第1話 焔の呪い

 K県の一角に、まるで隠れる様にひっそりと位置する小さな街、そして、其の街の中の小さな古本屋に一人の男が毎日の様に訪れるのです。

 彼は作家という職を手に持っており、実につたなく冴えなくい毎日の唯一の習慣…いえ、彼曰く、唯一のおきては、近所にある小さな其の古本屋へ通うことでありました。但し、前もって明言させて頂きますが、其の古本屋に彼の作家が此れと言って特別の思い入れがあると云う訳ではありません。彼は唯、「余計な他人ひとの話し声や忌ま々々しい人目を気にすることなく」そして、「金を一銭も掛けず立ち読みを通して文学を学ぶ事が許される」たった此の二つの所以ゆえんのためだけに通っているのでありました。しかし、其れだけとは申しましても、平凡以下の日常を唯々送り続けている彼にとっては、たった其れだけで十分な所以と成りえるのでありました。ですが、却々なかなか悩ましいことに、彼の日常は其の平凡を送ることを許しはしないのでありました。

 一人の少年がいるのです。名は忘れてしまいましたが、少年は其の古本屋の一人息子でありまして、作家の彼を勝手に「先生」と呼び、毎度々々飽きることなく安物の画用紙帳に、己が頭で考え、己が手で書きつづったのであろう小説を書いては批評を求めに来るのです。

 「先生、いらっしゃっていたのですね!何卒、自分の書き上げた小説を是非、是非一度、ご覧になって下さい!」

 其れが少年の決まり文句でありました。後光の様に輝かしい瞳でこちらを見つめ、飼い犬の様に人懐っこい少年は作家の彼へと毎度の様に小説の書かれた画用紙帳を手渡し、彼は其れを手渡される度に受け取るのでありました。しかし、彼は未だに少年の小説を読んだことが一度としてありません。何故かと申しますと、小説には、作者が今迄に生きてきた中で知り、失敗してきた経験や、実に生き辛く理不尽極まりない社会との接触がどうしても必要となります。故に、まだ若い上、厳しい社会を未だ一切合切知らない少年に読めた小説を書けるとはどうしても思えなかったのです。そして、更に悩ましいことに、彼は少年へと以上に述べた考えを正直に、面を合わせて告げることがどうしてもできないのです。

 話を戻しまして、今日もまた、作家の彼は古本屋へふらりと訪れました。ガラガラガラ…と入り口の戸を開け、中へと足を踏み入れた彼は周囲を見渡しました。すると、どうしたことでしょう、少年が来ないのです。いつもでしたら、「いらっしゃいませっ!」と店主の父よりも二つ上大きく、元気に溢れた声で出迎えるのがお決まりでありましたが、今日は其れがないのです。店内には彼以外に客がおらず、さながら秩序の徹底して守られた国立図書館の館内の様にシン…と静まり返っておりました。自分の呼吸の音がいつもより繊細に、はっきりと聞き取れました。

***

 店内に規則正しくズラリと並び、限界迄縦横に押し込まれた本棚を作家の彼は己が息を殺し、食い入る様に眺めました。田山 花袋の「布団」、江戸川 乱歩の「赤い部屋」、太宰 治の「斜陽」等々…名作の数々が陽の光によって薄茶色く変色し、がさつに破れた状態で、何事もなかったかの様に棚に並んでいるのを見つける度に、彼は「誰が此の様な所業を犯したのだ」と遺憾いかんな心情を覚えました。

 いつもの様に小説を見定め、幾冊か選定し、満を持した作家の彼は店内の隅に置かれた木製の小さな机の上へと其れらを積み上げてゆきました。同じく、机の付近に置かれた小さな木製の椅子へと腰かけ、小説を手に取った彼は赤子の手を弄ぶ様に優しく、丁寧に、慎重に本のページを次々とめくってゆくのでありました。

