水底にてページをめくれ
ナナシマイ
現代・水の都、東の井戸より
「この恥さらしがっ!」
「ひぁっ……」
バシンとこめかみをぶたれたユウハは、その衝撃を受け止めきれず地面に膝をついた。水を汲もうと下ろしていた水瓶が転がる。周囲でヒソヒソ囁かれる声。この場に彼女の味方は一人もいない。
(当然だわ。
頭が揺れるように痛むのを、ユウハは歯を食いしばって耐える。しかしそれを生意気だと感じたのか、相手は舌打ちをしながらユウハの胸倉を掴み上げた。
「おい! 今まで育ててやったのは誰だと思ってるんだ! なんの役にも立たない力を得やがって」
「ご、ごめんなさい……」
「あなた。それぐらいにしたら? 手が痛むでしょう」
「そうだよ父さん。店で使う水くらい、僕たちでなんとかできるしさ。ね、兄さん」
とても家族とは思えない彼らの言葉を、ユウハはぼんやりと聞いていた。
枯れた水路に植えられた乾燥に強い作物。
幼い子供までが重い水瓶を背に井戸や水の祠へ往復する生活。
水の都に「名ばかりの」という枕詞がつくようになってからは久しく、十五の歳に行う
乾いた土地で生きていくために必要なのは水をもたらす力であって、水を操る力ではない。不要な力を得てしまったユウハが辿る道は、本人にも想像できた。
「あぁ勿論だよ。……というより、父さん、母さん。水を得られない者が水を使おうなんて、傲慢だと思わない?」
「兄さん……?」
思わず溢れたユウハの呟きに、彼女の長兄は「やだな」と嘆息した。父親の手から妹を引き取り、その顎に手をかける。
近づいた息に、しかしユウハは緊張を高めた。
「僕たちにお前は要らないよ、ユウハ。水の中で息ができるなら、そのままそこにいればいい」
流れるような動作で肩を押され、もつれた足が当たったのは――。
*
トコポコと水が耳を圧迫する。開いた目には滑車に繋がれた桶が映り、どうやら本当に井戸の中へ落とされたようだとユウハは目を伏せる。
(でも……たしかに、息ができるんだわ)
吐いた息が泡となって上へ上へと上っていく。自分も同じように上っていければどんなにいいだろうと考えて、けれどそれは許されないことだとまた息を吐く。
息を吸えるから、息を吐ける。
今まで水に浸かったことのない彼女は、それゆえに水の中で呼吸をすることに躊躇いがなかった。ただ、いつもとは違って動かしにくい身体の重さや揺らぐ視界が不思議なだけで。
浮きそうになる身体を壁に掴まることで留め、ユウハは意を決して底へと下り始めた。
井戸の中は下りるほどに暗くなっていき、そしてユウハの想像よりずっと深かった。水草や苔の生えた石壁が平坦に続いている。
(どこまで下りるのかしら……)
しかし完全な暗闇となる前に変化は訪れた。
底から洩れ出る青緑の光。近づけば、それは特別な水草が揺れるたびに発するものであると知れる。
「……綺麗」
ポコ、と溢した声が光を帯びて水に揺らいだ。
思わぬ美しさに、ユウハはうっとりと深呼吸を繰り返す。大小さまざまな泡が青緑にきらめく。
「人の子――それも生きているのを見るのは、実に久しいことよ」
「……っ!」
ふいに聞こえてきた声。その恐ろしいほどに深い響きが水を震わせた。
はっとして振り向けば、透き通る宝石のような青緑色の髪をなびかせた男性が立っている。周囲の水草と同じように――あるいは水草が彼から派生したかのように、淡く光をまとっていた。
「は、はじめまして。わたしはユウハ。水の都の、花屋の娘よ。あの、あなたは……? そして、この綺麗な場所は……」
「私は
「えっ、
驚き駆け寄ろうとしたユウハは水に足を取られて浮いてしまう。慌てて石壁を掴んでいると、
「水中での動きかたも知らぬ娘が、どうして私の本屋へ来たのだ……」
「わたし、
