無名夜行 観測史上最大の危機

青波零也

観測史上最大の危機

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 そして今、ディスプレイに映し出されるのは、ファンタジーRPGの探索地点のような、もしくは冒険映画の一幕のような、石造りの遺跡だった。

 壁の表面に刻まれた痕跡を見る限り、築かれてから遥かな時を経ていると思われ、一体、誰がどのような目的で築いたものなのか、興味深く思う。

 とはいえ、『異界』の事物を正確に認識するのは極めて難しい。今の私にできるのは、ディスプレイに映し出される『生きた探査機』Xの視界から推測を重ねることだけで、しかもその推測は私自身が持つ知識や常識に縛られたものだ。

 結局のところ、『こちら側』の私が『異界』を本当の意味で理解することはできない――、そんな、諦めにも似た思いがよぎらないでもない。

 それでも私は、我々は観測をやめることはないだろう。

 国からの要請ということもあるが、何よりも、無限大に広がる未知の領域に惹かれ、知りたいと願わずにはいられない我々自身のため、試行をやめるわけにはいかない。

 かくして、Xは今日も淡々と観測を続ける。サンダル履きの足で石の床を踏みしめ、窓一つないというのに不思議と柔らかな光に包まれている遺跡を、ゆっくりとした歩調で巡っていく。

 ひとたび肉体と意識を切り離して『異界』に潜ってしまえば、『こちら側』からXの意識に干渉することは不可能だ。故に『異界』での行動、判断はX自身に委ねられるわけだが、Xはいかなる状況下でも私からの命令を忠実に遂行する。できる限り『異界』の風景をその目に焼き付け、わずかな音色にも耳を澄ませ、自らの体験をあますところなく我々に伝えようという努力を怠らない。

 まだ、Xというサンプルを運用し始めてから『潜航』の数を重ねているとは言いがたいが、既に私はXに対して一定の信頼を寄せつつある。

 感情表現が極めて希薄で、こちらから要請しない限り口を開くこともないため、何を考えているのかさっぱりわからない人物だが、少なくとも我々の前での態度、そして『異界』における行動に問題はなく、それどころか限りなく理想的だ。

 他のサンプルがXと同じことをできるかといえば、おそらくは否。

 つまり、私はきっと運が良かったのだろう。潜航装置を用いた『異界』探索を決行するにあたり、一人目で理想のサンプルを引き当てたのだから。

 依然似たような景色を映し続けるディスプレイから、寝台の上に横たわる空っぽのXの肉体、そしてその肉体と接続されている潜航装置に目を向ける。潜航装置は、見た目だけで言えば、金属のラックにぎっしり収まり、無数のケーブルに繋がれたサーバーマシンだ。市販のサーバーマシンのガワを使っているので、そう見えるのは当然なわけだが。

 ただし、中身はまるで別物であり、大きく分けて二つの機能を有している。『こちら側』に近しい『異界』を自動で検索して位置を特定し、その突入口を開く機能。そして、人体を接続することで肉体と意識を一時的に分離し、意識にかりそめの実体を与えて『異界』に送り込む機能。この二つの手続きを経て、『潜航』は初めて実現できる。

 とはいえ、それを一体どのようにして実現しているのか、実のところ私はその全てを説明することはできない。『異界』研究の先人たちの知識と技術、そしていくらかの偶然によって生み出された巨大なブラックボックス、それがこの潜航装置だ。装置の仕組みを九割方把握しているのは、プロジェクトの中でもエンジニアを務めるスタッフただ一人なのだが、その彼が、潜航装置のコンソールを眺めながら言う。

「リーダー、ちょっといい? ちょっと意識体から送られてくる情報にノイズがあって。解析手伝って」

「わかったわ」

 前述の通り、潜航装置は不可思議な技術と偶然の結晶だ。エンジニアでさえ、「全て」を把握できているわけではない。言ってしまえば、現在もXという実験台を使ってその安定性と更なる可能性を確かめている段階といえる。Xの了承の上の試行ではあるが、もし自分がXの立場であれば、果たして素直に頷けただろうか。

