ビークルフロムザレイン

 晩冬の雨。

 そう言われて僕がイメージするのは、穏やかな小雨、という感じである。それが現代において通じるかはともかく。

 否、この場合、通じなかったと言い切るべきだろう。


「おにーさん、早く早く!」


「転ぶなよ!」


 そう言いながら前を走るファティマ。スラリと長い彼女の足が、まだ雪の残る道から泥を蹴り上げる。

 ポロムルの市門を潜る前に、少し考えれば良かったものをと後悔しても、時すでに遅し。

 港町へ引き返すには遠く、かと言って玉匣を駐車している廃屋までもそれなりに距離があると来た。

 結果、湧くように現れた黒雲からの、激しい雨の奇襲をモロに受け、僕らは食品入りのずた袋を守りながら、バタバタと走る羽目になったのである。


「くそぉ、気象レーダーのありがたさが身に染みるよ!」


「なにか言いました!?」


「独り言だ! 気にしないで走れ!」


 小さく毒づいた所で、大自然が矮小な人間の声など聞いてくれるはずもない。

 周りに見える木々は葉を落としており、雨宿りができそうな場所の1つすら見当たらないまま、僕らはようやくのこと、玉匣を隠している廃墟まで逃げ帰ってきた。


「はー……びちょびちょです。酷い目に遭いました」


「全くだ。うおっ!?」


 ずた袋を降ろして一息と思った矢先、隣から激しく水滴が飛んでくる。

 ただ、驚いたのも一瞬の事。水が飛んできた方向を見て、すぐに納得した。


「あ、すみません、つい癖で。かかりました?」


 本物の猫がするように、彼女は勢いよく身体を振って水を弾き飛ばしたのが原因らしい。

 思えば、体や髪が濡れた時、ファティマはよくこうしているように思う。如何に毛無しとは言え、尻尾や耳など人間にはない毛に覆われた部位の分、濡れると余計に気持ち悪いのかもしれない。


