汚された指先

西野ゆう

第1話

 八月六日。

 ここ数年の夏は容赦がない。太陽はアスファルトをうねらせる程の強烈な光を浴びせ、蝉の声は悲鳴のように鳴り響く。

 午前八時十五分。蝉の悲鳴にサイレンの音が重なり、川に囲まれた街を覆い尽くす。人々は黙し、それぞれの祈りを捧げている。あるいは悔み謝罪している。

 あるものは地面を睨みつけ、あるものはきつく瞼を閉じ、あるものは、丁字に交わる橋の上空を見上げた。

 広島の平和記念式典。その映像を、私は長崎市内の介護施設で眺めていた。この施設の利用者の顔ぶれも随分と変わったものだ。みな綺麗な顔と身体をしている。例え私より年老いていたとしても。

 私のように背中から腕、手指までケロイドに覆われているような者は片手で数えられるまでになった。

 テレビの中では、子供たちが未来に向けた誓いを読み上げている。いや、誓いと言うよりもさらに未来に向けたメッセージだ。永遠の願いだ。

 私は必ずこの子供たちが読上げるメッセージで涙を流す。なぜだか分からない。しかし涙は涸れていて、実際に頬を伝うことは無いのだが、反射的に拭ってしまう。

 そして、その手で鶴を折るのだ。濡れない涙を拭った醜い指で。

 他の年寄りが二十折る間に、私はようやく折り終えた醜い一羽の鶴の翼を広げる。

「茂木さん、ハネは広げないで下さいね」

 去年の秋に新しく来た職員が私にそう注意すると、私をよく知る理事長がその職員を止めた。

「良いんですよ、茂木さんはいつも通り折って下さい」

 理事長にとっては優しい声掛けのつもりだったのだろう。だが私にとっては、自ら生み出した鶴が、皆の祈りとは違うと判定されたように聞こえた。

「すみませんねぇ」

 それでも私は受け入れる。確かに私にあるのは祈りよりも怒りだ。この鶴に乗せて、この長崎の空に落とした物と同じ物を、米国の空に落としてやりたいと思っているのだから。

 激しい炎に焼かれた醜い指が折る醜い鶴。

 その心に流れ込むのは、無垢な魂を持つ子供たちのメッセージ。

 私はまた、濡れない涙を指で拭った。

 結局私が折った鶴は七羽だけ。彩り豊かな千代紙の中から、白と黒だけを選び折った鶴は、私が偏愛する家族ひとりひとりの元へと流した。

 生家でもあった小さな本屋は良く燃えた。夜になっても燃え続けた。戦争へと向かう心を植え付けるための本たちは、いつまでも燃え続けた。

 私の原点であった本屋は、悪魔の館。そう判断されたに違いない。

 だが、今なお私だけが生かされている理由がわからない。

 ある神父は私にこう言った。

「恨む心が晴れるまで。茂木さんの心がそれを待っているのでしょう」

 彼は、恨む心が誤りだと決め付けなかった。恨む心が悪とも決め付けられなかった。だか、それに囚われるのは正しい道ではないとだけ示された。

 私はまた来年も、この醜い指で鶴の翼を広げるのだろうか。あれから八十年を目前にしても。

「醜かとは、この指だけでよか……」

 未来も、子供たちも、鶴も、美しくあって欲しい。

 まだ私の体内に埋まる本屋のかけらが、ぐずりと動いた。

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汚された指先 西野ゆう @ukizm

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