「捨てられたということか。水の都ならば水路……いや、井戸であろう。あのあたりは近ごろ、
「
故郷の置かれている厳しい状況が思いもよらない理由によって引き起こされていたことを知り、困惑するユウハ。しかしすぐに、さらりと聞き流してしまった回答を思い出す。
「えっと、本屋……? ここが?」
「そうだ」
「水の中なのに?」
「濡れた本は燃やされない。知識はそうして守られる」
そういうものなのかと無理やり納得したユウハの前で、
ざわりと水草が鼓動する。
「わ……」
すると次の瞬間には水草のあったところが本棚に変化しており、そこにはぎっしりと本が詰まっていた。
「――水底の本屋へようこそ、ユウハ。ここには水にまつわるすべての本がある」
「水にまつわる、すべて……?」
「すべてだ。過去のものも、未来のものも。本として書かれたものであれば、すべて」
そもそもこの本屋があらゆる時代あらゆる場所と繋がっているのだと言われ、気の遠くなるような話にユウハはくらりとした。
「……じゃ、じゃあ、海の本もある?」
「あるとも」
「ユウハ?」
「……わたし、お金を持っていないわ」
「なに、限られた時代や場所でしか使われていない銭など要らぬ。本の対価はそなたがここへ来た理由を話すこと、それだけだ」
「理由? え、理由ならさっき」
「それは単なるきっかけであろう? 私が求めているものではない」
時折大きな流れがくるのか、水草がさざめくようになびいている。
「水底の本屋を訪れる者にはその理由がある。必要とする者に必要な知識を。私はそのための店番なのだ」
(必要な知識。……見たことのない海の話を知りたいのは本当。でも、そういうことではない気がする……)
少し考えても、このとびきり特別な水底の本屋へ繋がるほどに自分が必要とする知識を思いつけなかったユウハは、ひとまずこれまでの出来事を声に出して整理することにした。
(あ、もしかして)
それは大それた願いで、それを叶えるための知識など想像もできなくて。
それでも、自分が求めるべき知識はこれなのだと、ユウハは気合を入れるために大きく水の息を吸った。
「わたしは。……枯れた都に水を戻す知識を、
ユウハを見つめる瞳はどこまでも深い水の色をしていた。青緑に光る髪の影が映るたび、それは複雑な色味に揺れる。
言うべきことは言ったと、ユウハは静かにその美しい瞳を見返した。
「本当にそれでいいのか? 水の都を救いたいと?」
「ええ」
「彼らはそなたを捨てたのであろう?」
心に痛い現実を突きつけられても、ユウハは迷わなかった。
「それでも、よ。水の都は、わたしの故郷なのだもの。……昔の人が描いた絵のように、美しい街並みをこの目で見てみたい」
ふよん、と漂ってきた本に、ユウハは目を瞬いた。
「……ねえ、多すぎないかしら」
水中に浮かび並ぶのは、ゆうに両手両足の指の数を超える本たち。分厚いのやら小さいのやら、綺麗な表紙がついているのやらと、さまざまだ。
「帰りづらいのであれば、ここで読んでも構わぬ。奥には私の住居空間もあるからな」
「そう、……じゃなくて」
「わたし、こんなにたくさんの本を買えるほどの話なんてしていないわ」
ふっと笑った
「ユウハがこの本屋へ来た理由には、それだけの価値があるということ」
――人はそれを、勇気や優しさと呼んでいるだろう。
そう続けられた
(絶対、水の都に、張り巡らされた水路いっぱいの水を戻してみせるわ……!)
ならばと手を伸ばし、本に触れる。
しっとりとした質感の表紙が、ユウハの手によく馴染んだ。
水底にてページをめくれ ナナシマイ @nanashimai
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