「何、驚いただけだよ。それに、かかったかと聞かれても、これではなぁ」


「ですねー。ボクも胸当ての中がジュピジュピいってますもん」


 ファティマ手足をビビビと払ってみせると、濡れそぼった防寒着を脱ぎ捨て、ついでに防具の類を外し、それらをずた袋諸共に、玉匣の中へ放り込んだ。

 僕もそれを真似するように、フライトジャケットを脱ぎ、後部ハッチから車内へ投げ入れようとして、ふと思う。


「着替え、積んでないよなぁ」


「ないですね」


 長距離行軍の癖、とでも言うべきか。僕もファティマも、着替えがある前提ですぐさま脱ぎ捨てたのだが、今の玉匣には下着の1枚すら入っていない。

 季節は未だ晩冬の様相。当然、まだ防寒着を手放せるような気温ではないとなれば。

 プシッ、と。小さなクシャミが隣から聞こえた。


「これはよくないな。とりあえず、すぐに暖房を入れよう」


「すぐ帰らないんですか?」


「視界も悪いからね。知らないうちに街道をはずれて、泥濘にでも嵌ったら目も当てられない」


「むー……仕方ないですね」


 不服そうなファティマの気持ちはよく分かる。僕とて早く帰って風呂に入りたい。

 だが、今日はただでさえ僕らしか乗組員が居ないのだ。トラブル対応に自信が無いのは勿論、何かやらかしたら、後でダマルに何を言われるかわかったものでは無い。

 後部ハッチの前に立ち、服の裾を絞るファティマを横目に、僕は運転席へ向かい、エーテル機関を起動した。同時に空調も暖房全開で入れておく。

 着替えがない以上、気休めなのは分かっているが、こればかりは仕方がない。


「こんな所でも無い物ねだりとは。風邪をひかなければいいんだが」


 ため息を1つ。車両後部へ戻れば、ファティマは寝台が濡れるのを嫌ってか、珍しく歩兵用座席の方に腰を下ろしていた。


「うー……服がぴったりしてて気持ち悪いですね」


「僕も同じだよ。だが、こればかりは我慢するしか――」


 ないだろう、と出るはずだった言葉が消える。

 ファティマは身軽さも強みであるからか、基本的に分厚い服を好まない。それでも普段は、鎧下として革のタンクトップを着ていたはず。

 なのだが、僕の眼前にはどうしてか、白いシンプルな布のタンクトップが映っていた。それも、水が滴っているとなれば。


「おにーさん? どうかしました?」


「ッ! い、いや、その、なんだ……」


「なんですか? なんで目を逸らすんですか?」


 ぴったりと張り付いた服、純白の下に浮き出るような、異なる衣服と肌の輪郭。

 どうやらファティマは気付いていないらしい。おかげで、慌てて顔を背けるという僕の判断は、完全に裏目に出た。

 訝しげな金色の瞳がじっとこちらを追ってくる。普段と違い、彼女に説明をしてくれる者も居ないとなれば、僕に逃げ道は残されていなかった。

 諦めついでに、咳払いを1つ。


「何か羽織れる物が必要かなと。流石にこう、濡れるとね」


「あの、よくわからないんですけど。何が濡れたらなんですか?」


 追求するな。直接的な言葉を要求するな。と言ったところで、ファティマは納得しないだろう。

 否、自分は少なくとも年齢上大人なのだ。学生のように慌てふためいていては格好もつかないし、今後のことを思えば、ハッキリと教えておいた方がいいこともまた事実。

 そうだ、ありのままを、伝えるだけ。自然に自然に。


「白い肌着とかは、濡れると透けるんだよ。どうしても」


「透ける? 透け……み゛ッ!?」


 自然を繕った僕の言葉に、ファティマは暫くキョトンとしていた。

 しかし、それも束の間。肌着から連想したのか、つつつと顔を下げていったかと思えば、目にも止まらぬ勢いで体を捻って隠し、両腕で胸元を覆った。


「……見ましたよね?」


「不可抗力です」


「おにーさんはへんたいさんです」


「不可抗力ですって」


 赤らんだ頬と恨めしげな半眼を向けられ、とんでもない罪悪感が押し寄せてくる。

 女所帯で過ごしているのだから、いい加減こういう状況にも慣れたいものだが、残念ながら自分には難しそうだ。


「とりあえず、僕は運転席の方に居るから、何かあったら呼んでくれ」


 戦略的撤退、と脳内司令部が叫ぶ。それに導かれた手足は、くるり回れ右をしようとして。

 濡れて張り付いた袖口が、何かに引っかかったかのようについてこなかった。


「ファティ?」


 振り返ってみれば、しなやかな手が僕の袖を掴まえていた。

 それでも彼女はこちらを向かず、片手で透けた胸元を隠したまま。


「1人だと、まだ、寒いですから」


「しかしそれだと」


「寒いです」


 袖を掴む手に力が籠る。髪の張り付いた横顔は飄然としていて、感情は読みとれそうにない。

 振り払ってでも運転席に行くべきか、と僅かに悩んだものの、引き止めている側がそう望むとは考えにくい。ただでさえ、ファティマには頑固な所があるのだ。


「わかったよ」


 やんわりと袖の手を解きつつ、僕はウォーターサーバーに手を伸ばした。

 こぽこぽこぽという水音。コップのなかから、ゆらりと湯気が立ち上がる。


「白湯しかなくて申し訳ないが」


「ありがとうございます」


 兵員用座席の上で、三角座りの姿勢となったファティマは、肩越しに振り返るようにしてマグカップを受け取る。

 その隣へ僕がゆっくりと腰を下ろせば、待っていたかのように、冷えた背中が横からもたれかかってきた。


「僕も冷えてるから、隣に居たって暖かくはないだろう?」


「いえ、ちょっとは暖かいですよ」


「正直だな」


「嘘は苦手なので。あちち」


 太もものあたりで、何かがビビビと振動する。どうやらファティマの尻尾が、僕との僅かな隙間に挟まっているらしい。

 猫舌な彼女は、ふーふーと白湯を冷ましながら、しばらくの間ちびちびとそれを啜っていた。

 声がなく、装甲を叩く雨音がバラバラと大きく聞こえた時間。それがどれくらい続いただろう。ふと、ファティマの耳がピッピと弾かれた。


「おにーさんは男の人ですよね」


「うん? それはそうだが」


「なら、やっぱり、見たいって思いますか?」


 どういう意図の質問か。裏を考えようとして止めた。

 相手はファティマなのだ。疑問は率直なものだろう。


「……そこまで飢えてる訳じゃないが、興味が無いと言えば、流石に嘘になるな」


 僕も健康な男なのだと、彼女らには何度か言った気がする。だからこそ、一緒に暮らす女性達のふとした仕草なんかに、心臓が跳ねることもある。今だってそうだ。

 アラサーにもなって情けない話かもしれないが、ストリのことを含めても、女性経験は皆無に等しいのだから、こればかりは仕方ない。笑われても仕方の無いことだ、と、妙な言い訳が頭の中をぐるぐる回る。

