2017年12月
尾崎と知り合ってから、半年が過ぎた冬のある日、尾崎との距離は近づくこととなる。ここが分岐点だった。
その日は、合ゼミの日でもなかったので、関本はいつものように一人で講義を受けて、喫煙所で煙草を二,三本吸って家に帰ろうとしていた。
午後の講義を終えて、大学の駐輪場の一角に設置された、灰皿が二つあるだけの喫煙スペース。そこが、大学内で唯一関本の気が休まる場所であった。常喫しているアークロイヤルの箱から一本取り出し、火を点ける。いつもと変わらぬ甘ったるい香り。
一本目を吸い終え、二本目に火を点けて、関本の携帯電話が鳴る。ポケットから取り出し画面を見ると、尾崎からの着信だった。
「もしもし」
返答がない。代わりに、電話の向こうから尾崎のものと思われる嗚咽が聞こえる。
「もしもし。尾崎、どうかした?」
「突然ごめんね。でも、どうしたらいいかわからなくて」
二回目の呼びかけでようやく応えた尾崎の声は、今にも消えてなくなりそうな程、細く弱々しかった。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「私、本当に駄目なんだ。何をやっても、絶対誰かに迷惑かけちゃうんだ。でもどうすればいいのか分からなくて。それでこの前言ってくれたことを思い出して」
「なぁ一体どうしたんだよ。今どこにいるんだ?」
「今は自習室にいるんだ。もう誰にも私を見られたくなくて」
「分かった。とにかく、今から行ってもいいか?何番自習室?」
「三番。ごめんね、帰るところだったよね」
「いや、幸い僕はいつでも暇だから全然問題ない。とにかく今から行くから」
関本には、尾崎の姿を見なくても死がより濃くなっているのが分かった。電話で聞いた声には、いつもの気丈な彼女の語気はなく、どうやら今、確実に死がにじり寄っている。
駐輪場を抜けて、自習室がある棟へ急ぐ。建物の三階へ上がり、三番自習室の前に立つ。扉の前から、尾崎へ電話をかける。
「今着いた。入っていいか?」
「うん。大丈夫」
了承を経て自習室に入ると、尾崎は泣き腫らした目をしていた。そして彼女に視える、真っ黒な死。今にも、向こう側へ手を引かれて行ってしまいそうな程の、どす黒い死。彼女の白い肌とは真逆の闇が広がっていた。
「一体どうした。何かあったのか」
電話では聞けなかった経緯を再度尋ねることにした。
「いやー、私って本当に駄目だね。いない方がいい存在なんだよ」
「なぁ尾崎、何があったか分からないと僕には何とも言えないんだ。何があったのか、話せることだけでもいいんだ。僕に話してくれはしないか?」
「そうだよね、ごめんね。ちょっと長くなるかもしれないけど、話すね」
「いいよ。時間はいくらでもある」
ようやく口を開く気になってくれた彼女の言葉を待つ。
「私ね、どうも周りの人たちとはずっとどこか違うなって思ってたの。なんていうか、普通じゃないっていうか」
「誰だってそうじゃないか。どんな人間も一人たりとて同じな訳ない」
「そうだけど、そういうことじゃなくてさ。周りの人たちが普通にできることができないんだよ。周りに合わせて笑ったりとか、空気を読んで動くとか、そういうことが、上手くできないんだよ」
「そうだろうか。常に一人ているような僕と違って、君は友人も多いし、周りから好かれていると思ってるけど」
「それは意図して、努力してそう見せているだけ。周りが自然にできていることを、私は意識しないとできないんだ。今までずっとそうして普通に見せてきたんだ」
誰にだって不得意なことはある。それを努力で補うことだって、恐らく当然なはずだ。話を聞いていてそう思ったが、話を遮ることは今はしない方がいいと判断した関本は、続きを待つことにした。
「最近もね、提出するつもりだったレポートをギリギリまで伸ばしちゃって、結局先生に弁明してもう少し待ってもらったり、参考にした文献を図書館に返し忘れて、一週間の貸し出し禁止になったり、電気代ため込んじゃって電気が止まったり」
「それは意外だな。しっかりしてそうだと思ってた」
「そうなの。そう見えるように、普段周りの何倍も気を付けてるの。そんなことが続いて、それでも何とか耐えてたんだけど、今日学科の女の子がね、私のことをね、『しっかりしてそうで実は抜けてるんですみたいな顔してれば男が寄ってくるから楽でいいよね』って言ってるの聞いちゃってね。何か、ポッキリ折れちゃって」
「何だそんなの。それは君の人気に嫉妬した有象無象のつまらない戯言だろ。そんなこと気にするなよ」
「皆が皆、貴方みたいに人の目を気にせずいられるわけじゃないんだよ!」
初めて聞く彼女の強い語気に、少し気圧された。
「そんなこともあって、大学生になってからも少し折れちゃうことはあっても何とか耐えていたんだけど、今日はなんだか、もう疲れちゃって」
