第十八集:終劇
月が朱く染まった。
いや、それは視界が赤いからかもしれない。
「ふふ、流石兄上だ」
目に、
胸元に一閃。
「それにしても、意外と香りはないんですね?」
「ああ、兄上の血が体内に入ってくる……。最高だよ」
突然生えてきたそれに、少々苦戦している様子。
それでも、持ち前の運動神経がそうさせるのか、
「なぜわたしが
「教えてほしいんですか?」
それを寸でのところで避けた
「あはは。地面が抉れてる。兄上、本当に私を殺す気なんですね。嬉しい。なんで兄上が
「うわああああああ!」
切り取った個所が甘かったのか、さほど流血はない。
それでも、
「で? 魔法使いが何を仕込んだんだ」
「あは、はあ、はあ……。ふふ、ふふ。毒ですよ。鉄を含んだ致死量の毒。兄上の傷口から体内へと入っていったはずなのに、兄上はふらつくこともなく、出ていった。だから、わかったんです。あはは、はあ、はあ。人間じゃないって」
「うあああああ!」
斬り落としたはずの翼が成形されはじめ、瞬きの間に、
「気持ちが悪いな」
「素晴らしいでしょう? 兄上は何度も何度も何度も何度も私のことを切り刻むことが出来るんですよ? 互いの命が尽きるまでの
怒りで思考が鈍っていた。
「お前……、即位したのか」
「ああ、それはあとでわかることでしたのに……。兄上は聡明だから、やはりわかってしまいますよね」
「礼部尚書と宰相の前で署名しました。母上は毒が回って判断力が鈍っている状態でしたが、まぁ、自身の息子を皇帝にするのですから、嬉しかったのではないですか?」
「これで、私が新しい玉璽を作るまでは誰も邪魔できなくなりましたね。ふふふ」
「御林軍は……」
「もちろん、命令してありますよ? 私の即位に難癖付ける奴は、誰であろうと、その地位に関係なくその場で殺せ、とね」
董大師の豪快な笑い声。
賢妃の優しい眼差し。
大伯父凛津の凛々しい横顔。
江湖の仲間たちの鍛錬する姿
董侯府の美しい庭。
そして、
「お前、最初からわたしを黎安から引き離すつもりだったのか……?」
「あはは! その通り! 兄上は、私だけ見ていればいいのです。私だけを気にしていればいいのですよ!」
「くっ、あはははは! はぁ、さすがは師匠ですね」
上空で戦っている
「ど、どういうことですか? 兄上……」
「さぁ、兄弟喧嘩を終わらせようじゃないか」
☆
「あの
普段ならばこんな言葉遣いはしないはずの賢妃が、怒りのあまり、口走った。
「宰相は欲を出したのね。
賢妃の言葉に、
「禁軍は何もできないのでしょうか」
「さっき、私の隊から大統領が無事に復帰したって報告があったから、まぁ、なんとかなるとは思うけれど……。でも、禁軍も半分近く、宰相の手によって
「父上が大統領に加勢すると言っておりました」
「そうね。それが一番いいわ。
「私も行きます」
賢妃は
かつての自分を見ているようで、嬉しかったのだ。
「……いいわ。まさか
「母上のを借ります」
「決まり。
「わかっています。必ず、
「うんうん、その意気よ!」
賢妃は「あ、そうだわ」と言うと、董大師に何かを伝えに走って行ってしまった。
戻ってきた賢妃に、
「これは……」
「耳に詰める綿よ。
「ふふ。
「楽しみね」
二人は武術用の装束に着替え、最低限の用意を済ませると、桃晶隊を引き連れて皇宮へと出発した。
馬で駆け抜けるその姿はまるで男装の麗人。
何が起こっているのかわからず不安に思っている黎安の人々の心を潤した。
皇宮の門につくと、さっそく禁軍に邪魔をされたが、二人はあっさりと彼らを放り投げると、かまわず中へと入って行った。
「賢妃様とて中へ通すわけには……」
すべて言い終わる前に、兵士は宙へ浮かび、地面へと叩き落とされた。
「
「大将軍の娘ですから」
「強い女の子は好きよ」
次々と現れる兵たち。
〈
「賢妃様、
「ありがとうみんな。あまり怪我をさせないようにね」
「それはどうでしょう」
「ふふ。任せたわ」
賢妃と
「おや? 賢妃様と……、
「宰相殿、そこは玉座よ。なぜあなたと禁軍が居座っているの?」
睨みつける賢妃をものともせず、宰相はほくそ笑みながら言った。
「良い質問です。そうだ、賢妃様、いえ、
賢妃の動きが止まった。
「皇兄……? ってことは……」
「その通りです。つい先ほど、皇后陛下が書かれた書状が承認され、