 だが、ファティマは笑うことなく、ギュッと三角座りを固くした。


「キメラリアでも、ですか?」


「ん? まぁ、そうだね。異性として魅力的だと思う相手なら、やっぱり興味はあるよ」


「ボクでも?」


「それは――」


 言葉に詰まる。

 ファティマはまだ、こちらを振り返ろうとはしない。ただ、頭から生える大きな耳は、返事を待つようにしっかりとこちらを向いていた。


「興味が無いなんて、言えると思うかい?」


 自分をケモナーだと思ったことは無いが、もしかすると、ただ性癖の幅が薄く広いがために、埋もれているだけなのかもしれない。

 そう考えてしまうくらいには、自分の中に否の文字が浮かばなかった。

 ペタリと。濡れた髪が僕の肩へ乗ってくる。逆さまに見えた彼女の顔は、どこか優しげな微笑を浮かべていた。


「ふふっ。ここが、町の中じゃなくて良かったです」


「なんでまた?」


「おにーさんだけなら、ちょっとくらい見えちゃっても平気かなって。あ、じっと見るのはダメですよ。やっぱり恥ずかしいので」


 どこか妖艶で、けれど無垢な肩越しの微笑み。薄く染めた頬と、誘うような半眼に、ドキリと胸が跳ねる。

 ファティマのこんな表情を見たのは、初めてかもしれない。いつもより大人びた、女性らしい表情。

 からかわれているだけか、はたまた裏表のない本心なのか。どちらにせよ、あまりに危険な言葉を突きつけられた気がして、僕はぐっと奥歯を噛んだ。


「逆に聞くが、ファティは異性の体に興味は無いのかい?」


「えっ、ボクですか?」


 意表を着いた質問だったからだろう。大きく振り返った顔は、いつもと変わらずキョトンとしたもので、ほっと胸を撫で下ろす。

 異性の気持ち、というのは正直分からない。だが、想像してみるには自分と当てはめるのが最も早いはず。


「考えたこともなかったです。おにーさんにくっついてるのは好きですけど……」


 ファティマは真剣に悩み始めたらしい。眉間がいつもよりキュッと狭くなっている。

 本気で考えたことが無かったのだろう。そもそもの関心がない物事に、彼女は悩んだりしない。何なら考えもしない。

 むむむと唸る背中に、つい苦笑してしまう。ある意味で、思春期らしいと言えばそうなのかも、なんて。


「おにーさん、ちょっと脱いでもらっていいですか?」


「……はい?」


 馴染みの苦笑が吹き飛んだ。なんなら自分の目は、くすんだビー玉のようになっていただろう。

 流れる沈黙。その間も、半身翻ったファティマの、何処かキラキラした視線は途切れない。


「い、いやいやいや、急に何を言い出すんだい」


「興味を持てるのか確かめてみたいんです。男の人なら、上半身裸でも大丈夫でしょ?」


「本気で言ってる?」


「はい、嘘は苦手なので。それに濡れた服を着てるのは良くない、ですよね?」


 こんな所だけ理論武装するな、と叫びたい。その一方で、少女に訪れた奇妙な変化、あるいは成長を、無下にしたくないとも思う。

 暫くの葛藤を経て後、深呼吸をひとつ。


「セクハラ扱いされないかなぁ」


 インナーを脱いだ上半身裸の男の姿が、兵員用座席の上にあった。

 暖房の全力運転で、温まり始めていたのは僥倖。ただ、明らかに問題はそこではない。


「やっぱり全然違うんですね。筋肉でカチカチです」


 ほほぉ、と。まるで古物商が品定めをするかのように、ファティマはじっくり僕を眺める。


「別に珍しいものでも無いだろうに……というか君、今までにも見たこと無かったかい?」


「ありますけど、大体はおにーさんが怪我してる時ですし、じっくり観察とかできませんよ」


「それはそうだろうが……これは流石にムズ痒いな」


 うら若い乙女を前に、特に自慢したい訳でもない肉体を晒し、それをまじまじと観察される空間。

 普段なら別に気にならない程度の露出であるはず。しかし、こうも穴が空くほど眺められると、流石に羞恥心も現れようというもの。加えて、自分は一体何をしているのか、という感覚も強かった。


