現実
空野春人
げんじつ
「死にたい」
「生きたい」
そう、同時に呟いた俺たちの前に現れた得体の知れない男。
「それじゃあ君たちを入れ替えてあげましょうか?」
その男によって二つの人生が交錯して新たな人生が始まり、そして、何事も
なかったかのように終わっていく。
「それが私の使命ですから」
***
はあ、疲れた。今すぐにでも横になって眠ってしまいたい。体も心もくたくたで今なら一度も目を覚ますことなく二十時間は眠れてしまいそうだ。疲れが取れるのかは知らないが。
「さっき帰ってきたばかりなのにもう行くのかい?」
「うん」
「軽くだけどご飯を用意したから食べてからにしたら?」
「そうしたいけど時間なくてさ、この茶碗のご飯だけおにぎりにして持っていくよ」
「そう……。体には気を付けてね」
「母さんもね」
外は真っ暗だ。今日は特に空が曇っていたから尚更にそう感じる。そんな中、なさけなく道を照らす街灯の下を歩き、いつものコンビニへと向かう。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。ご飯はちゃんと食べてきた?」
「いえ、時間がなかったので」
「廃棄のやつもあるから少し食べな?もう少しいるから」
「すみません」
廃棄になっていたパンをかじり、買ったコーヒーを願いを込めてのどに流し込む。途中で寝てしまわないように。
「じゃあ、お疲れ。頑張ってね」
「はい、お疲れ様です」
今日はどのくらい眠ったっけ?間違いなく言えるのは今日は一度も横になっていない。横にはなっていないが昼休憩に仮眠は取っていたはずだ。
「いらっしゃいませ」
絞り出すように声を出し、空元気で体を動かす。
つらい、きつい、やめたい。そんな言葉を何度押し殺したことだろう。こんな思いをしないといけないのにもちゃんと理由がある。母さんもきっと俺と同じような日々を送っている。俺だけ投げ出すわけにはいかない。
「いらっしゃいませ」
それに、この体がちゃんと動く限りは。
***
今日の空は真っ黒だ。どす黒く分厚い雲が太陽を覆っては大地に潤いを与える。窓ガラスを滴る雫を何度最初から数えなおしたことだろう。
「……」
毎日毎日、いい加減気が狂いそうだ。寝ても寝ても覚めてはくれない現実が夢すら見させてくれない。
立ち上がりたい。走り回りたい。ジャンプしたい。
溢れ出してくる涙すら拭うことのできない自分の体に嫌気がさす。このまま最後まで迷惑をかけて終わってしまうのか。
思いっきり体を動かしたい。みんなに恩返しがしたい。
***
「お疲れ様でした」
朝八時。ふらふらになりながらバイトを終える。このまま眠ってしまえればいいのだがこれから仕事だ。一日仕事して夜は夜勤のバイト。合間のちょっとした時間の仮眠だけで俺は生きている。もちろん吐きそうなほど辛い。
「いいよなあ」
誰に対して、何に対してか、そんなの一人しかいない。
「少しだけ時間あるか」
通り道だし寄っていこうとその足でいつもの病院へと向かう。雨音がやけに大きく感じて耳障りだった。
「……」
いつもこのドアを開けるとき少しだけ緊張して手が震える。もしも、そう考えてしまうからだ。
「よ!調子はどうだ?」
「あ、来たんだ?いつもよりはマシかな」
「そっか。それはよかったな」
いつもよりも明るく振舞うのは悟られないようにだ。
「お。この花きれいだな」
水を変えようと花瓶を持ち上げた瞬間に視界が揺れる。すぐには治らない。
まずい。いつもよりも眩暈が長い。とにかくばれないようにしないと。
「ま、まだ水かえなくていいかもな。まだ……」
「もういいよ……」
