忘却書店

藤光

忘却書店

 ひさしぶりに、そこを訪れてみようと思ったのは、ちょっとした思いつきだった。前の晩、部屋を整理していると、押し入れの中から高校生のときに読んでいた本を見つけた。その頃よく読んでいたSFやファンタジーだ。まだ、ライトノベルと呼ばれる小説はなかった。


 本が好きな高校生だった。授業が終わると自宅までの帰り道、書店をして帰るのが、ただひとつの楽しみだった。学校にも、家にも居場所のなかったわたしは、現実よりも本のなかを生きていた。大学を出て一人暮らしを始めるとき、家具より服より山ほどあった本を抱えて引っ越した。


 あれから30数年。本以外のことにも興味を持てるようになったわたしは、失恋や就職、結婚などを契機に何度か引っ越している。実家を出たとき、両手に抱えきれないほど持っていた本は、だんだん数を減らしてゆき、いまではそれが四冊だけになってしまっていた。


 マリオン・ジマー・ブラッドリー『惑星救出計画』

 アイザック・アシモフ『変化の風』

 ロバート・A・ハインライン『異星の客』

 林友彦『ネバーランドのリンゴ』


 ひさしぶりの地元。学校まで自転車で通っていた道をたどって街へ出ると、学生の頃、毎日のように立ち寄っていた駅前の書店は携帯電話ショップに変わっていた。商店街の交差点にあった書店はドラッグストアに、公園の角にあったマンガ専門店は駐車場になっていた。そこに書店があった形跡はなにひとつ残っていなかった。


 楽しいばかりの高校生活ではなかった。もう一度やりたいかと言われればごめん被りたい。でも、あのときここで出会い、傷つき、癒された思い出の一切が、この街から拭い去られてしまったように感じて、しばらく携帯電話ショップの前に佇み――肩から下げた鞄を開けると、詰めてきた四冊の本を眺めた。


 ただこの本だけが、あの時とぼくとを繋いでいる。





「いらっしゃませ」


 声に顔を上げると、携帯電話ショップは姿を消して、代わりに懐かしい店が――「忘却書店」と大きな看板を掲げた書店が、わたしを迎え入れるようにその扉を開いていた。


「いらっしゃませ」


 駅の改札から吐き出された人が、次々と通りに面した書店の扉をくぐってゆく。待ち合わせまでの時間潰しだろうか、スーツ姿のサラリーマンやOLが大勢雑誌を立ち読みしている。書店前の道路にはみ出すように駐輪しているのは高校生や大学生が乗ってきた自転車だ。駅前の書店は人でごった返している。まるで……あの頃のように。


「どうかされましたか」


 エプロン姿の書店員から声をかけられた。髪の毛に白いものが混じりはじめた50がらみの男の人だ。ここはいったい?


「書店ですよ、もちろん。本をお求めでしょう? たとえば……そう、あなたが鞄の中にしまっているような」


 鞄の中を見ると、ついさっきまであった本がなくなっている。そんな……いったいどこへ。


「本は書架にたくさんあります。あなたがお望みの本も、きっとどこかにあるはずですよ」


 わたしは書店の中を歩きはじめた。鞄の中からなくなったのは文庫本だ。ミステリ、SF、ファンタジー。本を開いていくにしたがって、つぎつぎと新しい世界の扉が開かれてゆく。本の世界を旅することができる。わたしにとって書店はそうした世界への入り口――門だった。


 文庫本の書架にたどり着いた。わたしの背丈よりも高い書架にぎっしりと文庫本が詰まっている。あった。創元推理文庫SF。赤い背表紙の本――『惑星救出計画』――を一冊、書架から抜き取る。そうだ。ここで、こうして、わたしたちは出会った。あらかじめ、そう約束されていたかのように、本はわたしの手に馴染んだ。ページを繰る。


 白いページが現れる。

 また、白いページが現れる。

 つぎも、白いページが現れる。

 つぎも。そのまたつぎも、白いページばかりが現れる。

 すべてが白紙だった。その本には、なにも書かれていなかった。


 あわてて別の本を書架から抜き取る。


『変化の風』……白紙。

『異星の客』……白紙。

『ネバーランドのリンゴ』……白紙 である。


 片っ端から書架の本を抜き出してページを繰る。どれもこれも白いページが続く。ひとつとして文字の書かれたものはなかった。呆然となったわたしが、ページの白い本を眺めていると、あの書店員がやってきた。


「忘れてしまったようですね」


 忘れた?


「忘れたんです。ここはあなたの心の中にある書店なのですから。ひとつひとつの本は、それぞれがあなたの記憶、あなたの思い出。白いページは、それが失われ空っぽであることのしるしです」


 それはいやだ。あんまりだ。たった四冊になってしまった記憶ですら、なくなってしまうだなんて。しかし、書店員は悲しそうな顔で首を振った。


 ここは『忘却書店』ですから。





「いらっしゃませ」


 携帯電話ショップはがらんとして、予約客以外に人はいなかった。ショップ店員が愛想よく声をかけてきた。


「ご予約はいただいているでしょうか」


 携帯電話などどうでもいい。

 店員をそのままに鞄の中を探った。本が手に触れた。取り出してページを繰ると、そこには文字が並んでいる。たしかにそこにあって、白くなどない。夢だったのだろうか。わたしはほっと胸を撫でおろして、三冊になった本を鞄の中に戻した。


「ご用件を伺います、お客さま」


 携帯電話ショップの店員が、不思議そうな顔でわたしのことを見ている。

 

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忘却書店 藤光 @gigan_280614

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