「背中、傷だらけですね」


 ぽつりと零れた、あまりにも純粋で飾り気のない言葉に、それらがまとめて吹き飛んだことは言うまでもないだろう。

 自分が前線で戦っていた証。何かを守った、あるいは守れなかった、熟練者であり、未熟者だったが故の記録。技術が記憶を留められずとも、身体からは消えなかった昔のこと。

 ただそれは、自分にとって失ってはならないものでも、決して綺麗とはいえない。だからこそ。


「見ていて気持ちのいいものじゃないだろう」


「いえ、そんなことありませんよ。ただ……」


 ファティマはそこで、言葉を探しているようだった。大きな耳が、雨音の中でクルクルと動き、乾き始めた尻尾の先もゆらゆらと揺れている。

 ふー、と長い吐息が聞こえた気がする。


「なんででしょう。こうやってじっと見てるだけなのに、なんだかドキドキしてます」


「ドキドキ、か。もしかしたらそれが、興味に近い感覚かもね」


「これが……?」


 自分なんかの身体に、魅力があるとは思えないが、それは所詮主観の話だ。

 彼女がどう感じたのか。何を思ったのか。言葉以上の事など分かろうはずもない。

 暫くの間、ファティマは視線を動かさないまま、何かを考えているようだったが、最終的に彼女が出した解は、きっと悪いものでは無かったのだろう。


「ちょっとだけ、触っても、くっついてもいいですか?」


「ああ」


 普段、巨大な剣を振り回しているとは思えないほど、しやなかで柔らかい指が、そっと背中の古傷に触れてくる。それも恐る恐る、壊れ物に触るかのように。

 暖かい指先は、次第にその幅を広げていく。指先が指の腹になり、本数が増え、掌へと代わる。

 最後に、柔らかい肌と、ふわりとした毛の感触が、同時に背中へ押し当てられた。


「ドキドキいってます。おにーさんの中も、ドキドキ」


「恥ずかしながら、これでも緊張してるんだよ」


 ぴったりとくっついた頬。それと大きな耳。ふわふわした毛並みがくすぐったくもある。

 だが、何より暖かかった。まるで体温を交換しているようだと感じるほどに。


「今まで思ったこともなかったです、けど」


 うん、と返す。

 ファティマはどんな顔をしていただろう。手を膝の上に乗せたまま、そんなことを思う。


「もしかしたら……もしかしたらボクも、へんたいさんなのかもしれません」


「君も年頃なんだ。僕が語れることではないだろうが、それが普通なんだろう。多分ね」


 まるで悪いことのように告げるファティマに、小さく苦笑が漏れる。

 それをどう受けとったのか。背中越しに彼女の緊張が伝わってきた。


「おにーさんも、見ますか?」


「ん? 何を?」


「ボクの、身体」


 喉の奥に唾が入った。当然の事ながら、派手にむせかえる。

 背中に耳を当てていたファティマは、その音にびっくりしたのだろう。ビクリと体を震わせて、ようやく顔を離した。


「げほっげほっげほっ……!? な、何を言い出すんだ君は!」


「いえその、ボクだけ見せてもらって、触らせてもらったのは、やっぱり不公平かな、と」


 振り返った先で、こちらを見上げる金色の瞳。染まった頬から羞恥は感じられたが、けれど視線は真剣そのもので。


「……そういうのは、もっと大事な時に取っておきなさい」


 雨音の消えゆく中、僕はファティマの湿った頭を軽く撫でてから、ゆっくりと座席を立つ。

 開け放たれたままの後部ハッチから外を覗けば、景色は雨の霞から回復しつつあった。


「大事な時、ってなんですか?」


「いつか、ファティにも分かるよ。それは僕が保証しよう」


 ファティマは自分の体を見下ろしながら、尻尾をユラユラさせていた。何を考えているのかは、想像もできなかったが。


「いつか、教えてくださいね。ボク、待ってますから」


 エーテル機関の鼓動の中で、蕩けるような囁きが

、何処かから聞こえた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悠久の機甲歩兵 〜幕間〜 竹氏 @mr_take

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