ぼくは騎士様
三咲みき
ぼくは騎士様
「おやすみ」
それはおまじないだった。
その一言でぼくは彼女を眠りの世界へと導く。彼女を寂しい世界から連れ出すために。彼女を救うために。
ぼくにはそれしかできなかった。
目の前で安らかに眠る彼女の頬を伝う涙を拭うことすら、ぼくにはできない。
***
彼女と出会ったときのことを思い出す。
彼女の父親が出て行ったことが全ての始まりだった。別れ際、父は彼女にぬいぐるみを贈った。淡いパープルを基調とした、大きなくまのぬいぐるみだ。つぶらな瞳に、小さな鼻。口はないけれど、どこか柔らかな表情をしている。首もとには大きなリボンが結ばれている。
幼い彼女はそれを両手で抱えこんだ。
それがぼくだ。
ぼくたちはいつも一緒だった。時にはおままごとの相手。時には話し相手。そうそう、こっそりぼくに好きな人を教えてくれたこともあったよね。
ぼくは彼女が大好きだったし、彼女もきっとぼくを大好きだった。
夜はぼくを抱きしめながら布団に入った。静まりかえった家に母親の気配はない。母親は彼女を食べさせるため、昼も夜も働いていた。
彼女は寂しさを紛らわすようにぼくを一層強く抱きしめた。
ときどき彼女は寂しさからそっと涙を流した。その雫がぼくの額に落ちた。
大好きな彼女のためにぼくができることは、彼女に魔法をかけてあげることだった。
彼女が布団の中で一日の出来事を話し終え、おやすみと言った後、ぼくは彼女に魔法をかけ、すぐに眠りにつけるようにしてあげた。
あるとき彼女は言った。
「あなたと一緒に寝るとすぐに眠れるの。だからね、わたし、ちっとも寂しくないよ。あなたはわたしを守ってくれる騎士様だね」
その彼女の笑みをいつまでも守りたいと思った。
そんな彼女も大きくなって、社会人になった。彼女はぼくを連れて一人暮らしを始めた。大人になっても眠るときはいつも一緒だった。そしていつも魔法をかけてあげた。
彼女の幸せだけを願って、このまま静かに暮らしていけたらいい、そう思っていた。
彼女の様子がおかしくなったのは一人暮らしを始めて半年が過ぎた頃だった。深夜に帰宅した彼女の顔は疲れ果てていた。食事中もボーッとして、箸が進まない。休日は何をするでもなく、ただ一点を見つめていた。かと思えば急に涙を溢し、膝を抱えながら泣いた。そんな生活が何日も続いた。彼女の瞳は次第に虚ろになっていき、「消えたい………」と呟くようになった。
彼女の勤める会社はいわゆるブラック企業だったのだ。そこで彼女は心身ともに削られていった。
そしてある晩彼女は言った。
「……眠りたくない。明日がきてほしくない……」
「おやすみ」は彼女を救うおまじないだったはず。しかし今の彼女にとってそれは苦しい場所にいざなう言葉でしかないのだ。
そして彼女は言った。
「騎士様。私、ずっと眠っていたいよ。このまま楽になりたい。もう、疲れちゃった」
涙をにじませながらぼくの頬をなでた。もうすっかり大きくなって、色んな苦労を滲ませた手。彼女はいつも孤独だった。ぼくはただ見守ることしかできない。ぬいぐるみのぼくには、彼女を本当の意味で救うことはできないのだ。
彼女は願う。ずっと眠っていたいと。ぼくは騎士様だ。彼女が望むなら、その願いを叶えてあげよう。
彼女は最後のおまじないを言った。
「おやすみ」
彼女はそっと微笑み、瞼を閉じた。その拍子に涙がそっと流れた。
***
「おやすみ」
それはおまじない………だったはず。
その一言でぼくは彼女を眠りの世界へと導く。彼女を寂しい世界から連れ出すために。彼女を救うために。
ぼくにはそれしかできなかった。
ぼくは彼女を救えた………はず。
それなのにどうしてだろう。どうしてこんなに悲しいのだろう。
目の前で安らかに眠る彼女の瞳は、もう二度と開かれない。
彼女のこれからをもっと見守りたかった。もっと生きていてほしかった。たとえそれが彼女にとって死ぬより辛いことだとしても。
そんなことを思ってしまうぼくは、きっと騎士様失格だ。
ぼくは騎士様 三咲みき @misakimaru
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