第20話Nとの別れ

慧奴へ


あなたと出会ってから一年半以上経ちますが、手紙を書くのは初めてですね。正直に言うと、私にとって、誰かに手紙を書くと言うのは、これが初めてです。毎朝顔を合わせているのに、言葉を口で伝えないで文章にするのは、少し変かも知れません。ですが、あなたの顔を見て直接話すにはあまりにも長いし、上手に伝えられるかも不安なので、筆を執ることにしました。


去年の四月に、私はあなたに出会いました。一目見た時からあなたの存在に釘付けになってしまった事を、今でも懐かしく思い出します。その時は、どうして自分がそんなにあなたに興味を持ったのか分からなかったけれど、今思えば、一目惚れだったのだと思います。「友達になってくれない?」なんて突然口走ったのも、あなたと付き合うきっかけが欲しかったからでしょう。今思うと、私は凄く面倒臭い奴でしたね。施設を移って来たばかりで、まだこちらでの生活に慣れてもいないあなたの日常を搔き乱してしまって、本当にごめんなさい。でも、もう時効ですよね?


メイナと私とあなたの三人で、トランプをした日の事を覚えていますか?最初はポーカーをするつもりでしたが、誰も役が分からないので諦めて、ババ抜きをしましたね。メイナがジョーカーを持つと、決まって挙動不審になるので直ぐに判るのに、あなたは全く表情が変わらないので全然気付きませんでした。わざわざ「ジョーカーが来た」と申告してくれない限りは。あの頃のあなたは本当に無表情で、何を考えているのか分からなくて、でも、そんな所が私にはとても面白かったです。そんなあなたにとって、私はたぶん鬱陶しいだけのクラスメイトだったことでしょう。


メイナが死んだ時、あなたは私が彼女を殺したのだと疑っていましたね。しかし、私はその真相については語らずに、これまで口を閉ざして来ました。あなたならきっと、メイナが決めた覚悟を、私が下した決断を、解ってくれると信じています。だけど、その真実を今この手紙の中で明かそうとは思いません。私が今あなたに宛てて想いを書き綴っている理由は、それが目的なのではないからです。ただ、あなたも知っての通り、私は彼女との別れを後悔しています。今も彼女が生きていたらと、有り得ない仮定で空想する事もよくあります。そんな私にあなたがくれた「しっかりしろ」と言う励ましの言葉と口づけを、私はずっと忘れません。


思えばあの頃から、私達の関係は少しずつ変わって来たのかも知れません。

あなたの私に対する態度が柔和になって来ていることに、あなた自身は気が付いていたでしょうか?素直になれないあなたのことだから、自分の感情の変化には気付きつつも、それをどう制御したら良いのか分からずに困惑していたかも知れませんね。だけど私は、あなたのお陰で、自分にとって必要なのがあなたなのだと言う大切な事に気が付きました。再び興味を持ち始めた世界に逃げ出す事が本当の私の望みではない事を、私に気付かせてくれたのはあなたです。《監獄》で朽ちる事よりも、あなたを失う事を恐れているのだと、確信させてくれたのはあなたなのです。それでも、私にはその感情が何と呼ばれるものなのかは分かりませんでしたが、きっと、それが恋と呼ばれるものだったのでしょう。


さて、思い出話を振り返るのはこれくらいにして、そろそろ何故私がこの手紙を書こうと思ったのかを、あなたに打ち明けましょう。

はっきりと言っておきますが、これは、あなたに宛てた遺書ではありません。

もちろん、あなたがこれを読んでいる時に、私はもうあなたの隣には居ないかも知れません。そうなると、これが私の残した最後の言葉と言えるのかも知れませんが、私は自分が消えた後の世界の出来事には関与出来ませんから、その後については何も言いません。ただ、この手紙は靄繕慧奴に向けて書いたものです。ですから、あなた以外の他の誰にも、この手紙は見せないでください。可能であれば、これが書かれている私の日記ごと焼却してください。あなたにお願いする事があるとすれば、この二点だけです。


それでは、手紙を書いた理由を話しましょう。そんな大層な理由ではありません。単純に、直接あなたに語って聞かせる時間がもう無いのと、口頭で支離滅裂になりながら話すよりも、こうして整えた形の文字達に想いを託す方が良いと思ったからです。でも本当は、あなたの反応を知りたくないからかも知れません。聡明なあなたは、いつだって正論を言って私を論破してしまうから、そうなるのを恐れる気持ちは確かにあります。簡単に決断したわけじゃありません。私なりに考えて、自分で出した結論です。そう伝えればあなたは反論しないと分かっているけれど、それでもあなたの顔を見て言うのが怖いのです。あなたの顔を見たら、きっと、どんなに固く決心した決意も容易く溶けてしまうでしょう。だから、こんな意気地の無い形で告白する事を、どうか大目に見てくれる事を祈ります。