「そ、そんな……」
宰相から渡された書状には、確かに皇后の筆跡で
「さぁ、お二人とも。ここは玉座です。争いごとは困りますよぉ」
薄笑いを浮かべた宰相の言葉が、むなしくも「正しい」。
禁軍の兵たちが「御退出願います」と、にじり寄ってきた。
(どうすればいいのかしら……。困った事態だわ。それも、とてもね)
これで、
逆に言えば、現在大統領や董
その時だった。
外で激しく争う音が聞こえ始め、扉を破壊しながら人が飛び込んできた。
「うあ……」
投げ飛ばされたのだろう。
禁軍の兵士は呻きながら気絶した。
「久しいな、瓏国宰相殿」
地鳴りのような低く怒気を孕んだ声。
鋭い目に、鍛え上げられた体躯を包む荘厳な鎧。
人々に畏れを抱かせるには十分すぎるほどだ。
「な……。え、燕国皇帝、
宰相は脂汗を流しながら後ずさった。
「驚いたようだな。まあ、私も少々驚いてはいる。劉大将軍は楽しそうだったが」
「何をおっしゃいますか、陛下。陛下が一番嬉しそうでしたよ。
二人の後ろから現れたのは、人間とは違う、不思議な存在。
薄水色や濃い藍色などの寒色の滑らかな肌に、大きな瞳が特徴の灰色の目。
唇は白く、歯はギザギザとしている。
耳は穴になっており、耳たぶなどはない。
髪は夜空に流れる天の川のような銀色をしており、とても神秘的な種族、
「我らも実に愉快でした。人間で我らの行軍についてこられる者は希少。陸を駆ける人間の大将軍と、その兵たちに、敬意を表します」
「ありがとうございます」
恭しく頷いた劉大将軍。
目の前にひろがる異様な光景に宰相は発狂したように叫び出した。
「な、なんなんだ、なんなのだ!」
「そうだな。平和的に侵略しに来た、と言った方が良いだろうか」
「し、侵略⁉」
「なぜ
「な、そ、そんなの、た、他国の皇帝に、か、かか、関係ないでしょう!」
「関係はあるぞ。これをお前に読ませてやろう」
そう言って
「な、な……!」
そこには、かつての瓏国皇帝、
「こ、こんなものをどこで……」
「中には書状が入っている。内容は読めばわかるが……。まあ、簡単に言えば委任状だな。『瓏国が危機に陥った際には、軍を率いてこれを制してほしい』と。押してある血判は本物だぞ」
「そんなはずは!」
宰相があわてて箱を開け、中から書状を取り出すと、そこにははっきりと
「そんな、こんなこと……。それに、紙が綺麗すぎる! ぎ、偽造なのでは……」
「
数時間前、
驚いて見ていると、だんだんと人の形へ変わり、手には箱を持っていた。
――陛下!
その言葉だけですぐに分かった。
今が、その時なのだと。
久しぶりに見た
「さぁ、宰相よ。玉座を私に明け渡せ」
「な……、こ、こんな横暴、許されるはずがない! 第一、
その瞬間、宰相の頬を剣がかすめた。
「そうしたのはお前だろ?」
宰相は膝を震わせながらへたり込むと、脂汗を掻きながら「ぎ、ぎょ、御林軍! 全ての瓏国軍に合図を出せ!」と叫んだ。
すると、柱の陰から、今までどこにいたのかわからないほどの兵が姿を現した。
皇宮内のいたるところでそれが起こったらしく、外で何も知らない侍女たちが叫ぶ声が聞こえた。
「は、ははは! お前たちは袋の鼠だ! 黎安にいくつの軍が集結していると思う?」
「兵符を使ったんだな」
「そ、その通り! ひひひ! 瓏国に足を踏み入れたのが運の尽きだったな! 燕国からなど、そう早く入国など出来まい……」
劉大将軍が右拳を上げた。
「陛下、よろしいでしょうか」
「宰相殿が望んだのだ。応えてやらんとな」
「へ?」
劉大将軍が拳を前に降ろす仕草をすると、
その歌は徐々に階段の外にいる
「な、歌だと? それが何だと……」
瓏国軍の兵士が、一人、また一人と揺れ出し、しまいにはぐしゃりと倒れ込んでしまった。
「へ?」
歌が終わると、皇宮のみならず、黎安中に宰相が用意した兵士たちが眠りについてしまった。
「で、どう戦う? 宰相殿」
「そんな、どうして……」
「我らは眠りへ誘う。特定の周波数を経由して、鼓膜を揺らし、脳に作用する。瓏国軍が使っている甲冑の周波数は調査済み。我らは届けるだけ、平安の歌を。業火に染まる哀しき皇子のために」
「哀しき皇子、だと? だ、誰だ! 誰がこんな……」
「
「なんだと⁉ あの心の弱い……」
「なんだ? 続きを言ってみろ。聞いてやる」
