第19話Nが教えてくれた事
私達が感じていた不安は杞憂に終わり、婚姻届けは提出から三週間後に無事受理された。正直ここまで時間が掛かるとは思っていなかったけれど、提出書類を具に精査された上で得た許可なのだから、文句は言うまい。ただ、どうせならあと数日遅れていたら、私の誕生日が結婚記念日になったかも知れないのが些か心残りである。何はともあれ、これで私は正式に靄繕絵夢になった。旧姓が二つもあるので、また名前が変わるのは変な感じがするが、これ以上名前が変わる予定は無い。
――霞と靄、MとN。
ワークブックの余白に名前を記し合ったあの日、私は並んだ二つの名前の類似性に気が付いた。きっと、これは単なる偶然ではない。私と慧奴に名前を与えたのは、同一人物なのだ。そう思ったからこそ、私は一層靄繕慧奴に興味を抱いたし、実は彼が兄なのではないかとも疑った。結婚出来たので血縁の兄と言う可能性が無い事は証明されたが、名付け親については確認のしようがない。もしその人物が私達の事を知ったなら、どんな反応を見せてくれるのだろう?しかし、幾ら想像力を逞しくして、記憶の中にすらいないその人の容姿を思い描いてみようとしても、頭の中には何の像も結べなかった。自分達を人間として認めてくれた初めての人物について知る由も無い事を、私は大変遺憾に思う。表面上は意味のある名前に見せかけておきながら、実のところは単なる識別記号を振っただけと言う屈折した精神性がうかがえるこの人物は、さぞかし愉快な人に違いない。
MとN――ある言語における十三番目と十四番目の音素文字。
だが、何故先に誕生したはずの彼の方が遅い番号なのだろう?逆から付けているのだろうか?もしそのような法則に則って名付けているとすれば、私達の他にも同類がいるかも知れない。
「N、Mと来ているなら、次はLか」
私は独り言を呟くと、読みかけで投げ出していた小説を拾い上げた。
慧奴と二人で暮らすようになってからの毎日は、至って平和だ。施設で生活していた時と同様に本ばかり読み漁っているけれど、のんびりと流れて行く時間にも、今は不思議と不満を感じない。《第十一再教育施設》の職員として働き始めた慧奴は、平日の毎朝八時に翡葉さんの迎えの車に乗って出勤し、午後六時過ぎに帰宅する。そんな彼を「行ってらっしゃい」と言って送り出し、「おかえりなさい」と言って出迎えるのが私の新しい日課になった。
「慧奴って、施設では何の仕事をしているんですか?」
休日を利用して私の顔を見に来てくれた園田先生に、私は尋ねた。
「事務員よ。靄繕君から聞いてないの?」
園田先生は目を丸くして私に答えると、問い詰めるような目線を私の隣に座っている慧奴に向けた。私も彼女に加勢して顔を向ける。
「言うほど役職通りの仕事はしてませんよ」
「じゃあ何してるの?」
「休憩」
「あら、そんなにする事が無いのだったら、私の代わりに教室で生徒達を見ていてくれない?」
「お断りします」
慧奴はきっぱりと断言し、園田先生は「冗談よ」と破顔した。私はこれまでにも慧奴の仕事内容について彼に尋ねた事があったのだが、その時は「いろいろ」と言われてはぐらかされていた。ただでさえする事が無さそうな職場に就職したものだから、どんな仕事をしているのか気になっていたのだけれど、暇を持て余しているのは居住者も職員も同じということか。
「でも、仕事が少なくて済むのは良い事よね」
園田先生のその発言と笑顔の裏には、暗いものが見え隠れしていた。
全国の再教育施設への入所者数は、官民一体の努力によって減少傾向にある。今年度をもって遂に閉鎖される施設もあるとの記事を新聞で見かけた。施設へは頼らず、精神科などと連携して薬物療法やカウンセリングを実施して症状の緩和を試みる取り組みや、民間の孤児院での受け入れと言った、別の方法へ移行する改革が今後はますます活発化して行く事が予想されるそうだ。諸悪の根源となっている教育・育成システムそのものを見直すと言う案も出ている。《国民再生計画》があと何年継続されるかは不明だが、少なくとも、私達より後の世代にはより良い生活が期待出来そうだ。
「《第十一再教育施設》の閉鎖については、何か話があるんですか?」
「いいえ。今のところ私は何も聞いていないわ」
私と園田先生の不穏な会話を耳にした慧奴が、「俺が退職するまでは存続してもらわないと困る」と大真面目に言って一同の笑いを誘った。確かにその通りだ。
「そう言えば、クノマとカナミが外出申請書を貰いに来た」
思い出したように慧奴が言う。
「遂に外の世界に興味を持ったのね」
「外出するなら何処が良いか聞かれた」
「それで?慧奴は何て答えたの?」
「遊園地」
「あら、素敵じゃない!!あの子達なら絶対楽しいと思うわぁ、私。良い助言をしたわね、靄繕君」
「でも何で?慧奴は遊園地好きじゃなかったでしょ?」
「だからあいつらには合ってるだろ」