私が自分の心を決めたのはつい最近の事ですが、この予定自体は、幼い頃から私の中に自分で定めていたものです。私は縁あって高山家の養女となりました。本当の両親のように無償の愛を与えてくれる彼らの家族として生活する事は、幸福そのものでした。しかし、どれだけ彼らに大切にされようとも、私が青海ヶ浦の施設から引き取られた《特別出生児》であると言う事実は変わりません。どれだけ心を通わせたところで、私は二人の本当の娘にはなれないのです。その思いは、妹の絵真の誕生によって更に大きくなりました。だからと言って、私を心から慕ってくれている無垢で可愛い妹を恨んだり、憎んだりした事は一度もありません。ただ、真の娘がいるのならば、夢はもう要らないと思ったのです。私はもう、高山家には必要の無い存在だと思って、家を飛び出しました。休みもせずに走って向かったのは、三鷹山にかかる吊り橋でした。もう不要な存在なのなら、私は自分と言う存在を消してしまいたかった。もう青海ヶ浦の施設へは戻れないし、そうなら私が行く場所なんて何処にも無いと思ったからです。しかし、当時の私にはそれをやり遂げるだけの根性がありませんでした。正直に言うと、最初は欄干を握る手と足は震えていて、全身はびくとも動きませんでした。それでも何とか身を乗り出し、強く目を瞑って、橋の下を流れる小川に身を投げました。それは、決死の強行と言うよりは、意に反した事故でした。本心では死ぬ覚悟など全く出来ていなかった私は咄嗟に身を守り、致命傷を免れたのです。それでもそのまま放置されていれば本懐を遂げられた可能性はありますが、悪戯な運命によって何者かに発見され、病院に担ぎ込まれて事無きを得ました。

その失敗を経て、私は悟ったのです。自分が納得をしていない状況では、死は許されないものなのだと。死と言う安息は与えられないものなのだと。不運から逃れる為だけに死を選んだところで、納得なんて出来るわけがありません。自覚的であろうと無自覚であろうと、本人の心が死を拒絶していれば、肉体だって生き延びる事を望みます。そんな状態で自殺するなんて不可能です。だから私は、自分が納得出来る死に方をしようと心に誓いました。寿命と言うものは不誠実で、大概の場合は何の前触れも無く生命を略奪するものですから、そんな死に方を待つのだけは御免だと思いました。死を受け入れて死んで行く為には、やはり自分で時期を見定めて手を下すしかないように思うのです。それではいつそうするのが最も良いのだろうかと考えて、私は一つの結論に達しました。

それは、人生の中で最も幸福だと思った時です。

幸福な時なら、未練も、後悔も、不安も無く、私をこの世界に引き留めようとするものは何もありません。そう言う瞬間になら、私は迷う事無くこの世界と別れられると思うのです。確かに、どの瞬間が人生で一番幸福なのかは、その人間が死んだ後で人生全体を見返してみなければ判断出来ません。でも、本人がそう信じているのなら、それで良いのです。その人が死んだ後に他人が下した人生の評価が、必ずしも本人の考えと一致するとは限りません。だから、もし私が軽率な判断でその後の人生を棒に振ったと後に嘲笑されようとも、私は一向に構いません。


先に旅立った私の友人は、他人の都合で生み出されただけの《特別出生児》が、生きる事を強要されて死ぬ事を禁じられているのは不当だと考えていました。生きる為だけに生み出された《特別出生児》が、自分の為に人生を生きる事なんて出来ないと彼女は考えていたようです。また、彼女は自然の摂理に反した繁殖方法で増殖する《特別出生児》など、存在していてはいけないのだと唾棄していました。その信条が、彼女自身の存在を滅却する方向へと導いたのです。いつも楽しそうに笑っていた彼女が、その笑顔の裏にこんな深刻な悩みを抱えていた事は、驚きでしょうか?でも、あなたになら彼女の気持ちは理解出来るのではないでしょうか?私達特別出生児は、誰しも皆心に何かしらの闇を抱えていると思います。能天気に見えるクノマ君とカナミさんだって、彼らなりに思う事があるのだと私は思います。