「は?」
「お母さんにもお前にも無理してほしくない」
「何言ってんだ?」
「見たら分かるんだよ。お前もお母さんも見るたびにやつれていってる。僕のせいで。だからもういいよ」
「だから、もういいってなんだよ」
「僕はどうせ助からないって言ってるんだよ」
「なんでお前がそんなこと言うんだよ?生きたいんじゃなかったのかよ」
「無駄だよ。せめて二人は……」
「無駄?無駄ってなんだよ。俺たちが辛いって思いながら頑張ってるのが無駄だっていうのか?」
言いながらやってしまったと思ったが止められなかった。絶対に口に出してはいけない言葉だった。
「お前が生きたいって言ったから俺と母さんは無理して働いてる。それなのにお前が一番に諦めていいわけないだろ」
そんなこときっと自分でも分かってるだろう。
「じゃあどうすればいいんだよ!日に日に悪くなっていく体に言い聞かせろって言うのか?どうしようもないのに?」
俺が本当にムカついたのは自分なんてどうでもいいという言葉にではなかった。こいつは簡単で諦めることができる、その事実にだった。
「君には分からないだろうね。僕の気持ちは」
「お前だって分からないだろ。俺の気持ちは」
目の前にあった花瓶に手が当たり地面に落ちる。花瓶の割れる大きな音が鳴り響くはずだった。
「まあまあ、どちらも落ち着いてください」
いつの間にか知らない男が花瓶を持って二人の間に立っていた。シャツもズボンも真っ黒で黒い帽子を深くかぶっている。笑顔はどこもかしこも胡散臭い。
「喧嘩はよくないですよ?たった一人の兄弟なんですから。しかも双子の。めずらしっ!」
なんだこいつ。きっと二人ともそう思ったはずだ。
「あんた誰だ?勝手に入ってきて」
「私は誰か?すみませんがそれは内緒です」
「は?」
「代わりと言ってはなんですが、あなた方に別の人生を提供しましょう」
「どういうこと?」
「他人のことなんて全く分からないものです。なので実際に体験してみてください。では、えっと、レッツニューライフ!」
いつの間に雨が止んだのか、ダサい言葉を合図に太陽光が病室に強く差し込む。目を瞑り、もう一度開けて見ると、今までとは違う世界が広がっていた。
***
「行ってきます!」
いつもと違う朝が来た。体は軽いし、この上なく動く。目を開けるだけでうんざりするだけの人生とはまるで違う。
「えっと、どこに行くんだっけ?」
携帯を開き、昨日教えてもらった通りに行動をする。自由に動く体で前とは違う楽しい人生にする。そして二人のために生きる。
……はずだった。
「やっといてってお前に言ったよな?ちゃんとやり方まで説明して」
「すみません、忘れてました」
「あのなあ、ここは学校じゃねえんだよ。社会じゃあそんなのは通用しないわけ。分かる?」
「はい。すみません」
「もういい。戻れ」
僕のせいじゃない。準備していなかったあいつが悪いんだ。
「どうした?珍しいな」
「あ、いや、すみません」
「なんで敬語?」
慣れない環境に右も左も分からない世界。ストレスと疲れだけがひたすらに溜まっていく。
「ただいま」
本当に一日しか経ってないのか?そんな疑問とともに家のドアを開ける。真っ暗だ。まだお母さんは帰って来てないのだろうか。
冷蔵庫を開けても何もない。お母さんが買い物でもしてきてくれると信じてお風呂の準備でもしよう。
「ただいま」
「あ、おかえり」
帰宅したお母さんの手には何もない。
「今からお風呂の準備はするけど、ご飯はどうするの?食べに行く?」
「今日はバイトは休みなのかい?」
「え?バイト?」
一日中仕事してやっと帰ってきたところなのにバイト?今から?