侮辱に聞こえなくもないが、まぁ、聞き流すことにしよう。
「二人は元気にしてるの?」
「進歩も退化もしない」
慧奴の言い草が笑いのツボに嵌まったのか、園田先生は大笑いしていた。
「靄繕君、やきもちなんて焼かなくて良いのよ」
「どういう意味ですか?」
「だって、目の敵にしているのだもの」
園田先生はそう言うと、またふふっと笑ったが、彼女の言動が全く理解出来ない慧奴は、苦虫を噛み潰したような表情で口を噤んでいた。彼の隣で二人の掛け合いに耳を傾けていた私にも、先生が言った言葉の真意はよく解らなかった。
七月某日。季節外れの雨の中、私は公共交通機関を利用して、肉体を失った者達が眠る安息の地へとやって来た。ここを訪れるのは、これが二度目になる。艶やかに咲き乱れる躑躅色の花束を手に、よく似た石が立ち並ぶ密林を掻き分けて進む。前回案内人に続いて歩いた道筋を思い返しながら辿ってはみたものの、朧げな記憶に欺かれて、少し迷った。それでも何とか友人の名前を見付け出すと、私は花束を供えて墓石の前に立った。
「一年ぶりだね、メイナ」
一人で話し掛けていると思うと少し恥ずかしい気がしたが、辺りには誰も見当たらないので構わずに続ける。
「報告が遅れたけど、私、慧奴と結婚したんだ。もう直ぐ子供も産まれるんだよ。誰かのお腹の中から産まれたわけじゃない私が出産するって言うのも、何か変な感じがするけど……」
彼女の名が刻まれただけの墓石は何も応えてはくれないけれど、メイナならきっと、あの無垢な笑顔で「おめでとう!!」と祝福してくれるような気がする。永久に変わる事は無い思い出の中の親友は、いつだって私に笑いかけてくれている。たとえその姿が虚像に過ぎなくても、その声が都合の良い言葉しか囁かなくても、それでも私が彼女を覚えている限り、玄嶺芽以菜は私の中で生きている。
「ねぇ、メイナ」
傘の湾曲した取っ手を握って、私は瞼の裏の彼女の幻像に語り掛けた。
「私は、メイナと違う道を進んでいるのかな?」
再び目を開けて、現実に目を移す。
「私の
見つめる先には、雨に濡れる黒い墓石。問い掛けた相手は、目の前には居ない。
その問いに答えられるのは、私だけだ。でもまだ答えは見付からない。
「また、来るね」
不釣り合いなほど鮮やかに存在を主張している花を残して、私は墓地を後にした。
八月の暑い夏の日に、私は女の子を出産した。
新生児の両親よりも喜んで大騒ぎをしたのは、高山夫妻だった。失踪した養女と再会してから八ヶ月が過ぎたこの日に、彼らは五十代を目前にして祖父母になった。妹の絵真は僅か九歳にして叔母の称号を得たわけだが、多感な少女は、中年女性を想起させるこの親族名称を酷く嫌悪して使いたがらなかった。揶揄って言っただけでも、真っ赤になって怒る有様だ。だが、彼女にとっては姪と言うよりも妹みたいな感覚らしく、新しい家族が増えた事をとても喜んでくれた。
「名前はもう決めてるの?」
ぐっすりと眠っている赤子の顔を眺めて微笑んでいたお母さんは、私の方に向き直ると、小さな声で尋ねた。
「《
「シエル?どんな字を書くの?」
私は近くにあったメモ用紙を取ると、その上にペンで三文字の漢字を書いた。お母さんは「変わった名前ねぇ」と率直な感想を口にしたが、取り立てて異を唱えようとはしなかった。
「でも、どうしてこの名前なの?」
「私と慧奴の娘だから」
「……どういうこと?」
「MとNはアルファベットで、Mの前はLでしょ?」
「ああ、そういうことね」
「でも、単純に《エル》って付けたら芸が無いし、名前らしくないでしょ」
お母さんは漸く納得すると、「あなた達らしくて良いんじゃない?」と賛成してくれた。
ほんの一年前、私はまだ施設の中で暮らしていて、そこが自分にとっての終の棲家となるのではないかと漠然と感じていた。成人を機に出所出来ると園田先生から聞いた時も、だがその必要は無いと思った。私は自分自身の選択の結果、良くも悪くも全てが揃っている《楽園》を捨てて、閉ざされた《監獄》へとやって来たのだ。そんな私にとって、森の向こうに広がる世界は、還るべき場所ではなかった。メイナと同じように、《
私が彼をここへ導いて来たのではない。彼が私をこの場所へ連れ戻してくれたのだ。
――あの日、慧奴に出会っていなかったら、私は今でも施設で退屈な毎日を過ごしていたんだろうな。
懐かしくもある無為な日々も、今となっては思い出でしかない。
――慧奴には、いろんな事を教えてもらった気がする。
よく眠る娘の寝顔を見つめながら、私は思う。
彼と出会ってからの毎日に、彼の存在が欠けていた日は殆ど無い。毎朝学舎棟で顔を合わせては、無愛想な態度にもめげずに話し掛け、休日には部屋へ押し入り、会えない時ほどいつも以上に彼の事を考えた。色々な経験を経て、私達は少しずつ変わった。楽しい事も、嬉しい事も、悲しい事も、この一年で体感した全ての感情の隣には、靄繕慧奴が居た。