私達は、常に自分達の存在理由を探し求めている。

常に自分達の人生に疑問を感じている。

心が晴れる事など無いから、純粋に目の前の出来事を享受出来ない。

喜びも、怒りも、悲しみも、楽しみも、誰も教えてくれないから、感情と言葉が一致しない。そんな不完全な状態でも、私達は人間として生きている。人間として扱われて、人間らしい制約を受けている。でも、見せかけだけのそんな平等が、私には正しいとは思えません。《特別出生児》は人間かも知れませんが、人造人間です。普通に生まれて来た人間と同じには成り得ません。この国の政府はきっと、その事実に気が付いていないか、気が付いているのに無視しているのです。もしこのままこの政策が続いて行くとしても、終わりは近いでしょう。ならばせめて、これ以上気の毒な後輩達が生み出される前に、この蛮行が終焉を迎える事を祈ります。


《特別出生児》が人間らしくない原因を、あなたは知っていますか?私見にすぎませんが、私には一つ考えがあります。それはとても単純な言葉で、でもとても複雑で、きっと誰もが心の中に持っているはずの、そんな感情です。生育環境のせいで《特別出生児》には実感しにくい感情だとは思いますが、彼らの中にも、もちろん、あなたの中にも確かにあります。あなたは感情を表に出すのが苦手な人なので分かり辛いのですが、私はあなたがその思いを私に向けてくれているのを感じています。そして、自分の中にも同じ思いがあるのを知っています。ですが、多くの《特別出生児》達はその名を知らず、知っていたとしても、どんなものなのか理解していないでしょう。それこそが、彼らを人間らしくない人間たらしめている元凶なのです。私が思うに、恐らくその感情は人間が生きて行く上で最も重要なものの一つです。たったそれだけで救われる人達もいるのです。私もきっと、それによって救われて、支えられて来たのだと思います。

私に初めてその感情を示してくれたのは、高山夫妻でした。彼らは、それまで何も知る事が無かった私に、言葉ではなく態度でその思いを伝えてくれました。まだ幼かった私には、彼らのくれる温かな思いを正確に把握する事など出来ませんでしたが、その思いに包まれると、いつも安心して、幸せな気持ちになりました。やがて成長した私は、その思いに与えられている名を知りましたが、その同じ思いが自分の中にもある事にまでは気が付きませんでした。何故なら、私が家族に対して抱いている感情はそれではなく、敬慕や感謝の情だと思っていたからです。だから、お父さんとお母さんが私に与えてくれているその感情を、自分が他人に対して与えられるとは思ってもみませんでした。

でもあの春の日に、私はあなたに出会いました。

あなたも知っての通り、私は少々変わった人に興味を引かれると言う奇癖があったので、得体の知れない雰囲気を纏ったあなたの姿には、強く心を惹かれました。あなたは口数が多い方ではないけれど、表現が独特で面白いので、話すのがとても楽しかったです。あなたと過ごす時間が増えて行くにつれて、気が付けばあなたの事を思い浮かべている事も多くなりました。「今何をしているのだろう?」とか、考えてみても仕方のない内容ばかりで、結局は直接あなたの部屋を訪ねてみようと部屋を出たものです。そうして突撃する度に、何かをしていた風でもないあなたの部屋の有様を眺めて、謎は深まるばかりでした。そんな風にして他愛もなくあなたと過ごす毎日が、私にとって、いつしかかけがえのない大切な一時に変わっていました。

あなたの隣に居るだけで、私は安心する事が出来ました。

それは、お父さんとお母さんがくれるあの感情と、同じでした。

でも今だからそう分かるのであって、あの時の私には、そんな事は分かりませんでした。あの頃に私が感じていた思いは、ただあなたと一緒居たいということだけでした。その理由なんて、分からなくても気になりませんでした。しかし、自分があなたと共に居る事を望んでいるのに気が付いてしまうと、あなたの方はどう感じているのかが堪らなく気になり出しました。もし、あなたが私の我儘に付き合ってくれているだけで、本当は何もかも面倒だと思っているとしたらどうしようかと、悩んだ時もありました。だから、あなたが私を気遣って言ってくれた些細な嘘を本気だと信じた時には、酷く傷ついて落ち込みました。それでも不思議と、私はあなたを嫌いにはなれませんでした。むしろ、かえってあなたの本心にばかり思いを巡らせるようになりました。ある時園田先生が持って来てくれたワークブックに挟まれていたメモを見た瞬間は、息が止まりましたよ。あの一言で、私には全てが解りました。それでも疑り深い私は、あなたが言ってくれた「結婚しよう」の一言でさえ悩んでしまったけれど、あの瞬間は、本当に心から嬉しくて、幸せでした。


施設を出て、二人で暮らし始めてからの毎日については、改めて言うまでもないでしょう。朝目が覚めてから初めて見る顔も、夜眠る前に最後に見る顔も、私が一番見たい人の顔なのですから。蒔恵留が生まれてからは色々と大変な事も多いですが、そんな苦労も幸福の内かなと思えてしまいます。

先日、メイナの命日に、彼女のお墓参りに行って来ました。あなたと結婚した事と、まだ出産前だったので、妊娠中だということを伝えて来ました。その時、私はふと思ったのです。

私は、彼女が選んだ道とは違う道を歩んでいるのだろうか?

