狐語り

 カサドール帝国より北に遠く、リンデン交易国を東に接する場所に、どこの国にも属さない、険しい雪山と雪原の広がる地域がある。

 年間を通して寒く、夏と呼べる時期以外はほとんどが雪に閉ざされ、農耕などとてもではないが不可能な厳しい環境。過去には何度か、人間の国が集落を作ろうとも試みたそうだが、食料調達の難しさと凍てつく風に打ち負かされ、結局ここを支配することができた者は居ない。

 ぼくはそんな所で、小さな群れの中に生まれた。白ク尖った山の麓に暮らすキメラリア・フーリー。他の人種から狐と呼ばれる両親の元でだ。

 この白き雪氷こそ我らの守護神。人間という最大の外敵を寄せ付けない最強の防壁。

 小さな群れの長老は、幼いぼくと兄を前に種の歴史を何度もそう語ってくれた。生活のあらゆることが、視界を奪い、臭いをかき消し、音さえ奪う風雪があればこそなのだとさえ。

 けれど、自然は決してフーリー達に味方するため厳しい訳ではない。むしろ、少し気を抜けば簡単に首を締めにくる。

 ぼくがそこそこ大きくなった頃。初めて守護神は群れに対して牙を剥いた。

 夏が来なかったのである。

 季節は廻っているはずなのに、いつまで経っても雪が解けることはなく、そのまま寒風が厳しくなり始めた事で混乱に陥った。

 僅かな夏に、ぼくらは山菜や野草を採り貯める。自分たちの縄張りを少し離れて獣を狩り、時には野生のムールゥなんかも捕まえて、また厳しい季節を越える準備をするのだ。

 しかし、それができない。このまま冬に向かってしまえば、たとえ雪中の狩りがいつもより上手くいったとしても、群れを維持するだけの食料は手に入らない。きっと多くの者が飢えに倒れ、食事をとれない者から寒さにも負けて死んでいく。

 大人たちは必死で打開策を考えた。そして出された結論は。


「雪原の外まで、行商に出るしかあるまい。毛皮や織物を持っていけば、食料と交換してもらえるはずだ。家の事はイーベンに任せる。サフェージュ、お前は私と来なさい」


 きっと父は、過去に雪原の外へ出た経験を買われて、長老から選抜されたのだと思う。一方のぼくは、まだ狩りに不慣れだったことから、荷物持ちや駄載獣の世話係として適任とされたのだろう。

 父以外にも数人の大人たちが集められ、即席のキャラバンは吹雪の中を出発した。雪煙に霞んでいく毛皮作りの家を、ぼくは見えなくなるまで振り返り眺めながら歩いた。

 やがて景色は白い闇に覆われる。夏の終わり頃のはずなのに地吹雪が襲い掛かり、寒さに強いぼくらでさえも、中々前には進めなかった。

 身体を寄せて暖を取りながら、何日も何日も雪の中を歩く。途中で比較的小柄だった駄載獣が寒さに倒れ、仕方なく食料として解体し、枯れ枝を囲んだ火に炙って食べた。残された毛皮は追加の売り物として、比較的荷物の軽かったぼくが背負った。

 ひたすら東へ向かって歩きつづけること暫く。世界は何処まで行っても白く埋め尽くされているんじゃないかと思い始めた頃、ふと身体へ吹き付ける雪が弱くなったことに気付いた。


「雪原を抜けた……ここからが、外だ」


 そう言ったのは父である。

 足元に積もった雪から、ほんのすこしだけだが黄色い草が顔を覗かせ、遠くに細い葉を茂らせる背の高い木も見える。どちらも、ぼくらには夏しか見られない、否、それすら上回る特別な景色だった。


「今日はあの木陰で休もう。今夜は久しぶりに、眠りやすい夜になるぞ」


 大人たちは皆喜んだ。人間の町が何処にあるのかはよくわからなくとも、外の世界へ出てこられたことで、温かい気候という希望を得られたことに。

 しかし、気を緩めた者たちに対して、大いなる守護神は怒ったのだろう。その夜こそ比較的暖かかったものの、夜明け頃から徐々に天気が悪くなり、ぼくらが天蓋を畳んで歩き出すころには、雪原の中よりもなお酷い吹雪がやってきたのだ。

