移動式書肆ラジネッロ

深川夏眠

移動式書肆ラジネッロ


 ビブリオブッロをご存じだろうか。僕は初めてこの言葉・概念に出会ったとき、誠実さと愛らしさを同時に感じてクスッと笑ってしまった。南米コロンビアの制度で巡回図書館の一種であり、ロバの図書館という意味だ。首都から遠く離れた奥地へも本を届けるべく、荷をロバの背に載せてジャングルの中にまで分け入るとか。書物も人も重い。ロバにとっては過酷な労働だろうが、彼は不平を漏らさず歩を進める。未来を担う子供たちに知識と希望を届けるために。

 僕も様々な物語を方々へ運びたいと思った。さすがに動物に跨る気はしなかったので中古のバンを買って、移動式本屋を始めた。屋号はL'asineネッllo。実家に眠っている山のような古本を掘り起こし、ロバに見立てた車に積み込んで、あちこちへ出掛けるのだ。

 今回の行き先は小さな港町。思い立ったきっかけは仕分け中にパラッと零れ落ちた写真。ブランコの座板に腰掛け、舞い散る花弁を受け留める豊麗な熟年婦人、その膝に艶々した毛並みの白い猫が背を丸め、大きくあくびをした瞬間を捉えた一枚だ。小さく震える鈴のまで聞こえてきそうなナイスショットである。特徴的なモニュメントが写り込んでいたのでヒントを辿って場所を突き止め、管理事務所に許可を取り、週末に営業することとなった。

 寒緋桜が可憐な蕾を綻ばす公園の入口で店を開き、地元の人たちとの会話を楽しんだ。商品が飛ぶように売れる……とはいかなかったが、歓迎されているのが嬉しかった。

「お兄さん、泊まりがけなの?」

「はい」

 カウチサーフィンだ。しかし、問題は食事。

「ウチ来る? 今晩カレーだけど」

「ええっ」

 店じまいの後、親切なご夫婦の厚意に甘えて、ご馳走になった。迷惑ついでとばかり、くだんの写真を取り出して訊ねてみた。

「ああ、喫茶店の奥さん。この少し後、急に具合が悪くなって亡くなったんじゃなかったっけ。今年が十三回忌か」

「お店は……」

「ご主人が一人で続けてらっしゃるよ。まだ開いてるんじゃないかな」

 道順を教わって食後の一服を喫すべく店を探した。立派な鳥居があり、険しい石段が訪れる者を値踏みするようにそそり立って、見るからに獰猛な狛犬が睨みを利かせているが、燈籠の明かりは柔らかく優しい。右手の小路に教えられた店があった。名前はchat シャ・ blanブラン

 重厚な扉を押すと、漂うコーヒーの香りが鼻腔を満たした。ランプシェードがの加工品という漁港の町らしい演出が心憎い。壁には大漁旗の写真を収めた額縁。グラスを磨いていたマスターが顔を上げた。灰色の髪をまとめた痩せ型の、七十絡みの上品そうな男性だった。客は誰もいなかった。

「閉店ですか」

「そのつもりでしたが……」

 ニッコリ笑って、カウンター席を勧めてくれた。

「すみません」

「お食事はお済みですか」

「はい」

「では、お付き合いいただくとしますかね」

 マスターは屋外照明のスイッチを切り、アイリッシュコーヒーを作ってくれた。

「夜は冷えますから」

「いただきます」

 マスター自身も口髭に付いたホイップクリームをナプキンで拭っては眼鏡の奥の穏やかな目を細め、

「今日はいかがでしたか」

 よそ者が露店を開いていると聞いたのだろう。

「ボチボチですかね」

 僕は先刻の写真と、それが挟まっていた本をテーブルに置いた。萩原朔太郎『猫町』の初版。稀覯本だ。

「おや、懐かしい」

「手違いで売っておしまいになったんじゃありませんか。お写真と一緒に」

「これはさいの愛書でしたが、十年と少し前に亡くなりまして、形見分けでどなたかに渡してしまったんでしょうなぁ。スナップは私が撮りました」

「お返しします」

「巡り巡って、あなたがあがなったのでしょう。そうは行きません。かと言って今、買い戻すとなったら手痛い出費だ」

「ですから……」

「ニァ」

 押し問答に割って入った猫の声。振り向くと、化粧室の傍から、ふっくらした白猫がチリチリと鈴を振るって現れた。カウンター席の端に飛び上がり、掛かっていたストールを蹴落とす。露わになったのは猫のおもちゃ、いわゆる。魚の形をしている。猫はそれをガブッと咥え、釣果をひけらかすかのような態度を取った。僕は噴き出してしまった。町の公園を特徴づける記念碑の石像の意匠そのままの姿だったからだ。

「店のってだけじゃなく、町のシンボルなんだな」

「長生きしてますから」

 マスターは小さな器にドライフードを少量、盛ってやった。猫は僕に布製の鰹を放って、おやつを堪能し始めた。

「シャブランは……で日向ぼっこしているのをさいが見つけて呼んだら、まといついていた桜の花びらを撒き散らして部屋に飛び込んできたって、以来、世話を焼くようになりましてね。気紛れには違いないが、よく懐いてました」

「お店、いつ頃からやってらっしゃるんですか」

「結婚と同時に始めたので、もうかれこれ……」

 そこへ電話のベル。マスターは僕に軽く目礼して応対した。僕は銀のスプーンでクレーム・シャンティイを平らげ、シャ・ブランの顎の下を撫でてやった。名残り惜しかったが、マスターが受話器を置くと同時に席を立ち、

「ごちそうさまでした。本はカクテルの代金ということで」

「かたじけない。では、写真はあなたが持っていてください。何年経とうと、いつかどこかで再会したとき、すぐわかるように」

「ええ。シャブラン、またね」

「ミュァッ」

「相棒のによろしく」

「おやすみなさい」

 こんな奇妙な出会いがあるから、やめられないのだ、この商売。



           mobile bookshop【END】


*2023年3月書き下ろし。

⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/bALRHbfs

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