「早くシャワー浴びないと時間なくなるよ?」
「早くって、ゆっくりする時間もないの……?」
「自分で決めたことでしょう?」
お母さんは少し悲しそうな顔でそう答えた。
***
「体調はどうですかー?」
「体調は相変わらずですけど気分はいいです」
これはいい世界だ。無理して働かなくてもいいし、好きなだけ寝ることも出来る。今までとは対照的だ。検査はめんどうだが労働ほどではない。
「……」
よくよく思い返せば信じられないくらい働いていたものだ。お金がどうしても必要だったために大学にすら行けなかったし就職先も選べなかった。給料も安い。ちゃんと就職先を選んでいたらもっと効率的にお金も貯まっていたのだろうか。
……考えるのは止めよう。もう俺には関係のないことだ。
「暇だな」
あんなに焦がれていた睡眠も今となってはただただ鬱陶しかった。
***
やっと寝ることができると思ったのも束の間、ふらふらの体でバイト先であるコンビニに向かっていた。
バイトは何時まであるのだろう。明日も朝から普通に仕事はあるのに。
「お疲れ。珍しく今日は時間ギリギリだったね」
「ギリギリ……?」
もうすぐバイトが始まる。夜勤は基本的に一人だからもちろん寝れる時間なんてない。
「コーヒー淹れといたから飲みな?」
「……ありがとうございます」
コーヒーと食べていいと言われた廃棄のおにぎりを胃の中に流し込む。
「じゃあお疲れ」
「お、お疲れ様です」
夜のコンビニ僕一人。誰にも頼れない上に全部一人でこなさないといけない。
『自分で決めたことでしょう?』
お母さんの言葉が頭に浮かぶ。
あいつは自分でこんなにも大変な人生を選んだんだ。たった二人でお金を稼がないといけないから、お母さんだけに無理を強いらないように。僕の治療費を稼ぐために。
決意が揺らぐところだった。あいつはこんなに大変な生活を僕のために送ってくれていたというのに。二人に恩返しをする。その決意だけで今は十分だ。
***
何日経ったことだろう。一日、一時間、一分、一秒すべてが長い。なんなんだこの人生は。体はうまく動かず、頭の中だけが余計に動く。
窓の外に広がる楽しそうな景色にも、心にもないくせに励ましの言葉をかけてくる医師や看護師にも、雨の日の雨粒だらけの窓ガラスにもいちいち腹が立つ。寝てるだけなのにストレスだけが溜まっていく。そのストレスは動けない体では発散できない。
ああ、少しだけでも、体が動かせたらなあ。
***
あれから一週間。たった?
「行ってきます」
たった一週間の疲れじゃないぞ。異常だ。あいつはなんでこんな生活を今までやってこられた?耐えることができていた?
『俺たちが辛いって思いながら頑張ってるのが無駄だっていうのか?』
違う。耐えられてなんかいなかった。これじゃあ死にたいと思っても仕方ない。
だって、実際に今は僕も……。
「もう限界だ……」
今日、病院に行こう。あいつが何て言うかは分からないけど。
***
うんざりだ。毎日毎日毎日毎日、うんざりなんだよ。いくら目を瞑れても体は動かないから耳は塞げない。目は瞑れても、例え耳を塞げても変わらないと分かっているのに。
怖いんだ。
あんなにクソだと思っていた労働が恋しくなるほどに、何もできないのは怖い。ひたすらに溜まっていたストレスがゆっくりとある感情に変換されていく。
恐怖。
死にたくないという言葉が口から零れ落ちてしまいそうだった。
***
「そうですか、分かりました。何か心境の変化はありましたか?……それは何よりです」
***
記録――。
弟。病室で一人、死にたくないと呟きひっそりと死亡。
その一か月後。
兄。ふらふらと駅のホームから線路へ落ち、電車に轢かれて死亡。鞭を打ちすぎた体についに限界がきたのか、それとも故意に飛び降りたのかは不明。
その一週間後。
心も体もボロボロになった母親が自室で首を吊り死亡。
「あ、やっと雨も上がりましたね」
やれやれ。
あと何人
現実 空野春人 @sorhar
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