虚像

緋川ミカゲ

喧騒。

耳に響く雑音で目が覚めた。


朝、錆びれて汚れた郊外の一角で、背中にゴツゴツとした雰囲気の生臭い塊の感触を覚えた自分が項垂れていた。

陽の光を受けて的礫と輝く木々は、まだ青いその葉に朝露を乗せたまま背を伸ばしている。

自分は、この街並みに不釣り合いだった。

呆けた頭で昨晩を辿るも濃い霧がかかってなかなか前に進めない。


ただ一つ分かるのは、自分には、酒しかなかったこと。


言われるがままに酒を飲み、被り、吐いた記憶。


身体の中も外も、内臓の端から手足の先端までアルコールで塗れた夜更け、地上奥深くで、紫煙をわざとらしく燻らせる女たちに囲まれながら酒を煽っていたこと。

自分を求める声は熱を帯び、自分へ向ける視線は色気を醸し出していた。

群がる女たちの甘ったるい香水はどうやら服に留まらず身体の奥まで染み込んだようで、自分はまだその咽せる香りを身に纏っていた。


ゲホ


咳を一つした。

喉が熱かった。まだ、さめていなかった。

無意識に喉元に当てられていた右手は、ほんの少し、力を加えて己の喉頭を絞めた。

眼界がぼやけた。


あぁ、自分は何をしているのだろう。


宝石のピアスとラペルピン、ブランド物のスーツのジャケット。

それらは元の輝きを濁らせるようにして手元に散乱していた。

それなりに金のかかっている私物だ。

この手に掴もうと腕を伸ばした。

痛かった。

目線を下げると、肩から手先にかけて、深い傷がいくつも走っているのが見える。

ゾッとした。

紅く滴り腕を濡らすはずのそれは黒く濁って皮膚にこびり付き、乾き切っていて、背筋が凍るというよりも燃えると言った方が正しいような怕れを覚えた。


フラッシュバック。

それは、今からほんの数時間前。

日付が変わってから数時間が経過した街でのこと。


客の女から、口付けをせがまれた。

自分はそれをやんわりと、甘い言葉に包んで断った。

話を逸らそうとしたのはバレバレだったのだろう。

無論、女は激怒して、興奮気味に言った。

自分は全く覚えていなかったことを。昔、その場凌ぎで吐いた言葉を。


『一番になってくれたら、その時ね』


女はもう、とうに自分の一番だった。

その座に誇らしく君臨していた。


忘れていたなんて、そんなこと口にできるはずもない。


あの時はお互い酔いが回っていた。酒の勢いに任せて触れてしまえばよかったのだろうか。

なんて後悔したところでもう遅い。

女は怒りに火を付け、強引に自分の唇を奪った。

咄嗟に顔を傾けたことで口付けはズレ、自分の唇の真ん中から口角にかけてを紅い口紅が彩った。

女は、自分が顔を傾けてしまったことに対してさらに怒りの炎を燃やした。

ブランド物の小さなショルダーから取り出した小ぶりなナイフをその手に握りしめ、泣きながら振り翳してきた。

悲しみを怒りに変えて濡れた瞳が、自分を射抜くようで身体が震えたのを覚えている。

自分は己に向けられたその刃に恐怖だけは感じなかったと思う。

そこにあったのはただの悲しみと申し訳なさ。

自分のたった一言を信じて尽くしてくれたことへの畏怖。

女を取り押さえるまでの間にできたこの腕や身体の傷と、頬の痣がその思いを証明していた。

警備の男たちに女が連行されてから、空は白んで少し冷たい風が傷を掠めた。

偽りで取り繕った夜でも、世界は必ず憎たらしいほど輝く朝焼けを連れて来る。


自分は、光の差さない路地裏で吐いた。

吐きたかった。この場で全部吐き出したかった。

大量に飲み込んだ欲塗れの酒も、吸い込んだ紫煙も香水の匂いも。

汗と涙で顔はぐちゃぐちゃになった。それでもまだ、吐き続けた。


残ったのは口内の嫌な酸味。生まれたのは胸の奥の寒さだった。


千鳥足で歩いていたら、いつの間にかごみの山に背中を預けていた。

明けていく空を眺めながら目を閉じて、そして今に至る。



やっとの思いで立ち上がり、よろよろと足を引きずりながら歩き始めた時、冷たい粒が地面を叩いた。

雨が降った。

瀟々と降る雨はたちまちアスファルトを覆い、巨大な鏡へと姿を変えた。

頭を垂れていた自分は真っ先に虚像と化し、青白い顔と虚ろな目、への字に曲がった口、頬の傷跡と痣が映った。

汚いなと思った。

脳裏によぎるのは、整えられた美しい身なりで甘く笑う普段の自分。

そんな自分が『本当』ではない、『演じている』だけなのだということくらい気づいていた。

だから必死に取り繕って笑って、偽って微笑んで、隠してきた。

もう、分かってる。本当の自分は、今この鏡に映る病人さながらの風貌の自分だということに。

それでも、心のどこかでまだ誤魔化していたかったから。

きらきらと輝く星。それが自分なんだと。

もう見ていたくなくて、鏡を乱暴にかき混ぜた。

雨粒が水面に溶け、その鏡を揺らす波紋が、こんな自分を嘲笑っているかのように思えてしょうがなかった。

「だって、しょうがないじゃん」

恪勤、恪勤、恪勤。

そんな毎日なのだからこうしないと、と誰に向けたわけでもない言い訳を零した。


こんなに落ちぶれて、どうしようもなく蒙昧な自分の愍恕を願う。

この醜態も、鏡は鮮明に映し出した。

ゲホ

また、咳が出た。

今は、胸が熱かった。

なぜだろう。

そのうち喉が切れて吐血でもするんじゃないかというほどに今度の咳は止まらなかった。

自分は、水飛沫を上げて鏡に沈んだ。


あぁ、うるさい。


自分の咳も、止まない雨も。


苦しさに溢れた涙は、雨と混ざって排水溝へと流れていった。

咳が止まってから、一度口元を拭った。

紅くはなかった。


ばしゃ、と音を立てて体を起こす。

ネクタイ、ラペルピン、ジャケット。鏡に溶けていたそれらを拾い上げた。

乱れていたワイシャツとベストを整え、ネクタイを結ぶ。

ジャケットを羽織り、王冠の形をしたピンをとめた。

髪をかき揚げ、ピアスを煌めかせて。


足元に広がる鏡に向かって、いつものように笑ってみせた。

そこには、ちゃんと自分がいた。


愛と金がいとも軽く、安く飛び交うこの街は終わりを知らない。

ギラつくネオンは燻ることを知らず、交わされる愛は澄むことを知らない。


いつもの賑わう歓楽街。

朝、ごみ置き場で目覚めた男は、また今夜も貴女の隣で笑うフリをする。


雨はまだ、止まなかった。

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虚像 緋川ミカゲ @akagawamikage

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