幸せの世界(KAC20232 お題:ぬいぐるみ)

釣舟草

幸せの世界

 ミミちゃんがお腹から真っ二つにされたことは、保育園児だった私にとって重大事件だった。


 当時の私は、ミミちゃんと名付けたうさぎのぬいぐるみを、家の中で終始持ち歩いていた。お風呂以外のすべての部屋に持っていくから、かくれんぼで入ったテレビ裏の埃にまみれたり、夕食のテーブルの上でカレーの飛沫が跳んだり、ミミちゃんはいつも薄汚れていた。


 でも、それが良かった。ミミちゃんの安心できる匂いと温もりに包まれ、私はいつも多幸感に酔いしれていた。


 ところがその朝、私は保育園に行き渋り、ミミちゃんとコタツに潜っていた。


「いやぁ! 絶対にミミちゃんと離れないの!」


 仕事の時間が迫り、母は焦っていた。いつまでも駄々をこねる娘に、とうとうブチ切れた。


「そんなぬいぐるみがあるせいよ!」


 母は、抵抗する私の手からミミちゃんを奪い、ドシドシと大股でキッチンへ向かう。泣きわめきながら追いかけ、すがる私を無視して、まな板の上で盛大に包丁をふるった。


 こうして、ミミちゃんは負傷兵となった。


 結局その日、私は保育園を休んだ。2時間泣いたあと、母と二人でお出掛けしてアイスクリームを食べた。

 

 後日、母はミミちゃんを縫い付けてくれた。不器用な手縫い作業でガタガタだったが、ミミちゃんは体裁を取り戻した。ところが、ミミちゃんへの私の興味は、この事件を境に失われていった。一度因縁のついてしまったミミちゃんは、もうかつての、私のすべてを包み込んでくれる安心感の権化ではなくなってしまったのだ。


 あれから二十年近くがたつ。


 友達と喧嘩したあと、彼氏に振られた夜、仕事で叱られた帰り道、新宿駅の改札前の喧騒に立ち止まる。


 物心ついたときからずっと、どこかに帰りたいと思っている。誰にも侵せない幸せの世界くにに。


 いつまでもあそこにいられたらよかったのに。

 二度と帰れない幸せの世界くにの記憶に、今は前へ進めず、ただ泣きたくなる。

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幸せの世界(KAC20232 お題:ぬいぐるみ) 釣舟草 @TSURIFUNESO

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