第4話 覇権

 長久手の戦いが行われていた4月9日、羽柴秀長が松ヶ島城を開城させ、城主の滝川雄利は浜田城(三重県四日市市)に移って籠城する。


 また、森長可の死後に手薄となった東濃では、三河から徳川勢が侵攻し、4月17日には徳川家に居た遠山利景が旧領であった明知城を奪還している。


 その後、羽柴勢は5月4日から尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を囲み、水攻めなどで順次攻略したが、信雄・家康は後詰要請に応えず開城するように勧告し、6月10日に開城している(竹ヶ鼻城の水攻め)。


 秀吉は6月13日に岐阜城に立ち寄り、6月28日に大坂城に戻った。これを受けて家康も小牧山城を酒井忠次に任せ、清州城に移っている。


 和泉では、同年3月から根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒が秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め寄せており、岸和田城にも攻め寄せたが、中村一氏と松浦宗清が戦いの末にこれを守りきっている(紀州征伐)。しかしながら、この和泉の攻防により、秀吉は6月21日~7月18日、7月29日~8月15日、10月6日~10月25日と戦場を離れ大坂城に帰還している。


 北関東では、5月初旬から8月にかけて、北条氏直率いる北条軍と、佐竹義重、宇都宮国綱、佐野宗綱、由良国繁、長尾顕長らの間で合戦が起きた(沼尻の合戦)。 佐竹義重・宇都宮国綱は秀吉と頻繁に連絡を取り合い、上杉景勝は秀吉の命により信濃出兵をし、北条氏を牽制している。一方、北条氏は先年の家康との講和を発展させ、対秀吉の攻守同盟を結んでいた形跡があり、北条氏は本合戦の直後に小牧・長久手の戦いに参陣しようとした動きがあった。


 翌天正11年(1583年)4月、秀吉の命をうけた仙石秀久が淡路島から小豆島に渡り、喜岡城、屋島城を攻城したが、攻めきれず撤退した。また小西行長軍も香西浦に進軍したが長宗我部軍の反撃のため、上陸できないまま撤退した。


 同時期、元親の本隊は阿波国から大窪越えし田面山に陣を張り虎丸城の攻城に取り掛かった。与田、入野周辺で合戦となったが十河存保軍の反撃したため、止む無く虎丸城周辺の麦薙、苗代返しを行い兵糧攻めとした。その時仙石軍が引田城に入城したとの報にふれ、香川之景隊を引田城に出軍させ引田の戦いとなった。この戦いで敗れた仙石軍は船で淡路国に撤退した。存保は虎丸城を撤退し十河城に入城した。「一説には虎丸城は翌十二年七月に落城したとも伝えているが、詳細は定かでない」としている。


 一方秀吉は、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康連合軍と戦いを続けている。この時家康は元親に味方し淡路国に進軍するように呼びかけた。この動きに即応した秀吉は大坂城へ帰城し防備を固める。秀吉の帰城を知った家康は元親へ直ちに進軍するように催促したが、伊予国で土豪衆の動向や毛利氏の侵入への警戒、そして十河城が落城していなかったことから、元親は家康の要望には応えられずにいた。


 四国平定を急いだ元親は、十河軍に属していた寒川氏、由佐氏の調略に成功し、彼らを用いて雨滝城をはじめ十河城の支城を次々に落城、そして翌天正12年(1584年)6月11日、元親は十河城をついに落城させ、第二次十河城の戦いは終結する。しかしその前日6月10日夜に存保は城を抜け出して逃走していた。存保と存之は元親に降伏を申し出、屋島から備前国そして堺へ逃走し羽柴秀吉の配下になったとされている。


 長宗我部軍の同盟者であった信雄は十河城落城の報を知ると、元親の弟である香宗我部親泰へ送った書状に、「六月十一日芳翰、令披見祝着候、十川要害被攻崩之由珍重候」(織田信雄書状 八月十九日付け)とあり、十河城が落城した事に喜びを述べている。


 十河城は長宗我部家が攻略し、長宗我部親武が城主となったが羽柴軍が讃岐国に侵攻すると、1585年(天正13年)には撤退、讃岐国には秀久が領主となり存之は2万石を与えられ十河城を復権された。しかし翌1586年(天正14年)九州征伐に従軍し、島津氏との豊後国戸次川の戦いにて戦死すると、十河城も廃城となる。


 十河城は東西が川と谷(鷺池)にはさまれた舌状の微高地(標高42メートル、比高10メートル)に所在し、主郭部分は、鍵型の土塁に囲まれた部分に方形居館があり、周囲に曲輪を付属させていた。北側には大きな堀切と土橋があったと思われ、その北側には大きな曲輪があった。主郭には現在称念寺が建っている。鷺池とは城の西側にある細い谷をせき止めたものであったことが『南海通記』にみえる。また「十河城は三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手口とす。土居五重に築きて、堀切ぬけば攻入るべき様もなし」(『南海通期』)とあり、大手は南側にあり、三方は深い田となっており土塁を5重に築いていた事がわかる。仁王門から香川県道30号まで下り坂となっているが、その間には数段の帯曲輪があり、それぞれに土塁が築かれていたと思われている。また城の西側にある鷺池は堀の一部と考えられており、また香川県道30号の東側にも水路があるがこれも城の堀であったと思われている。


 城郭の大部分は、宅地、田畑となり城跡を思わせる遺構はほとんど現存していない。

 

 また新居郡の金子元宅と同盟し、南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大した。 6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。しかし小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。


 伊予国の平定は予想以上に手間取った。天正12年3月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突する。4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間(菊万)で合戦を行っている。 元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じた。しかし渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり、12月には遂に河野氏は元親に降伏した。その後、天正13年(1585年)春までに西予の豪族なども降伏させた。


 

 

 

 

 

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長宗我部帝国 鷹山トシキ @1982

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