第2話 虎口

 土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。


 阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576年)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。


 天正6年(1578年)2月、元親は阿波白地城を攻め、大西覚養を討った。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗するが、元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した。康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。


 伊予方面においては、南予地方では軍代であった久武親信が天正7年(1579年)春に岡本城攻めで土居清良の前に戦死するなどした。しかし東予地方では白地から圧力と誘いをかけて金子元宅や妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定。中予地方を支配していた伊予守護の河野氏は毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。


 天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。 元親は信長の要求を拒絶する。


 このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。ただし、十河存保の動向は必ずしも信長に忠実ではなく、三好康長も阿波国内に元親に対抗するための拠点を確立したことを裏付ける史料が無い以上、天正8年の段階で信長と元親の関係が悪化したとする見方を疑問視し、天正9年(1581年)11月に羽柴秀吉が三好氏に追われていた野口長宗を擁して淡路を平定したことで織田勢力と長宗我部勢力が隣接し、その勢力範囲の確定(国分)を巡って対立を始めたのではないかとする説もある。


 天正10年(1582年)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた。 元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。


 元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図った。天正10年(1582年)5月、織田信長は三好康長を先鋒、三男の織田信孝を主将として四国攻めの兵を起こし、このため既に阿波侵攻を進めていた元親は一時兵を退いていた。しかし本能寺の変により織田氏の圧力は消滅し、後ろ盾である信長を失った康長は阿波を捨てて退却した。こうして長宗我部氏にとっては阿波攻略の機会が訪れた。


 長宗我部信親は、一宮城・夷山城を奪い返し、勝瑞城を攻め落とそうと考えた。元親は8月まで待つように指示したが、信親は手勢を率いて海部(現海陽町)に至り、香宗我部親泰を頼って長宗我部元親の後援を待った。しかし元親は将兵や領民の疲労を考え、近沢越後守を使者として信親を岡豊城に呼び戻した。三好氏との決戦に際し、十分な準備をしてから事に当たるためである。


 元親は岡豊城内で軍議を催した。『長元物語』によると、この時家老城持衆と一領具足衆からそれぞれ別室で意見を聴取した。


 元親は一領具足の意見を採用し、阿波への出兵を決めた。その際に以下のような布告を出して兵を募った。


 長宗我部軍は南海道を北進、牛岐城に入城し戦評定を行った後、同年8月26日夷山城、一宮城に至り勝瑞城を目指して行軍した。これより前に、存保は一宮・夷山の両城を放棄して勝瑞城に兵力を集中させていた。翌8月27日井戸村付近で全軍を集結させ三隊に分け、親泰が3千兵を率いて中富川の南岸に着陣した。翌8月28日元親は軍師等覚に意見を求め、全軍に出撃命令を下し、同日正午ごろ、先陣である親泰隊は中津川の北岸目指して突撃した。


 これに対して存保の軍は勝瑞城を本陣とし、阿波・讃岐の三好氏配下の将兵5千余をもって勝興寺城(矢上城)を先陣とし、大手付近に2千兵、後陣として3千兵を配して防塞を築いた。


 親泰隊が渡河を始めたころ、信親、長宗我部親吉隊が率いた1万4千兵の主力が南東より、親泰隊は西南より進み合計1万7千兵が両翼から攻めた。これに元親と和議を結んでいた、一宮城城主小笠原成助(一宮成助)、桑野城城主桑野康明ら6千兵を率いて、黒田ノ原から中富川に攻撃した。


 当初は十河軍の反撃にあい、長宗我部軍も一時は劣勢となったが、攻め手は勝瑞城まで追いつめ包囲した。


 長宗我部勢は2万の兵で勝瑞城を包囲した。この時、雑賀衆の援軍が長宗我部軍に加わった。9月5日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川本流と中富川が氾濫し板野平野一帯が洪水で湖化して、長宗我部軍は民家の屋根や木の上に登り避難した。この状況をみた十河軍は、城兵を小舟に乗せ、屋根の下や木の下から長柄の槍で串刺しにしていった。


 長宗我部軍は本陣を光勝院に移し、板野平野の水が引き去ったのち、陣形をたてなおして再び攻勢を開始した。戦場は勝瑞城の内外で白兵戦となり、両軍入り乱れた乱戦になり双方かなりの損害が出た。本陣で指揮した存保は、玉砕覚悟で敵本陣へ攻勢をかけ最後の決戦にのぞもうとしたが、側近であった東村備後守の諫言を容れて勝瑞城へ引き揚げた。勝利をおさめた長宗我部軍は酉の刻は食事をとりつつ、再び勝瑞城を包囲した。


 同年9月21日に存保は降伏の誓詞を元親に入れ、勝瑞城の明け渡しを条件に存保に免罪をうけ、讃岐国の虎丸城へ退去した。この戦いで両軍の死者数の合計は1503名、更に重傷、軽傷を受けた数はこれらをはるかに上回ったと思われている。


 その後の戦いの様子は、十河城の戦い及び羽柴と長宗我部の対立も参照。

この戦いの後阿波の諸城はほとんど長宗我部氏に降ったが、元親は降伏した阿波諸将のうち一宮城主小笠原成助・富岡城主新開道善らに謀反の疑いをかけて謀殺した。翌天正11年(1583年)4月には木津城の篠原自遁が香宗我部親泰の攻撃を受けて淡路に敗走し、阿波国内で長宗我部氏に反抗する者は土佐泊城の森村春のみとなった。

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