 それでも、少しでも早く食料を持って帰られなければ、家族が飢えて死んでしまうかもしれない。大人たちは悪天候に周りの景色が全く見えなくなる中でも、前の人の背中と足跡を追うようにして歩くことを選んだ。

 しかし、如何にフーリーといえど、いつまでも極寒に耐えられる訳ではない。特に体の小さかったぼくには過酷で、なんとか大人たちの足についていこうとはしたものの、歩幅の広い足跡を必死で辿っている内に、前の背中が見えなくなってしまった。


 ――足跡を辿れば追いつける、かもしれないけど。


 ぼくは誰かの大きな足跡を掘り返し、浅い雪の壁を風よけにする格好で、その場に座り込んだ。

 激しい雪の中では、声を出したところで聞こえない。だからと言って、無理に急いで追いかけようとすれば、きっと体力が持たずに倒れてしまう。

 せめて雪が去るのを待とう。そうすれば、もしかしたら臭いや音を辿って、父が来てくれるかもしれないから。

 雪や寒さのことは、フーリーなら子どもでもよく知っている。けれど、これまで無理をして大人の後をついてきたぼくは、溜まっていた疲労から、意識を失うように眠ってしまったらしい。そのまま凍死体にならなかったのは、売り物にする予定だった駄載獣の毛皮を身体へと巻き付けていたからだろう。



 ■



 ゴトンという、お尻の下から揺さぶられる振動に目が覚めた。

 手足が冷たい。けれど、雪に覆われたような寒さではなく、体をブルリと震わせれば、むしろ陽の光がどこか温かいような気さえした。


「雪、止んで……え?」


 ゆっくり体を起こし、ぼやける目を擦ろうとした所で異変に気付く。

 右手を持ち上げようとしたらとても重たく、どうしてかジャラリと鉄のような音が鳴ったのだ。


「はぁー、本当に目を覚ましやがった。おーいお頭ぁ、俺の負けですよ負け。なんでこれが生きてるって分かったんです?」


「当たり前じゃろうが。その程度の見分けがつけられんで奴隷商が務まるか。お前ももっと精進せい」


 会話するのは小太りの男と細身の男。どちらも見たことのない姿で、耳や尻尾が見当たらない。ただ、自分がどういう立場になったのかは、彼らの会話と辺りをぐるりと囲む檻を見て確信した。


「あの……ぼくは、捕まったんですか……? 父さんたちは……?」


 揺れる荷台の上。格子の傍まで寄って御者台へ声をかければ、小太りの男がニマリとした笑みを顔に貼りつけてこちらを振り向いた。


「よーしよし、普通に喋れるようだな。他は特に壊れている様子もないし、中々に利口そうでもある。これは高い値がつくやもしれんし、お前の立場を教えてやろう」


「えっ、お頭自らですかい?」


「これも商品管理というものだ。特にフーリーは高いからな」


 男の顔が近づいてくることに、ゾワゾワと恐怖が込み上げる。

 だが、瞬きをしても夢のように覚める事はなく、小太りの男の大きな咳払いに、ぼくは小さく自分を抱きしめる事しかできなかった。


「ウォッホン。お前は今、ワシの商品だ。その意思も身体も、髪の毛の1本に至るまでこのワシ、奴隷商ラルマンジャ・シロフスキの所有物である。ワシの言った通りに動き、魅せ、より高く新しい主人に買われるよう努めるのが、お前がすべきことの全てだ」


「買われる……新しい、主人に……?」


 奴隷、という存在について、ぼくはよく知らない。その癖、買われるというその表現から、恐怖と嫌悪感だけはしっかりと込み上げてきて、それらを吐き出すように精一杯檻に向かって咆えた。