「ただいま」
帰宅を告げる声が聞こえる。
「おかえりなさい」
駆け出して行って彼を出迎えると同時に、私は彼に抱きついた。
「何?」
玄関で靴を脱ぐ間も無く身動きを封じられた彼が、戸惑ったように私の耳元で囁く。
「何でもない。ただ、私は今すっごく幸せだなって、気が付いただけ」
「それは良かったな」
「慧奴は、今幸せだと思う?」
「不幸なはずはない」
素直じゃない返事で答えると、彼はぎゅっと私を抱き締めた。
「絵夢。左手を出して」
私が何も聞かずに言われた通り左手を差し出すと、彼は上着のポケットから銀色の指輪を取り出して、それを私の薬指に嵌めた。
「一応、既婚者だから」
照れくさいのか、いつも以上に無表情になって彼は言うと、もう一つの少し大きな指輪を私に手渡して左手を出した。私が誓いの輪を通し終えた時、彼は私の問いを制するようにこう言った。
「事情は聞かない方がロマンチックだ」
私は堪えきれなくなって笑いながら、再び彼の背中に手を回した。
「ありがとう」
はにかんで交し合った口づけを、私は一生忘れたりしない。
この瞬間が、私の人生の中で最高の幸福になった。
「ねぇ、慧奴。慧奴は、幸せが怖いって思った事はある?」
「無い。何で?」
「私は、昔からよくそんな事を考えるから」
「幸せなのなら、恐れる事は何も無いんじゃないか?」
「でも、良い事があった後には悪い事があるように、幸せの次には不幸が訪れるでしょ?」
「幸せな状態では、それ以上良い事が起こってもそれも今ある幸福の内に含まれてしまうから、不幸にばかり目が行くだけだろ」
「でも、幸福はいつまでも続かないわ」
「不幸だって同じだ。永続する事象なんて、この世には存在しない」
「一度最も高い山に登って、そこから転がり落ちた後では、もう同じ高さの山には登れないでしょ?」
「もっと高い山を見付けないとは限らない」
「見付けたとしても、上り切るまでには時間が掛かるわ」
「別に急ぐ必要は無いだろ。それを最後の登山にすれば良い」
「それでもやっぱり、上ったままではいられないでしょ?」
「じゃあ小屋でも建てて住むか?」
「無理よ」
「何を恐れてる?」
「言ったでしょ?私は幸せが怖いの」
「お前が恐れてるのは、幸福ではなくて、その後に来ることになっているはずの不幸だ」
「どっちだって同じよ。結局怖い事に変わりはないもの」
「それじゃあ逃げるのか?」
「昔の私はそう願ってた。でも今は……分からない」
私は弱い人間だ。
誰かの支え無しでは生きて行けないし、誰かが傍にいれば失うのが怖くなる。
未来を期待すればするほど、かえって絶望に捕らわれる。
私はその思想が愚かだということを知っている。
私が克服すべき闇の正体を理解している。
それなら何故惑う?どうして足を止めて振り返る?
「また来たよ、メイナ」
数週間前に置いて行ったスターチスは、照りつける灼熱の陽射しで乾燥していた。それでもなお、この花は色を失わない。
――永続する事象なんて、この世には存在しない。
慧奴はそう言った。物事を客観的に見る事が出来る彼の意見は、いつも正しいと感心するけれど、今回ばかりは間違いだと思う。
この世界には、変わらないものがある。変えられないものが、少なくとも一つある。
それは、人間の本質だ。
「私はやっと、答えを見付けたよ」
親愛なる私の友へ。
「さようなら」
私は最後の別れを告げた。
その答えが分かり切ってしまう前に、私はこれまでに自問してきたあらゆる疑問に対する解答を得た。今まで悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく思えてしまうくらい、全ての謎は簡単に解けた。ただ見えていなかっただけなのだ。私が知りたいと思っていた事は、獲得しようと足掻いた正解は、いつだって私の前に転がっていたのだ。私の考えすぎる悪癖が災いして、これまでそれに気付けずにいただけだ。
「蒔恵留」
眠ってばかりいる私の宝物。どうか、もうしばらく夢を見ていて。
車のエンジン音が聞こえる。夫が帰って来たようだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
当たり前に交わされるこんな挨拶でさえ、幸せになれると教えてくれた人。
私は後ろ手に何かを握ったまま、ゆっくりと彼に近付いた。
「どうした?」
私の異変に気付き、彼は心配そうな顔で私に尋ねた。
「前に、聞いた事があったでしょ?その答えを、今、聞かせて欲しいの」
目を伏せながらそう言って私が取り出したのは、刃渡り十八センチの鎌型包丁。
「私を、殺してくれる?」
どうしてだろう?
とうに決心していたはずだったのに、私の頬を一筋の雫が流れ落ちた。
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