***

 五刻程経った頃でしょうか。店内にゴウンゴウン…とほこりを被った振り子時計の十二時を告げる鐘の音が、古びた旋律を纏い響き渡りました。小説の中の世界から、現世へと引き戻された作家の彼は「はぁ……」と深い溜め息を地べたへと向かって吐き捨てますと、重い腰を上げ、読み終えた小説を束にして手に取り、元あった本棚ばしょへと戻してゆきました。すると、あちらこちらへと泳いでいた視線がピタッ…と本棚の一角で止まりました。並べられた本と本の間に生まれた僅かな隙間に、一束に一つの目玉クリップで纏められた九枚の原稿用紙が二つに畳まれて挟まれていることに気がつきました。最早夢の世界に出てくる程に見慣れた原稿用紙を目にした彼は「一体どうして、此のような場所に原稿用紙これが……?」と首を僅かに傾げ、宛ら、探偵小説の主役である探偵の様に疑問の念を抱きました。

 挟まれていた原稿用紙を手に取り、試しに其れを開いてみました。すると、そこには思わずゾッとしてしまう程におどろおどろしい文体で、何か得体の知れない呪いが込められているかの様な力強い文字で、次の様な題のない小説がバラバラバラッ…と書き綴られているのでありました。



 此れより、読者の皆様にお読み頂く物語は、実際に吾が此の現し世に起こして見せた焔の事件についての所謂いわゆる、伝記であります。

 唯、伝記と申しましても「何故、見ず知らずの、記憶の片鱗も無い者の伝記を読まされなくてはならないのだ」と一言目に、申されることでありましょう。そこで、此れより吾と云う者の人生の一端を書き綴る事といたします。

 吾はとある街の、とある小さな一軒家に這い生まれました。

 生まれた当時、私は「おぎゃあ」とまるで断末魔の様に泣き叫んだことでありましょう。併し、其れを確かめる術を吾は持ち合わせておりませんでした。何故かと申しますと、吾の両親は、吾が三才程の時に火事の業火に抱かれ、此の世ならざる場所へと逝ってしまったのです。其れ故に、涙溢れる感動ドラマや悲しみは一切合切持ち合わせておりません。

 其の代わりと言ってはなんでございましょうが、煮えたぎる恨みならばあります。火事の業火によって吾は顔や身体…要は全身の皮膚を焼き焦がされてしまい、指紋や毛髪、全身の発汗機能を失ったあげく、人相をみにくく変えられ…宛ら、悪魔の様な容姿へと変えられてしまったのですから至極当然の事です。併し、すべてを失ったと云う訳ではありません…むしろ、あの眩いばかりの地獄の業火の最中で、得たものもあるのです。


 そう、吾は…焔の美しさを知ってしまったのです。


 身体からだおろか、お伽噺の様に曖昧な存在である吾の魂を確かに、グッ…と鷲掴みにし、不可視でありながらとても強固な透明な鎖で拘束し、まるで玩具の人形の様に無遠慮に弄ばれて了う程に其れはとても美しく、舞台上で舞い、大勢の観客を魅了して了う女役者の様に妖麗であり、空気を喰らい、ありとあらゆるものを焼き焦がす様は正に「絶対的な美」其のものでありました。

 全てを失っていながらも、禁じられた焔の美しさを知り、まるで乙女の様にそれへと恋い焦がれてしまった吾は其れ以来、一時たりとも火事の際の記憶を忘れ去ることができませんでした。明くる日も明くる日も、吾は試行錯誤を繰り返し、どうにかしてもう一度、あの美しい焔を拝めないものかと苦悩の闇に沈みました。そして、とある日の事であります。とうとう吾はとても素晴らしい妙案を思いついたのです。其れは、他人の者共に言わせてみれば実に馬鹿馬鹿しく、「不治な程に精神を病んでしまっている」、「悪魔に呪われている」等の辛辣な台詞ことばを決まり文句の様に吐き捨てるでしょう。ですが、吾にとってみては芥川 龍之介の著書「蜘蛛の糸」の本文中に記された、釈迦しゃかがカンダタと云う一人の男を地獄から救い出してやろうと、地獄へと下ろしたあの一本の蜘蛛の糸の様に感涙する程有難く、頭を垂れる程に神々しいものでありました。

 「そうだ、そうじゃないか…!何故、今迄此れに気がつかなかったのか不思議で々々々々仕方がない。もう一度、拝みたければ…己が手で……火事を起こせば良い………」


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