「い、嫌です! ここから出してください! ぼくを父さんと母さんの所に帰らせ――痛ッ!?」


 肩に刺すような痛みが走り、驚きのあまりその場に尻もちをつく。

 ニヤリと笑った男の顔。その手には黒く細い鞭が握られており、しかも見せびらかすように目の前でユラユラと揺すられた。


「お前は商品だと言っただろう。ワシの意思がお前の意思だ。必要なら、いくらでも身体に教え込んでやるが」


 冷たい鞭の戦端が首元に触れ、這うようにして頬の上まで上がってくる。まるで次はどこを、と言うかのように。

 怖い。身体は自然と縮こまり、ぼくは膨らんだ尻尾を抱えるようにして、へたり込んだままずりずりと後ずさる。


「や、やめて、叩かないで」


「それでいい。これでもワシは商品を大切に扱うことで有名なのだ。奴隷狩り共からの仕入れにも、それなりに金を払っておるのだし、傷を付ければ価値を損ないかねんからな」


 ラルマンジャは満足げな笑みを浮かべると、鞭を腰へ仕舞いなおしてぼくに背を向ける。

 他人の笑顔がこんなにも冷たく、恐ろしいと思った事は無かった。けれどそれは、寒風を吹かせる守護神が守ってくれていただけなのだと教えられる。それだけでも十分に泣き出したいくらいだったのに。


「そうそう、お前と関係があるかは知らんが――」


 こちらを振り返らないまま、ラルマンジャは贅肉の乗った身体を揺らして独り言のように呟いた。


「奴隷狩りはと言っておったぞ。ただ、どうにも仕事が下手くそな連中でな。無駄に抵抗してくるものだからと皆殺しにしてしまったらしい。もしお前が拾えなければ、毛皮ばかりを戦利品にせねばならんかったとぼやいておったわ」


 胸の奥が凍り付いた気がした。

 違うと、そんなはずはないと言いたい。なのに、喉の奥は焼けた様に熱く、口は空気を求めてパクパクと動くばかり。


「そ、んな……父さん」


 ようやくの事絞り出せた声は短く、同時に頬を冷たい筋が伝っていく。

 泣き喚けるものならそうしたかった。けれど、一度根付いた叩かれるかもしれないという恐怖は、既に心を蝕んでいて、ぼくは零れる嗚咽さえも必死に抑え込みながら、檻の中で蹲っているしかなかったのだ。



 ■



「入れ。今日からここがお前の寝床だ」


 獣車の檻から出されたかと思えば、手足に鎖を繋いで連れてこられたのは、さっきより少し広いだけの違う檻だった。

 ギィと軋むような音を立てて金属製の格子が開く。言われるがままにその扉を潜って中に入れば、寝藁のひとかけらすら置かれておらず、硬く乾いた地面ばかりが広がっていた。


 ――ここがぼくの場所。寒くないのに、こんなに寂しい場所が。


 立ちすくんでいれば、また涙が出てきそうになる。泣いたところで無駄なのだろうと悟っていても、勝手に嗚咽が漏れそうになって。


「ファティマ、お頭からの指示だ。お前がこいつの面倒を見ろ」


 薄い暗がりの中で光った目に、身体が硬直する。また怖いものが現れるような気がして、自然と涙も引っ込んだ。

 しかし、それは怒鳴りつけてこようとも、飛び掛かってこようともせず、ただパチクリと瞬いて、こちらへ歩み寄ってきた。


「新入りですか。結構小さいのが来ましたね」


 夕陽に照らされて見えた顔。それは自分の想像していたような恐ろしいものではなく、ただただキョトンとした女の人のそれである。

 大きな耳と揺れる尻尾。金色の大きな瞳に、三つ編みにした橙色の長い髪。


「明日中にここのルールを教え込んでおけよ。伝えたぞ」


 そう言って踵を返すラルマンジャの部下に、彼女ははぁいと気の抜けた返事を零した。

 種族の違うキメラリア。見た感じでは、兄と同い年くらいだろうか。まだ成人しているようには思えない。その癖、自分と違って緊張したり怖がったりしている様子はなく、どこかボンヤリした雰囲気の女の人。

