる。入浴が叶わない四肢に沁みついた独特の体臭も、擦ると毀れてしまいそうな皮膚も、はじめにコンビニの会計待ちの折に彼の背をしつこく眺めてしまった時から、何の遜色もないように思えた。

綿々と続いていた呼吸が震えた。発音による振動だと分かり、驚いてそのまま耳を寄せる。微かに、彼が僕の名を呼んでいる気がした。

「よ、りい、さん」

「桜田さん……?」

聞き返すと、嬰児になった美丈夫は、心底幸せそうに微笑した。途切れ途切れになった言葉を聞きながら頭の中で繋いでいく。一続きになったフレーズは、おそらくこう言っているようだった。

「はくしゅ、が、したい」

上体を起こして自然と伸びた背で椅子に座り直した。仰向けに寝たままの桜田さんの手に自分の掌を重ねるようにして、僅かに持ち上げる。

「そうでしたね。しましょう。いい演奏でした」

彼が賞賛を送ることができなかった、自由曲「三角帽子」を想起する。華やかに反復する舞曲は軽妙に人間模様を描き出し、冒頭から顛末までドタバタ劇が繰り広げられる構成だ。

最後の協和音の響き、ホールを満たす空気の波、湧きあがる拍手。

あの時、彼は肉体を蝕むものと闘う寸前まで、僕が息子を見ていたその瞬間と同じ、特別なものを目に映せていただろうか。今は真珠の白に姿を変えた双眼が、何かを探して大きく見開かれていた。

桜田さん、お子さんの勇姿は、確かにその心に焼きつけましたか。あの演奏が良かったと言い合うのは、実は今日が初めてなんですよ。だからお願いです。もう少しだけ、僕が会いに来るのを、またこうして迎えてやってください。

その思いはただのひとつも彼に伝えることができなかった。きっと僕が生きている彼に触れるのは、これが最後になるだろう。

壊れそうな両手を握り、ゆっくりと合わせた。祈るように折り重なる二双の掌は、尽きる命の灯を護る、円錐の砦になる。


〈了〉

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無音の喝采 丹路槇 @niro_maki

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