第3話 激戦

 長宗我部元親、香川親和連合軍が讃岐国に侵攻してきた。天正10年(1582年)8月6日、香西佳清が籠城する藤尾城を攻撃したが香川之景の仲介のもと、親和軍に降伏した。佳清隊1千兵を味方に加えた親和軍は、同月11日に讃岐国分寺を1万1千兵で出軍、十河城を取り囲んだ。当時存保は勝瑞城におり、十河存之が城代として城を守っていたが1万の軍との報が入ると長期戦を考え城兵を1千兵まで絞り込み、兵糧三ヶ月分を積んで籠城戦の準備を整えた。


 親和軍は平木周辺に着陣し十河城周辺の麦薙、苗代返しを行った。この時の様子を「敵兵万余人、山田郡ニ入テ秋毛ヲ刈リ菽栗ヲヒキ抜テハ馬ノ食ヲ足シム程幾日モナク野ヲ清ミ、凡民ノ寄ルベキ便モナク、四方ニ惑ヒ行クコト疎マキコト也」(『南海通記』)とあり、領民が難民となって故郷に逃亡するものも多かったと記している。 一方の守将の三好隼人佐は武力の強い強盗を仕立て、各地を歩き回らせ、夜討ちをして人を殺し、財産を奪い取らせた。そのため人々は十河を憎むようになった。(南海治乱記) 敵でもない者を殺し、義理も人情もないのは言語道断のことであったと南海治乱記で書かれている。 (南海治乱記210頁)


 その後親和軍は十河城の四方を囲み、攻城のために作道をしたが城中には多数の鉄砲があり、四方の櫓から撃ち作道は中止となった。長宗我部軍は十河城との間合いを2町まで詰め、大筒を2挺用意し十河城の櫓を打ち崩し、籠城戦も難しくなってきた。しかしこの時前田城の城主前田宗清が夜討ちをかけ十河城を援護した。「忍者戦術に出て敵をなやませた」とされ、夜討ちや抜け穴、長宗我部元親軍の陣地に忍び込み食料を奪い取ることもあり、遠地で兵站もままならず長陣になると長宗我部軍も疲弊し始めた。しかし、ここにいう夜討ちとは前述の通り、敵でもない者を殺し奪い取るというやり方で真部氏の城を攻めるに当たってはその屋敷や親族の女子供に至るまでの家族を皆殺しにしている。また、笠居郷の佐藤氏の城にも忍び入って親子3人を打ち殺しあらゆる物を盗み去った。 そのほか農民の土居構えの屋敷を押し破ったり、京都から田舎へ下って住んでいた公家や富裕な者の家へ乱入して、情け容赦もなく人を殺し、品物を奪っていた。それはとても言葉では表現できないほどである。(南海治乱記) このような伝承は地元の香川県ではなされず長宗我部のみを悪として語り、前田は英雄とされている。



 一方勝瑞城では同時期中富川の戦いとなったが敗れ、存保は同年9月21日の夜半、勝瑞城から虎丸城に逃走していった。存保は虎丸城に入ると「土州の凶徒漸々に募り、四国を合呑せんとす。我いまだ旧領を失はずして相保てり。不日に征伐を加へらるべし。若し事延引せば天下の禍いをなすべし」(『南海通記』)とし羽柴秀吉に援軍を要請した。これに応えた秀吉は淡路国洲本城の城主仙石秀久に救援を命じた。


 その間十河城では、長宗我部軍は岩倉から山越えし香川親和軍と合流し総勢3万6千兵となり、再び攻城戦となったが落城させる事は出来なかった。そして冬となり、監視の部隊を置いて長宗我部軍は一旦土佐国に撤兵し、第一次十河城の戦いは終了する。


 9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。


 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。 これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路洲本に入れて備えた。 また元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも敗退。さらに小西行長の水軍に香西浦を攻めさせるもこれも敗退した。しかし4月に勝家は秀吉に敗れて滅んだ。このため5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた。


 天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし(甲州征伐)上方に凱旋するが、同年6月には信長および既に織田家家督者であった信忠親子が家臣・明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち、清洲会議で信忠遺児・三法師を織田家当主とすることを確認した。その後、秀吉は信長三男の信孝から三法師を奪取した後に、信長次男の信雄を三法師名代に擁立し主君と仰いだ。


 一方、三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。


 天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて、信孝を擁する織田家筆頭家老・柴田勝家に勝利した。賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の遺領の越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。


 天正11年(1583年)に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、徳川家康と同盟を結んだ信雄は天正12年(1584年)3月6日に親秀吉派の三家老を処刑した。これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。


 小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。中でも、本多忠勝は丹波国の国衆である大槻久太郎や蘆田時直(赤井直正の弟)に書状を遣わして戦況を報告し、油断なく堅固に城を守備するよう指示している。特に時直宛の書状では、知行はあなたの望み次第であり、その他の国衆には国替えをすると伝えるなど、まさに「飴と鞭」をうまく利用して煽動している。また、忠勝は兵糧の確保を怠らないように注意すると共に、調い次第、こちらから兵糧を遣わすと記している。このことから、忠勝が本気で丹波国衆達を支援しようとしていたことがわかる。しかもこの動きは家康や信雄、そして他の家臣達の策謀と同時進行に行われていることから、忠勝が秀吉包囲網の形成に一役かっていることが窺えよう。


 天正12年(1584年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた。


 3月15日、池田恒興と協同せんとする森長可は兼山城を出て、16日羽黒(犬山市)に池田勢より突出したかたちで着陣した。しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠・酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人という。


 敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。秀吉は3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣する[16][注 4]。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。


 両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。5日朝、恒興は秀吉のもとをまた訪れ、森長可とともに羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成して明6日三河西部へむけて前進すべしと命令。支隊は4月6日夜半出発した。


 家康は4月7日に羽柴秀次勢が篠木(春日井市)・上条城の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。4月8日、地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城(名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。


 秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始する。氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手市、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。


 岩崎城で攻城戦が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)に休息していたが、9日4時35分ごろ後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢に襲撃された。この奇襲によって秀次勢は潰滅する。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で逃げ遂せた。また、目付として付けられていた木下祐久やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした。


 羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、第四隊に参加していた長谷川秀一の遣いから秀次勢の敗報が届いたのは約2時間後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢を攻撃したが、返り討ちにされて逆に追撃された。徳川軍支隊の死者280余とも500人ともいう。


 織田徳川本隊は、9日2時に小幡城を出発して東へおおきく迂回し、4時30分ごろ権堂山付近を過ぎて色金山に着陣。そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、岩作をとおり富士ヶ根へ前進して堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断、池田と森の援軍要請を無視して後退した。

 

 岩崎城を占領した池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、両将は引き返しはじめた。そのころ、家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢3,000人、後方に恒興勢2,000人が陣取った[24]。


 4月9日午前10時ごろ、両軍が激突。戦闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、前線に出て戦っていた森長可が狙撃されて討死して池田・森軍左翼が崩れ始めると、徳川軍優勢となった。池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。やがて恒興・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わり、追撃したのち小幡城に引きあげた。この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という。


 秀吉は9日に陽動として小牧山へ攻撃をしかけている。午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は3万人の軍勢を率いて戦場近くの龍泉寺に向けて急行した。しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害される。夕刻、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山城に帰還した。秀吉は翌日この報を聞き、楽田に退いた。 ただし、本多忠勝が秀吉と戦闘に及んだ日は秀吉の書状写や忠勝の書状写から五月朔日であることが窺えるので、長久手合戦での家康本隊の戦闘に不安を感じたからではなく、進軍する秀吉本隊に対する危機感からではないかと思われる。

 

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