 彼女はスンと小さく鼻を鳴らし、ぼくの目をジッと見た。


「あなた、お名前は?」


「は、はい! サフェージュ、です」


 声をかけられて、ビクリと体が固まる。

 雰囲気がボンヤリしているからと言って、痛いことや怖いことをしない人だとは限らない。そんな風に思っての事だったが。


「サフェージュ……言いにくいですね。サフでいいですか?」


 彼女はうーんと唸ると、そんなことを言って首を傾げた。


「なんて呼んでもらってもいいです、けど……?」


「じゃあ決まりですね。ボクはファティマって言います。面倒見ろって言われたので、今日からよろしくです。早く誰かに買ってもらえるといいですね」


「なんで、ですか?」


「ボク、売れ残りなんで。ホントに小さい頃から、ずーっとここの商品してますし――ふぁ……」


 途中で大きな欠伸を挟むファティマさん。しかもあろうことか、そのままこちらに背を向けて、地面へ身体を横たえる始末。


「えっ、ね、寝ちゃうんですか!?」


「もう日が落ちますからね。夜中にお客さんなんて来ませんし、ご飯は明日の朝までありませんから。サフも早く寝てください。あんまり起きてたらボクまで怒られるので」


 ファティマさんはそう言って、間もなくくぅくぅと寝息をたてはじめる。

 最初から、とても自由な人だと思った。正直、面倒を見てもらうにしても、どう接していいのかよくわからなかったのが本音である。

 ただ、それも数日経った夜に変わった。

 日中は棒切れを持たされて戦い方の稽古をさせられたり、他の奴隷の衣服を洗濯や掃除、荷運びなんかを命令されたり、時にはお客さんが来るというので体の埃を小綺麗に落として檻の中に立たされたりと、とにかく奴隷という労働力であり同時に商品であることを思い知らされた頃。

 夜の静まり返った空気は余計な思考を掻き立てる。自分は商品になってしまったから、もう二度と、両親や兄弟と身体を温め合って過ごした、あの狭い天幕の生活には帰れないのだと。


「父さん、母さん……」


 自然と嗚咽が零れた。変わらないと思っていた寒い中の温かさが恋しくて、どうしようもない涙が流れてくる。


「寂しいよ、怖いよ……ぼく、どうしたら」


「サフ」


 背後からかけられた声に、ビクリと肩が跳ねる。

 起きていたら怒られるからと、初日に言われていたのに。


「ご、ごめんなさいファティマさん。すぐに寝――むぐ!?」


 寝ますから、と言いきらない内に、顔全体を柔らかい何かに圧迫される。

 それが彼女の身体だということはすぐに分かった。


「静かにしておいてください。寂しいなら、くっついといてあげますから」


 埃っぽさと鉄の混ざった独特の匂いが鼻を衝く。声もいつもと変わらずボンヤリした感じ。

 けれど、その体温や柔らかさは家族と固まって眠った時と似ていて、ぼくはやがて彼女の背中に手を回し、ぎゅっと身体にしがみ付いた。


「……うっ、ひっく……ごめん、なさい……ファティマさん。ファティ、姐さん」


「はぁー……ボクはあなたのお姉さんじゃないんですけどね」


 呆れたように彼女は鼻息を吐く。ただ、そんな呼び方をするなとか、暑苦しいから離れろとは言わず、その日の夜はずっと一緒にくっついていてくれた。

 以来である。ぼくがファティマさんの事を、姐さんと呼ぶようになったのは。

 奴隷商ラルマンジャが、比較的商品を大切に扱うと言っても、所詮奴隷は奴隷。ちょっとした失敗や手際の悪さで怒鳴られ叩かれるのは勿論、何もしていなくても理不尽な暴力に晒されたりもする。時には脱走しようとした誰かの為に、ついでの見せしめで一晩中杭に縛りつけられて立たされることもあった。

 けれど、檻に戻ればファティ姐さんが居る。母のように慰めてくれる訳では無いけれど、辛くて苦しくて泣きそうな時は、やっぱり抱きしめて寝てくれた。

 姐さんが居なければ、きっとぼくはダメになっていただろう。自暴自棄からできもしない脱走を試みて、もっと酷い目にあったかもしれない。生きていなかったかもしれないとさえ思う。

