くすぐる
紫鳥コウ
くすぐる
公園には人ひとりいない。砂場の囲いに小さなスコップが置いてあった。生垣の樹は葉を落とした枝を悲しそうに
ベンチに腰をかけようとしたが、朝に降りしきった
檸檬をかじったときの酸っぱさのような、身を悶えさせてしまうほどの刺激になりうるものが、ここにはひとつもなかった。眼を開けられないほどの凍えるような風も吹かず、ときおり、冬に枯れた樹々の枝が寝がえりをうつ、かすかな衣擦れのような音がするだけだった。
もう、家の鍵を探す気にはなれなかった。この公園のどこかにあるはずなのだ。階段の手すりのペンキが剥がれている、
隣にも下にも入居者がいない角部屋は、お金のない身にとって、彼女と安らかに過ごすことのできる唯一の空間だった。だが、そこはもう、だれのものか分からない林を背負った、虚しさに打ちひしがれているひとり身の自分が、空っぽの箱のなかに閉じ込められているような気を起こさせるだけの場所でしかなかった。
かさぶたを、だらしなく伸びた爪でひっかいて、そこにできた裂け目から鮮血がにじんでくるのを見て、妙な興奮を覚えるという夢を、昨日の夕暮れどきにみた。
昼めしを食べたあと、すぐにうとうとしだして、敷きっぱなしのふとんにもぐりこんだ。眼が覚めたら仕事に行く、次の日は公園で待ち合わせがある、というふたつのことだけを
脇腹をくすぐられている自分の姿が、眠りに落ちる寸前に浮かんでくるのが、もう半年近く、毎日のように続いている。このことがなにを暗示しているのかは分からないが、いったい、ぼくの脇腹をくすぐるのは誰なのかということを知りたくて、眠りに落ちる前のこの映像をはっきり見てみようとはするものの、すぐに眠りの中へと取り込まれてしまう。
陽気なでんでん太鼓のように顔を振って、やめてやめてと相手の手を振りほどこうとする。その「やめて!」という拒絶の声が、嬉しそうに「もっともっと!」と言っているかのように聞こえている。
眠りに落ちる前のふわふわとした意識のなかで、優しくて温かい手にくすぐられる、その幸せなひとときに、ほんのりと
いまは日々の悲しみから逃れて、安心して眠ることができるのだという気持ちのなかに、静電気のようなものが知らないどこかでかすかに走っている気配がする。
そして、かさぶたを裂いてにじんでくる血を眺める夢を見た。あの夢から覚めたあと、もう眠るまいと思った。眠ることが怖かった。これからは、幸せな一時のかわりに、抑えつければ鮮血がナメクジのような足跡をつけるあの映像が、深い眠りに入るのを妨げてしまうのではないかと恐れている。
財布を後ろポケットから取り出したときに、中から小銭がこぼれ落ちてしまった。いくら入っていたかということを思い出そうとした。が、たとえ一円玉ばかりであったとしても、朝に降りてくる霜に濡らしていいと諦められるほどの余裕なんてない、窮屈な日常を送っている。
湿った土のうえに撒かれた硬貨を一枚手にしたとき、首からするりと落ちていくものがあった。自分にすがりついてくる女性の手が離れていくときのような感じだった。泥がついてしまったな、すぐにでも拾い上げて汚れをふかないとな。そう思ったのに、どうしても手が動かなかった。マフラーの方も、拾ってほしいとは言わずに、小銭の上にかぶさっていた。
あらわになった首筋にぽとりと水滴が落ちた。風が走って、つんと痛んだ。夜やみのなかのマフラーがかさぶたのように見えた。ぽつりぽつりと
くすぐる 紫鳥コウ @Smilitary
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