かつて自分に課した予定と言う名の呪縛から、私はもう解放されているのだろうか?

私は、メイナが選択した最期を間違いだとは思いません。だけど、彼女の状況と私の状況は同じではないし、あの頃の私でさえ現在の私とは違うはずです。私は十二歳の秋以降、一度も死のうと思った事はありません。自傷行為に走ったりもしていません。その理由は、まだ自分が死ぬべき時が来ていないと考えていたからですが、それだけで死への願望を忘れられると言うのなら、私はメイナよりもずっと生に近い人間なのではないかと思いました。これからもそうやって、死と言うものから目を背けて生き長らえる事は出来るのではないかと感じました。全てを捨てたあの頃の私と違って、今の私には失いたくない人がいる。守りたい大切な生命がある。その為に生きて行く事だって、きっと可能でしょう。

だけど、結局、私は過去を断ち切れませんでした。

未来に手を伸ばせませんでした。

この幸福に浸っている事よりも、この次に来る不幸を私は恐れています。

大切な誰かを突然失う日が来るよりも先に、自分がいなくなる事を望んでいます。

自分が変わっていると感じた時、私は自分に染み付いたこの脆弱さも払拭出来るのではないかと期待しました。あなたがくれた名前と共に生まれ変わって、新しい人生を歩いて行けるのだろうと信じていました。

でも、現実とは常に無情なもので、希望など簡単に打ち砕いてしまいます。

人間の本質は変わりません。

私が還るべき場所は、《監獄》でも、《楽園》でも、あなたの隣でもなかったみたいです。

それでも私は、この短い人生を後悔してはいません。

お父さんと、お母さんと、絵真と過ごせた事。

メイナと友達になれた事。

あなたと出会えた事。

蒔恵留を産んであげられた事。

こんなにも幸福に満ちた人生に、一体何を思い残す事があるでしょうか?

私は今、最高に幸せです。

私の人生の最後に、素敵な時間をくれて、ありがとう。

鈍感な私はずっと気付かなくて言えなかったけれど、

私は、靄繕慧奴を愛しています。

肉体が滅びても、きっと、永遠に。


絵夢


 思いを綴った日記帳は、彼宛の手紙の冒頭を開いた状態でリビングのテーブルの上に広げておいた。帰宅直後の彼はまだその存在を知る由も無いけれど、この後で最初に目を止めるはずだ。

「もう、決めたのか?」

鞄を静かに床の上に置くと、慧奴は尋ねた。

「……うん……」

私は頷いたが、自分が思っているよりも全然声が出なかった。

「どうしても、もう、一緒には居られないのか?」

どうしてそんな事を聞くのだろう?全く彼らしくない質問だ。

「もう……十分だよ」

私は答える。

「高山絵夢になれなかったように、私は靄繕絵夢にもなれなかった。結局最初から最後まで、私は霞絵夢のままだった」

何故か涙が止まらない。今更何を泣いているのだろう?悲しくなんてないはずなのに。

「そうか。お前がそう言うのなら、仕方ないな」

彼は目を瞑ってそう言うと、顔を俯けて私の手から包丁を受け取ろうとした。私はそれを制すると、自らの手で刃を胸元に構えた。

真相は、私達二人しか知らなくて良い。私のせいで彼を罪人にしたくはない。

「ありがとう」

彼の大きな手が、私の両手を包み込む。

俄然、先ほどまで眠っていた蒔恵留が泣き出した。

「蒔恵留を、よろしくね」

無責任な言葉を呟くと、私は凶器を握る手に力を込めた。

慧奴は、何も言わなかった。

ただ私の手にしっかりと自分の両手を重ねて、一思いに心臓を貫いた。

くずおれた私の身体を、透かさず慧奴が支えてくれる。

蒔恵留の声が遠くなる。

視界が徐々にぼやけて行く。

ねぇ、慧奴。どうして泣いているの?

私は、今、世界で一番幸せよ。

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Mの軌跡 淡雪蓬 @awayukiyomogi

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