 だからいつしか、ぼくにとって姐さんは憧れで、心の底から離れたくないと思えるほど、とてもとても大切なひとになっていた。

 のだが。


「これが件のフーリーか。うん、悪くない。毛無しではあるが健康そうだし、武器を扱う経験もあるのだろう?」


「えぇえぇ勿論。このラルマンジャ、商品に嘘は申しませんぞ」


 そんなことをいう客が現れたのは、本当に突然のことだった。

 自分なんかより、ファティ姐さんの方が何倍も価値があるのに、なんて目のない人だろう。最初は本気でそう思ったし、自分にかけられた値札を見れば、毛無しにこの値段はとどうせ諦めるに違いないとも考えた。

 しかし、ぼくの予想は全て外れたらしい。


「サフェージュ、出ろ。お前の新しい主様だ。失礼のないようにな」


 鎖を引かれ、あっという間に檻から連れ出される。当然、心の準備などできていない。

 しかし、買われた商品が檻に戻ることなどあるはずもなく、ぼくは連れられるまま檻を離れるしか無かった。

 最後、肩越しに振り返って見えた姐さんは、突然の別れに動揺する様子もなく、ただ少しだけ口元を弛めて、さようなら、と言ったように見えた。



 ■



 自分を買った人物は、お金持ちの集団コレクタだったらしく、ぼくは訳も分からないままリベレイタとして登録され、その集団に引っ張り回されることとなった。

 しかし、普通のコレクタと違ってお金持ちの道楽であったことから、本格的に危険な仕事は受けることがなく、むしろ神代の何かと称するゴミみたいな何かを持ち帰っては、コレクタに出資している商店主に冒険譚を聞かせて喜んでもらう、という、なんだか吟遊詩人モドキなことを繰り返していた。

 曰く、ぼくは見た目で選ばれたらしい。なんでも、物語に刺激が欲しかったのだとか。そのため商店主の前では、ぼくは鉄蟹に襲われている所を集団コレクタに助けられ、以来身命を捧げて付き従う従者となった獣、という役をやらされ続けていた。

 そこさえキチンとこなしさえすればいい、とでも言いたげに、自分を買ったコレクタの男はぼくに興味を示さなかった。キメラリア差別を大っぴらにする人ではなかったものの、余計な関わりは持ちたくなかったのかもしれない。ぼくとしては、借り物の道具を壊して借金を抱えることも無く、少しづつでもお金を貯めることができたので、とてもありがたかったのだが。


「自分を買いたい?」


「はい。それだけのお金は貯めていましたから」


 何年か経ってそう切り出した時、自分を買った男は特に悩む素振りを見せなかった。

 トントンと判をつき、お金の入った皮袋を懐へしまうと、後は好きにしろとヒラヒラ手を振って終わり。

 同じようにリベレイタをしていたキメラリアが言うには、そろそろマンネリ化してきたから新しい刺激を入れたくて、しかし増員するには懐の余裕が足りないと、リーダーである男がボヤいていたのだとか。

 多分、その情報は正しかった。内心どんな反応だったか知らないが、きっと自分が居なくなったあとで大いに喜んでいたことだろう。

 奴隷から這い上がったキメラリアの中でなら、自分はとても幸運だったに違いない。かくして、野良のリベレイタという称号だけを手に、数年来の自由の身となったぼくは、残った貯金を使って雪原へ帰ることに決めたのだ。


 ――けど、どっちだろう?


 何分、攫われてきた身である。雪原までの道など感覚でしか分からず、騎獣なんていう便利な移動手段がある訳でもない。結局、途中の街道酒場で聞き込んでは進路を修正して、じわりじわりと進むしかなかった。

