金井戸君の言うことには 1

揺井かごめ

side.百瀬きくり

 本屋で、変な本を見つけた。

 カラフルな文庫本の棚に埋もれて尚異彩を放つその本は、背表紙が真っ白だった。抜き取ってみると、表紙もまっさらに白い。ぱらぱらと捲ってみたが、インクの染みひとつ見つからない。スーパーホワイトライラックの紙を束にして文庫本サイズに切り落としたような、白い紙の塊だ。

 最近だと、台詞や改行ばかりで文章の密度が低い本を「メモ帳」なんて揶揄するのを良く聞くが、この本はまさにメモ帳である。

 メモ帳というより、落丁だろうか。

 落丁どころか隅から隅まで失敗している様子だが、とにかくレアな物に出会った。私は、その本をそのままレジに持っていった。

 レジには顔なじみの店員、沖さんが入っていた。私に軽く会釈した沖さんに本を渡す。私がその本の白さに言及する前に、沖さんは懐かしそうに目を細めて言った。

「へえ、懐かしい。今の子もこういうの読むんだねぇ」

 耳を疑った。

 私が何も喋れずにいると、沖さんはそのまま続けた。

「ミヒャエル・エンデ、好きなの?」

 私が曖昧に頷くのを見て、沖さんは、本をレジに通しながら話を続けた。

「私が丁度きくりちゃんと同じくらいの歳の頃かな、『ネバーエンディングストーリー』って映画がやってたのよ。そこから原作の『はてしない物語』も読んだし、今でも大のお気に入りなのよね。好きな本が若い子に読まれてるの、なんか嬉しいわぁ。面白いからじっくり読むと良いよ。下巻も置いとくね。はい、八三六円」

 私は曖昧な相槌を打ってお金を払い、本屋を後にした。

 紙の塊を八三六円で買ってしまった。

 ついでに、沖さんには、この紙の塊はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の上巻に見えているようだった。私も読んだことがあるので知っている。その本は、私が手に持っている真っ白な文庫本とは、厚みも判も全く違ったはずだ。

 私がおかしくなったのか、沖さんがおかしくなったのか、この本がおかしいのか。

 何にせよ、私が本来買いたかったシリーズ物の新刊を買い損ねたことだけは確かだった。


 せっかく買ったので、私は、白い文庫本を人に見せて回った。

 母は詩集だと言った。父は学術書だと言った。弟は流行のラノベの第一巻だと言った。友人はミステリ小説だと言い、他の友人はレシピ本だと言った。

 話を聞くうちに分かったことがある。

 この本はどうやら、その人が強い思い入れを持っている本に見えているらしい。誰も彼も、なんとも楽しそうにその本の話をした。人生観を変えた一遍の詩とか、進路を決めるキッカケになった研究結果とか、主人公の胸を熱くさせる台詞、忘れられないトリック、恋人に初めて作ってあげた料理のレシピ。

 これは面白い物を手に入れた、と思った。

 同時に、何となく寂しさを覚える。私もこれまで、人並みに本を読んできたはずだ。好きな本もたくさんある。

 なのに、どうして私には、この本が真っ白に見えているのだろう。


「その本、面白い?」

 昼休み、教室の隅で白い文庫本を捲っていた私に、クラスメイトが声を掛けてきた。普段ほとんど関わりの無い、いわゆる一軍グループの男子だ。確か名前は、金井戸むぎ。

 いつもなら、用事でも無ければ挨拶もしない相手だ。思い出の本に引き寄せられたのだろう。せっかくなので話を聞いてみたくなって、私は本の表紙を見せて言った。

「金井戸君はどう思う?」

 どんな話が聞けるだろう、というわたしの期待を裏切り、金井戸君は小さく目を見開いて「へえ」と口端を持ち上げた。

「百瀬さん、その本、分かってて買ったんだ?」

「分かってて、って?」

「とぼけなくていいよ。駅前の本屋でしょ、それ買ったの。そこにその本置いたの、俺なんだよね」

 金井戸君は近くの椅子を持って来て、私の向かいに座った。

「面白いでしょ、それ」

「面白いけど、異常だと思う。これ、どうなってるの?」「どうもなってないよ。仕組みを説明できない、不思議な本ってだけ」

 私は、「そう」とだけ返した。金井戸君の言葉はすとんと胸に落ちた。そういうものなのだ、という実感は、既に私の手の中にあった。

「そう。そこが気になって仕方ないタイプの人には、この本は、何かしらの〈説明できる形〉を与える。一番みたい物の形を。そういうものなんだ」

「そういうものを、なんで金井戸君が持っていたの?」

「もうちょっと仲良くなったら教えてあげる」

 その返しに、私は再び「そう」と呟いた。

「『百万回生きたねこ』に出てくる白猫みたいだね、それ」

 金井戸君はそう言ってくすくす笑った。私はご期待に添うよう、少し素っ気なく気取った声色で「そう」と返した。

「でも、その白猫と違って、私はドラ猫と、もとい金井戸君と仲良くなりたいと思うよ」

「この本の謎が気になるから?」

「それが無かったら話もしなかったでしょ」

「そうかな? そうかもね」

 それと、と私が口火を切る前に、金井戸君が続けた。

「その本が何者でも無いのは、自分が何者でも無いからなんじゃないか、って心配なんじゃない?」

「……わかるんだ」

「そういう顔してた。逆だから安心すると良いよ」

 昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。金井戸君は席を立つ。

「百瀬さんは、物を〈そのものとして見る〉のが得意なんだ。絶対評価で軸がブレない分、相対評価で生きてる他の人より自分がある、って言えるんじゃないかな。百瀬さんにもその本が〈説明できる形〉に見える日が来るかも知れないけど、俺は、その本がまっさらに見える今の百瀬さんを大事にして欲しいって思うね」

 じゃあ、と言って金井戸君は教室を出て行った。見渡すと、殆どのクラスメイトがいなくなっている。次は移動教室だ。

 私は、すっかり暮らしのお供になった白い文庫本を持って、授業を受けるべく席を立った。

 一瞥したその本は、やはり、真っ白なままだった。


 あれから数年経った。私は何の因果か、あの本屋で働いている。

 白い文庫本は、いつの間にか無くなっていた。代わりに宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が二冊に増えていたので、まあ、そういうことだろう。

 金井戸君が今どうしているか、同級生は誰も知らないという。結局、彼とは大して仲良くなれずに高校を卒業してしまった。残念なことだ。


 ある日、本棚を整理していたら、変な本を見つけた。

 カラフルな漫画の棚に埋もれて尚異彩を放つその本は、背表紙が真っ黒だった。

 私は、予感を感じて顔を上げる。

「やあ、久しぶり。その本、俺がそこに置いたんだ」

 いつの間にか、隣に金井戸君が立っていた。制服が私服になった以外は殆ど変わらない、不思議な雰囲気の人。


 私は、色々と言いたい言葉を飲み込んで、一言、こう返した。

「そう」

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