第2話 焔の遊歩者
蜘蛛の糸が下りてきたあの日以降、吾は寝る間を惜しみ、目の下にくまが染み込む程、仕事に没頭しました。無論、此れ程迄して働くのは金のためです。
幸いしたのか、
吾の、悪魔の様な容姿の此の身体は正に、犯罪者に成るに持ってこいの身体なのです。
過酷な労働を乗り越え、吾は次の様な物々を買い揃えました。
・分厚い革製の上着
・同じく革製の手袋
・同じく革製の靴
・少々値の張る
・多量の高級ガソリン
此れらの小道具を吾が手中へと買い揃える際の心持ちは正に、江戸川 乱歩の著書「屋根裏の散歩者」に登場する屋根裏の散歩と云う名の快楽に目覚めた男、郷田 三郎に吾が成り代わってでもしまったかの様でワクワクとハラハラ、ドキドキやゾクゾクで吾の心は異様な迄に高ぶり、静かに暴れ狂う…
闇の帳に包まれる夜を待ち、「いざ」と満を持した吾は用意した上着や手袋、靴を身に纏い、家を飛び出しました。
其処が都会と縁も無い辺境の田舎であるのが大きな所以でありましょう、外界はとても薄暗く月明かりのみが街を照らしておりました。
人っこ一人歩いていない、何処か異質な空気に満ち溢れた夜道を一人で歩いておりますと、宛ら、此の吾が夜の支配者にでもなったかの様な…若しくは、此の現し世にはもう、吾以外誰もいなくなってしまったのではないか…と言った嘗て体感したことの無い妙な心持ちに満たされてきました。
吾は模範的な迄に用意周到な人間でございまして、放火をこれから最初に行う土地は既に、事前に決めておりました。其の場所は、人間失格とも言える程の人柄の悪さから、大勢の者共に嫌われている老人、老婆の住む一軒家であります。勿論、大勢の者共の中に吾も含まれています。彼の者等は自己中心的であり、身勝手極まりなく、少しでも気にくわぬことがございましたら平気で周囲の無関係な者に怒鳴りつけ、力の限りに暴力を振るう様な人間…いえ、生き物なのです。きっと、彼の生き物等の堪忍袋の緒はピアノ線よりも細いのでしょう。
幸いにも、彼の者等の住む家は大半がカサカサ…と乾燥しきった木材で建てられており、見るからに古くおんぼろで、正しく放火に適した…吾に放火されるために建てられたかの様な古民家なのであります。
彼の生き物等が眠る家の前へとやってきた吾は手に持っていた大きな紙袋の中から一斗缶を取り出しますと栓を開け、中に収めておいたガソリンを彼の家の周囲を囲い込む様にして、撒き散らしました。撒き散らしたガソリンから漂うベンゼンの甘い、香しい香りは自然と吾の表情を
ガソリンを撒き終え、用無しとなった一斗缶を地べたへと投げ捨てた吾は上着のポケットに手を入れ、中から
種火は私の用意したガソリンとそこらに有り余っている大量の空気を思う存分に喰い散らかし、瞬く間に成長し、あの時見た、美しい焔へと姿を変えました。
バチバチ…と爆ぜて鼓動を奏でる美しい焔に飲まれた彼の生き物等の家からはゴウゴウ…と黒煙が立ち込め、其の家の中では今正に、焔に喰われている老人、老婆…いえ、彼の生き物等が思う存分踊り狂っておりました。
何と気持ちが良いことでしょう。そして、何と美しいことでしょう。
焔が彼の生き物等を喰らい尽くし、家が跡形も無く倒壊するのを最後迄眺め、見納めた吾はケラケラ…と思う存分に笑いながら、焔に照らされ、淡く紅色に染まり上がった帰路を歩んで行きました。
此の時以来、吾は人間を辞め、焔の遊歩者として生きてゆくことをあの美しい焔に誓ったのでありました。
九枚の原稿用紙に書き綴られた、題のない小説を読み終えた作家の男は不意に、己が手へと視線を向けました。手が僅かに震えていたのです。嘗て読んだことの無い、背を逆撫でされる様な恐怖を目の当たりにして、彼の魂が脅えていたのでしょう。作家の彼は手元の原稿用紙を食い入る様に凝視し、純粋に心の底から、「一体此の小説は誰が書いた物なのだ……?」と疑問を抱いておりました。そう、作家の彼はあわよくば盗作してしまいたいと云う
原稿用紙の表から裏迄、隈無く探しましても著者の名は何処にも書き残されておりませんでした。此れでは、堂々と「どうぞ、本作を盗作してください」と言っている様なものであります。「はてさて、此れはどうしたものか」と手元の原稿用紙を見つめ、ニヤニヤニヤニヤ…と宛ら、一獲千金の輝かしい宝石や未発見の歴史的遺物…
此の手紙を先生がお読みになられていると云うことは、恐らく私が一生懸命に考え、書き
先生が本作をお読み頂く上で、最初に、「何故、此の小説に題が書かれていないのか」と疑問に思われたことでしょう。
幾重の我が
其れでは、とてもとても長い間、拙作の…いえ、私のために先生の貴重なお時間を頂戴頂き失礼いたしました。
読者の皆様はもう、此の画用紙に書き残されたメッセージをご覧になり、お気付きになられたことでしょう。そう、此の題のない小説は、作家の彼を先生と呼ぶ、古本屋のあの一人息子が書き記した物だったのです。
「此れを…あの少年が……」
少年の手紙を読み終えた作家の彼は、「此の様な小説を読まずに、屑の様に放り投げていたのか」と考えますと思わず深い溜め息を吐き捨てるのでありました。自分で書き綴ったどの小説よりもよく出来ていて、刹那の間、現し世での出来事であるかのようにだと思い込んで了う程に恐ろしかったのです。
「此れ程…此れ程迄の才をあの少年が………」
此の時、作家の彼の頭には不思議と【焔の遊歩者】と云う名の題目がまるで脳に直接、文を通してすり込まれ…焼き付けられでもしたかの様に思い浮かんだのでありました。
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