 それでも諦めないで歩き続けていれば、白い大地が見え始める。幼い頃から親しんだ、フーリーの守護神が宿る土地。


「……母さんたちに、また会えるんだ」


 父にはもうきっと会えない。けれど、皆の暮らしたあの場所に帰れるんだと思えば、途端に足は軽くなる。

 寒さに凍えた行き道と違い、天候は雪こそ降っているもののずっと穏やかであり、神様がぼくを迎え入れてくれたようにさえ見えた。

 雪原を歩いてまた数日。白く尖った山の麓という、見知った景色に辿り着いた。

 だが。


「……集落が、ない?」


 白い靄が流れて見えた先。駆け出した足はゆっくりと遅くなり、静かに立ち止まる。

 集落の周りを囲んでいた木の柵も、立ち並ぶ天幕も、狩りに勤しむ人々の声も、そこには何もなくなっていた。

 道を間違えたのか、それとも違う場所と勘違いしているのか。否有り得ない。背後に聳える山がそうだと教えてくれる。

 ぼくはゆっくりと歩いて、覚えている限り集落の中心だった場所で立ち止まった。

 ふと伝わってくる、何かを踏んだような感触。そっと足を上げ、白く重なる雪を掘り返してみれば、黒く焦げた木切れが顔を覗かせた。


かまどの跡……じゃあ、やっぱりここは」


「おーい! そこのー!」


 背中に投げかけられた声に、ハッとして振り返る。もしかして、知り合いかもと思ったからだ。

 しかし、そこへ現れたのは見たこともないキメラリア。モコモコした毛皮に身を包み、フードから長く嘴を突き出しているクシュの男だった。


「ありゃあ? 行商さんかと思ったが、アンタ荷物もってないね」


 彼はペタペタと独特な歩き方で近づいてくるなり、大きく首を曲げてはてなと嘴をさする。


「ぼくはその、ここの集落に住んでいた者なんですが」


「まさか! こりゃあ驚いた、ここに生き残りが居たとはな」


「どういうことです?」


 生き残り、という言葉に背中が冷たくなる。

 しかし聞かねばならない。この機会を逃したら、知ることさえ出来なくなるかもしれないのだから。


「知らんか、知らんわなぁ。ありゃ何年か前の事だけども、ここは雷に打たれて燃え尽きちまったのさ」


 平たい腕を組んだクシュは、そう言ってふぅと大きく息を吐く。


「冬のとんでもない嵐の日でよ。俺は偶然この辺りまで猟に来てたんだが、バンバン空が光ったかと思えば、あの辺から火の手が上がってな。風に煽られてあっという間に凄まじい炎が集落を包んじまった。誰1人逃げてくることもなく、よぉ」


