パリの古書店

酒と食

第1話 パリにて

 この夏、みなとはパリにいた。


 ここ数年は週一回の休みだけで働き続けてきたが、祝日が重なったこともあり、かなり久しぶりの長期休暇をとったのである。そうして訪れたのがパリ。シャルル・ド・ゴール空港からバスでオペラ座の横に降り立った時の何とも言えない雰囲気は相変わらずだ。


 到着して一夜明けた今日、ミナトはパリの五区、セーヌ川の左岸と呼ばれる地域に来ている。目当ては古書店。ミナトの前には一種独特のオーラを纏ったかのような店構えがあった。


 この店は古書の販売だけでなく、大量の蔵書を持つ英語文学専門の図書室も併設している。さらには無一文の若い書き手に宿を貸すことで知られておりパリの文壇を陰から支え続けてきた歴史があった。


「さてと…」


 そう独り言を呟きつつ湊は本屋の小さなドアを開ける。


「おお…」


 思わず感嘆の声が漏れた。高い天井の辺りまで本棚が置かれ夥しい数の古書がうずたかく積まれまた並べられている。自身が住み暮らし修行したとあるアパートの一室を思いを込めて宇宙のように表現したのは著名な漫画家だったが、ミナトはパリという街が持つ独特のオーラと相俟あいまった、広大な空間に並べられたこの大量の本を前にして奇しくも同じ感覚を味わっていた。


「何かお探しの本がありますか?」


 女性の店員さんが聞いてくれる。日本人だから気を利かしてくれたのかもしれない。湊はとりあえず聞いてみる。


「カクテル・ブックはありますか?」


 それを聞いた店員は笑顔で踵を返した。そうして持ってきてくれたのが古びた表紙の一冊。


「うちにあるカクテル・ブックはこれだけね!」


 そう言って差し出された一冊の本。その表紙にミナトの目は釘付けになった。


「これがあるなんて…」


 それはサヴォイ・カクテルブック。手に取って確認すると初版らしい。


 これはアメリカの禁酒法から逃れるようにロンドンのサヴォイ・ホテルに渡ってそこのチーフ・バーテンダーを務めたハリー・クラドックによって一九三〇年に編纂されたものである。カクテルのレシピに関する書籍としては「カクテル・ブックの古典中の古典」などと表現されている貴重なものだった。バーテンダーなら一度は手元に置きたいものである。


 きっとお高い…、だが欲しい…。高鳴る胸の音を抑えるかのように湊は深呼吸をする。とりあえずキープだ。そうして周囲を見渡してみる。まだまだ数えきれないほどの本がそこにはあった。


 最初の出会いに感謝しつつ、湊はまた本棚へと視線を走らせる。折角ここまで来たのだ。今日はゆっくりとこの本屋を堪能しよう。


 柔らかな日の光に照らされるパリの街角でミナトの休日はまだ始まったばかりであった。

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