「それでこんな部屋で泣いていたのか。それにしても、なんで僕に電話をくれたんだ?君なら他に頼れそうな奴がいると思ったけど」
「ごめんね、迷惑だったよね」
「いや、そうじゃないんだ。頼ってくれたのは嬉しいんだけど、敢えて僕の理由が分からなくて」
「関本君はさ、いつも一人でいるじゃない?誰とも関わらず、自分の世界で生きれていて、そんな君なら私に対して、偏りのない目線を持ってくれてるんじゃないかって、そう思ったんだ。話を聞いてもらうのに利用したんだ。最低だ、私。関本君に色々言ったけど、人に何かを物申せるほど、高尚な人間じゃなんだよ私は」
目の前の彼女は、あの夜自分に礼儀の大切さを説いた力強さはなく、まるで迷子に泣く幼い少女のようで、どうしようもなく胸を打たれた。同時に、そんな彼女の涙を見ただけで、心がどうしようもなく動いてしまう自分が情けなくもあった。
「今の話を聞いただけなのに何を言ってるんだと思われるかもしれないけど、君は強いんだな」
その言葉に尾崎は顔を上げ、困惑した表情を浮かべる。
「強い?私が?こんななのに?そんなわけないじゃない」
「いや、少なくとも僕からしたらそう見えるんだ。そうして色んな悩みを持って、何も知らない周りからはそんな下衆じみた妬みをぶつけられて、それでも気丈に振る舞って努力を怠らない君は強いよ」
実際、言い寄られているのを何度か見ているし、恐らく大学生になる前も、彼女の意図しない男女のいざこざに巻き込まれて、身勝手な悪意に晒されてきたのだろう。彼女の口ぶりから容易に想像できる。そんな悪意に苛まれながら、自分の癖や特性と向き合い、今まで努力を続けてきた彼女は決して弱いはずがない。周囲と関わりを持たず、好き勝手に生きてきた自分とは違う。関本にとって、それだけで彼女は充分尊敬に値する人物だった。
「そんなこと、思ったこともないよ。言われたことも」
「もっと誇っていいことだと思うぞ。それに、君はそう見せてるだけだとしても、同年代の女の子と何一つ変わらないよ」
「そうなのかな。関本君の言葉は不思議だね。なんだか、ごく自然に言葉を選んで、今私が欲しい言葉をくれている気がする。まるでスナフキンみたい」
先ほどまで幼子のように泣いていた彼女の表情が、ようやく少しだけ和らいだ。同時に、あれだけ禍々しく感じ取れた死もまた、少し薄れたような気がした。
「僕は、そうなりたいと思ってるからな。トンガリ帽子の彼のように」
「なにそれ。変なの」
「とにかく、君はきっとこれからも大丈夫だ。でも、またもし辛い時があったら、その時は、僕にお前を助けさせてくれ」
「どんなお願いなの、それ。迷惑でしょ、こんなの。こんな自分の都合でヒステリーに陥っちゃう度に頼ってしまったら」
「それでいいんだ。避難先を知っているのとそうでないのでは、事は大きく違う。他に頼れる人がいるならそれでもいい。でも、どうしようもなく他人に頼れない時だけでもでいい。僕を頼れ。必ず力になる。生憎、僕の時間は無限だ。」
「分かった、そうする。私も、どうしてか君には普段他の人には話さなかったことも話せたし」
「それはスナフキン冥利に尽きるってもんだ」
「それにしても、君はもう少し他の人とも関わりなさい。一人で生きていくなんて、無理なんだからね」
「善処するよ」
こんな時でも人の心配をするなんて、本当に思いやりのある女の子なのだろう。こんな子が、自身の内情ならまだしも、世界の悪意で足踏みさせられているままで、いい訳がない。
「ならさ、いつまでも君とか貴方とかと呼ぶんじゃなくてさ。普通に名前で呼ぼうよ」
「僕は別にこのままでも構わないぞ」
「ほら、また。人と関わる練習だと思ってさ。それに、私がなんだか距離を感じて寂しいし」
「そう言うなら、僕は咲菜と呼ぶのでいいか?」
「うん、それで。私の方は、どうしようか。純ちゃんって呼んでいいかな」
「苗字でも名前でもなく?」
「なんだかその方が可愛くない?」
「君がそれで呼びやすいならそれで良いが」
急な愛称呼びに少し驚いたが、関本も若い男だった。確かに彼女からそう呼ばれると、より距離が近くなった気がして、心が躍った。
「これから、何かあったら頼るね、純ちゃん」
そうして、何とかいつもの調子を取り戻した咲菜はまだ講義があると言い、講義棟へと向かって行った。講義のない関本は、自宅へ帰る前に再び駐輪場へ行き、また煙草に火を点け、自習室での出来事を思い返していた。
確かに、同い年の女性があのように泣きじゃくっている姿はあまり見たことがないかもしれない。しかし、誰にでも何かしらの事情はあるだろうし、咲菜は咲菜だ。他がどうであれ、彼女を助けると決めた関本には大した重要なことではなかったので、もう一本煙草を吸って、その日は帰路に就いた。
『半袖』 洞探検英吉 @snufkinTV
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