 燃え尽きた。母も兄も長老も、家も倉庫も柵もなにもかも。

 自分が奴隷になっている間に、帰る場所は完全に消えてしまった。

 あの時、もしも自分が落伍しなければ、もしも奴隷狩りに合わず無事に帰りついていれば。

 結果は変わったのだろうか。まだ暖かい暮らしを続けていられたのだろうか。


「お、おいアンタ! 大丈夫か!?」


 その場に膝から崩れ落ちたぼくを、クシュの男性は慌てて支えてくれる。

 大丈夫なんかじゃない。もうぼくには、何も無い。

 きっとこれ以上ないくらい空虚な顔をしていただろう。クシュの男はポンとぼくの肩を叩いて、踵を返しながら言った。


「気の毒にな。しかし、アンタは生き残ったんだ。それならせめて、亡くなっちまった連中に恥じないよう生きなきゃよ」


 そうだけど、そうなんだけど。

 ぼくに死ぬような勇気はない。けれど、もう何をしていいかわからず、ぼくは空に向かって大きく吠えた。

 こぁーん、という声が辺りへ広がっていく。けれど誰も答えない、何も返らなかった。

 そこからどんな風に、何を思って歩いたのかは覚えていない。ただ、知らないうちにカサドール帝国領まで戻り、小さな街道酒場で突っ伏していた。

 そこでとある噂を聞いたのだ。


「ミクスチャ殺しの英雄? なんだそりゃ」


「商人の噂が本当なら、ケットの毛無娘の借金を返すために、数人の手勢を引き連れて化物に挑んだらしい。鋼のウォーワゴンを操る、黒髪の男なんだとよ」


「黒髪ぃ? どーせ作り話だろ。わざわざリベレイタなんかの借金に、化物とやりあうような馬鹿なんて居るかよ」


「それが、この話の出処はグランマだって話だぜ。それに、助けられたっていうキメラリアの名前も言ってたな。確か、ふぁ、ふぁ……?」


 顎を擦りながら首を捻る薄汚れた男の言葉に、ぼくは思わず椅子を蹴っとばして立ち上がった。


「その名前! もしかして、ファティマ、じゃないですか!?」


「お、おぉそうそう、ファティマだファティマ。なんだ狐の、お前も聞いたことあるのか?」


 野良リベレイタのキメラリアがいきなり声を上げて、まともに取り合ってもらえた辺り、噂をしていた男たちは突然の乱入にとても驚いていたのだろう。

 だが、最早ぼくには男たちの表情なんてどうだってよかった。


 ――姐さんを、あの姐さんを買った人が居るんだ!


 帰れる場所なんてどこにも無い。安心して身を委ねられる相手なんて二度と現れないかも知れない。そんな絶望感が音を立てて弾け、一筋の光が自分へ差し込んだような気がしたのだ。


「ぼく、そのケットと知り合いなんです! 詳しく教えてくれませんか!」


「あ、あー……そう言われてもな。俺もほとんど又聞きだしよ。詳しく知りたいんなら、グランマの居るバックサイドサークルに行ってみりゃいいんじゃねぇか?」


「ありがとうございます!」


 詰め寄られて困惑気味な男たちを残し、ぼくは放たれた矢のように街道を走り出した。

 ファティ姐さんが健在で、自分と同じリベレイタとして働いているのだとしたら、また一緒に過ごすことができるかもしれない。また、温かい腕の中で眠らせてもらえるかもしれないと。

 昔とは違って、今の自分にはリベレイタとしての経験がある。もう何もできないまま泣いている子どもじゃない。

 何もしないまま諦めてたまるものか。できるものなら、長く彼女を縛り付けているくびきを断ち切り、一緒に自由な世界を生きて見せる。

 希望に燃えたぼくは、ファティ姐さんの足取りを辿ってバックサイドサークルまでの勇み足の旅をし、更にそこでヘンメという男から得た情報と言伝を頼りに、更にユライア王国を目指すことになったのだ。



 ■



「ぼくがここに来るまではそんな感じ、ですかね。あんまり面白いお話じゃないでしょう?」


 驚く程に明るいランプが灯る部屋の中、ぼくは尻尾をゆらりと振ってぽりぽりと頬を掻く。

 苦労も絶望は嘘でもなんでもないし、家族を皆失ってしまった事を想うと未だに寂しい気持ちにもなる。けれど、この残酷な世界にキメラリアとして産み落とされた者には、決して珍しい話ではないはずだ。

 なのに、ぼくの昔話を聞かせて欲しいと言った当の本人は、きつく目頭を押さえて小さく鼻を啜っていた。


「苦労、したんだなぁ……」


 人々からミクスチャ殺し、あるいは黒髪の英雄と呼ばれる人間の男は、どういう訳か抑えきれない涙に頬を濡らし、鼻をズビズビと鳴らしながらそんなことを言うのだから、むしろぼくは混乱してしまう。


「ちょ、ちょっとキョウイチさんそんな、大袈裟ですよ」


「大袈裟な物か。そんな辛い想いをした君に、僕ぁ初対面から大人げないことを言ってからに……知らなかったとはいえ、なんと謝ればいいやら」


「べべべ、別に気にしてませんから! ほら、ダマルさんからも何とか言ってあげてくださいよ!」


 小刻みに震えるキョウイチさんを前にどうしていいか分からなくなったぼくは、咄嗟に直属の上司に当たる骸骨に助けを求める。

 普段からカタカタと小気味よく笑うこの男、だと思う骨ならば、きっとそんなことかと笑い飛ばしてくれると信じて。


「悪ぃ、ちょっと席外すわ。ヤニが切れた」


「は、はい?」


 ふぅーと大きく息を吐きながら、ダマルは背中を丸めて外へ出て行ってしまう。その声が僅かに震えていたことも含め、残されたぼくがポカンとするしかなかったのは当然だろう。