「ひぃっ」
宰相は恐怖を目に浮かべ、うなだれた。
勝ち目はないと悟ったからだ。
「あとはあなたが決着をつけるだけです、
☆
それと同時に、空では先に戦いが終わろうとしていた。
「さようならだ、魔法使い」
「ぐっ、はっ……」
アンリはそのまま地上へと落下し、血を吐きながら尽き果て、炎となって世界から消えていった。
「
「すぐに追いつきます!」
「兄上は、ど、どこにも、行かせま、せんよ」
「あ、兄上は、私の、ものだ」
「そんな姿になってまで、わたしと、この中原が欲しかったのか」
「ふ、ふふ。そ、その通り。血の海で、一緒に、航海しましょう? あ、兄上」
「さようなら、
同時だった。
剣が互いを狙い、突き進んだ。
「あ……。あ、あに、うえ……」
傷がふさがらないように。
もう二度と、出会うことの無いように。
少しの痙攣の後、その目からは完全に命が消えていった。
かつて弟だった、幼き日の
血で真っ赤に染まった自身の手。
ただ少し、寂しいと思った。
「みんなのところに行こう。
空は黎明。
藍色から紫へ。
そして、次第に橙へと変わっていく。
また新しい一日が始まるのだ。
昨日までとは、まるで違う日々が。
黎安へ着くと、想定していたよりも混乱はひどくはなかった。
街も戦場にはならずに済み、民も大方無事だ。
途中、桃晶隊に「おかえりなさいませ、殿下」と言われたが、その足元に転がる禁軍の兵たちが気になってうまく笑えなかった。
朝堂へ入ると、そこには会いたかった人たちが全員集まっていた。
「
かつて戦場で何度も見た、
「
そう言うと、
全員の視線が
その時だった。
黎安の門から、歓声が上がり始めたのは。
「わたしではないんだ」と。
「
まさか、他にもたくさんの人々がいるとは思わなかったのか、
「あ……。し、失礼した」
その横で、
「叔父上、お待ちしておりました」
「叔父上、まことに勝手な願いではありますが……」
顔を上げ、まっすぐと
「この国を、民を、導いてくださいませ」
「ま、まて
「まさか……」
そして、悟った。
「我々には、叔父上のような王が必要なのです」
最後に、
「兄上がその覚悟を決めるのならば、私は力の限り、お支えいたします」
風が通り抜けた。
「謹んで、お受けいたします」
翌日、失われた玉璽の代わりに、燕国皇帝である
事態の集束は紫董軍の素早い動きのおかげで円滑に進み、他の国々につけこまれる隙をつくることなく収束することが出来た。
そんな中で、
「
そして、
良い報告はそれだけではなかった。
後日後宮を訪れた
「母上、その……。
「まあ!」
そこへ訪れた息子からの吉報に、「ああ、私、本当に幸せだわ」と、涙を流して喜んだ。
その後の瓏国は、内政は穏やかで誠実だったものの、外交は激動だった。
幸せな時間は、時に早く、時にゆっくりと過ぎていった。
☆☆☆
瓏国の首都黎安を一望できる山に建てられた
「どうだった?」
心地の良い春風に身を委ねながら、
老人は深く息を吸うと、ゆっくりと吐き出しながら、姿を変幻させていった。
「昨年、
「そうか。私も嬉しいよ。君が幸せな八十年を過ごすことが出来て」
「まぁ、まさか自分のお葬式を眺めることになるとは思いませんでしたけどね」
現在、黎安ではまさに国葬といった規模で恵王の葬送の儀が行われている。
弔問客は後を絶たず、すでに二日目。
棺桶に収まっているのは、木人形を老いた
「それにしても、たくさん子供をもうけたな」
「ええ。十人。
「孫は五十人だったか?」
「ふふ。六十三人です」
「まさに、大家族だな」
「はい。本当に、本当に幸せな人生でした」
「
「さて、どうする?」
「そうですね……。
「師匠、久しぶりに旅に出ませんか?」
「その誘いを、何十年も待っていたぞ」
「どこに行きましょうか」
「そうだなぁ。中原もまだまだ広い。すべての国へ行くというのはどうだ?」
「いいですね。刻々と変化していく中原を見て回りましょう」
二人は笑い合うと、
その後を追うように、桃の花がひらひらと舞い踊った。
春の風に、漂いながら。
麒麟の甜子~神仙の薬術師になって、病魔と国を癒やします~ 智郷めぐる @yoakenobannin
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