 しかもキョウイチさんは、ズズッと鼻を啜るや泣き顔を歪めて不器用に笑ってみせるものだから、もう自分にはどうしていいものやら。


「すまない、どうも20代も半ばを過ぎた頃から涙脆くてね。乗り越えてきた過去の話を、外野が濡らすなんて鬱陶しいだけなのは分かってるんだが」


 そんなことは、と言おうとして少し考える。

 恐ろしいくらいに強い力を持っていながら、キメラリアの昔話1つでこんなに泣くなんて、本当に変な人間だと思う。

 けれど、それがとても温かいような気もして、ぼくはソファに腰かける彼の隣へ座り直した。


「……きっと、そんなキョウイチさんだから、姐さんはよく笑うようになったんですね」


「そんなに違うのかい? シューニャにも、前に似たようなことを言われたが」


 赤い目をした彼は、心底不思議そうに首を傾げる。

 本当の理由なんてぼくにだってわからない。けれど、今の自分と同じような気持ちを姐さんが感じていたのだとしたらと思うと、自然に頬が緩んだ。


「昔のファティ姐さんは、ずっとボーっとしてる感じでした。笑ったり泣いたり怒ったりすることを、面倒くさいと思ってるみたいだったんですよ」


 商品が感情を出したところで、それを受け止めようとする相手なんて誰も居ない。むしろ奴隷商を前に泣いたり怒ったりすれば、痛い思いをさせられる可能性が余計に上がるばかりなのだから。

 しかし今となっては既に昔の事。この人はキメラリアが相手でも身構えることもなく、自然体でありのままの感情を受け止めてくれる。

 それが首輪と値札をかけられていた者にとって、どれだけの救いとなっているかなんて、きっと言った所で分からないだろう。

 少しだけ息を吸い込み、ぼくは握られた恭一さんの拳にそっと手を添えた。


「姐さんの事、お願いします。どうかずっとずっと、幸せにしてあげてくださいね」


 手の甲から身体が強張った感じが伝わってくる。それだけで返事なんて要らなかったように思うのに。


「っ……! ああ。だが、それは君に対しても同じだ」


「――へっ!?」


 ひっくり返った声が喉の中ほどくらいから飛び出した。

 ぼくに対しても、とはどういう意味だろう。キョウイチさんは言うまでもなく、この細身も間違いなく男のはず。

 その癖、どうしてかあっという間に顔が熱くなってきて、いきなり思考は沸騰した。


「あぁあぁあのあのあの!? おおおお気持ちは嬉しいんですけど、ぼくそういうのよくわからなくてぇ! でででもでもキョウイチさんがどうしてもって仰るなら別に嫌じゃないというか、ええとええとぉ!?」


 両腕は勿論、大きく膨れた尻尾から尖った耳から、四方八方へぐるぐるぐるぐる動き回る。自分でもどうなっているのかイマイチわからない。

 ただ、そんな自分の様子を見てか。キョウイチさんはフッと優しい笑みを零すと、大きな手をぼくの頭にポンと置いた。


「君ももう大切な仲間だってことだよ。これからの未来、辛い思いなどさせはしない。約束しよう」


 細められた目。長い髪を撫でていく暖かい体温。

 頭が熱くなっていたからだろうか。その姿が幼い自分の記憶と重なった。


「……兄、さん」


「なんて?」


「な、なんでもありません! けど、あの――ふふっ」


 無意識に零れた微かな呟きは、彼の耳に届かなかったのだろう。こちらへ向けられるキョトンとした顔に頬が緩んだ。

 種族から全く異なり、背格好も顔つきも似ている場所なんてどこにもないのに、どうしてそんな言葉が勝手に顔を覗かせたのか。

 考えなくても分かる。だから、大切な仲間と呼んでくれたこの人の肩に、ぼくはそっと頭を乗せた。


「やっぱり今のぼくは、きっと幸せ者なんだと思います」


 自分が二度とえられないと思った温もりをこの人が、この場所に居る沢山の人たちが、与えてくれている。

 だからいつか、今度は自分の意思で呼んでみたいと思う。

 黒い髪をした変り者の英雄を、姐を託したこの人のことを、と。

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