 ともあれ、イレギュラーが発生しているというならば、その原因を突き止める必要がある。席を立ち、そちらに向かおうとして、

 思いっきり、足を取られて転んだ。

「リーダー、何やって……、あっやべっ」

 エンジニアの素っ頓狂な声に、床に転がったまま顔を上げ――、体を打った痛みも忘れるほどに、血の気が引く。

 潜航装置が、停止している。絶えず点滅していたはずのランプのほとんどが消灯し、部屋中うるさいまでに鳴り響いていたファンも、すっかり沈黙している。Xの観測状況を絶えずこちらに伝えていたはずのディスプレイとスピーカーだって、さっぱり機能していない。

 怖くて自分からは仔細を確認できないが、何が起こったのかは嫌でも理解できる。どうやら、立ち上がった際、床にぐちゃぐちゃに張り巡らされていたケーブルに足を引っかけてしまい、それが、こともあろうに潜航装置の電源ケーブルであったらしい。

 前々から、ぐちゃぐちゃのケーブルが床に剥き出しになっているのは怖いな、と思っていたし、ここまで盛大に転ばないまでも、結構な頻度で躓いていたのだが――、まさか、そんな。

「あー! だから早くケーブルカバーつけた方がいいって言ってたんすよ! ただでさえリーダーそそっかしいんですから!」

「今までそんな暇なかったでしょ? 言うくらいなら自分でやんなさいよー」

 プロジェクトの新人が声を上げ、エンジニアが睨みつける。とはいえ不毛な言い争いに終始するような二人ではなく、床に転がったままの私をよそに、てきぱきと潜航装置とXのチェックを開始する。

 潜航装置はXの肉体と意識を切り離すものであるが、同時にその二つが完全には分離しないよう目に見えない命綱で結びつけ、手繰り寄せて『こちら側』に引き戻す機能を持つ。つまり、潜航装置が完全に動きを止めてしまえば、Xの肉体と意識がバラバラになり、そのまま意識が『異界』から帰還できず、残された肉体はやがて生命活動を停止する。仮に生命だけ維持できたとしても、状態としては脳死同然ということだ。

 やっとのことでのろのろと起き上がり、未だ足に絡みついていた、ひときわ太いケーブルを見る。ああ、どこからどう見ても電源ケーブルだこれ。

 X。何を考えているのかはさっぱりわからないが、少なくとも現時点においては限りなく理想に近い異界潜航サンプル。果たして彼は無事なのか。それとも……。

「オーケイ、予備電源に切り替わってる。いくつかエラー吐いてるけど許容範囲、意識体の追跡は継続中」

「Xの肉体も問題なさそうっす。引き上げます?」

「そうね、今から主電源に切り戻すのは難しそうだし。リーダー、引き上げシーケンス走らせるけどいい?」

「……ええ、お願い」

 ああ、本当に、自分は何をしているのだろう。

 思いながら、重たい電源ケーブルを手に取る。その間にも、我がプロジェクトが誇る精鋭たちは、手際良くXの引き上げ作業を進めていた。

 

 

 結論から言えば、引き上げ作業は問題なく完了した。突然の停電などのアクシデントに備えた予備電源が、その力を初めて発揮した瞬間であった。これも、「もしも」の可能性を考えて潜航装置を構築していたエンジニアの技術力の賜物であろう。

 遺跡の『異界』から引き戻されたXの意識が正常に肉体に収まったことを、潜航装置のコンソールで確かめる。それから三十秒ほどの後に、Xが突然はっと瞼を見開いた。

「おかえりなさい、X。気分は問題ない?」

 Xは許可を出さない限りは自分から話すことはないため、特別Xの意見を求めない場合は、イエスかノーで答えられる質問を投げかけることにしている。

 私の問いに、Xは小さく頷いてイエスの意志を示す。しかし、どうも落ち着かない様子で視線があちこちに泳いでいる。いつもの『潜航』と様子が違った、それは既にXも察しているらしい。

「ええと……」

 一体、Xにこの一連の状況をどう説明すればよいだろう。そう思っていると、横からエンジニアが声を上げる。

「いやー、リーダーってばとにかくおっちょこちょいだからさぁ、もう大変!」

 私が口を開く前に、エンジニアは滔々とXに今回の経緯を語っていく。それはもう、赤裸々に。何一つ、包み隠すことなく。もうちょっと、言い方ってものはないのかと思うくらいに。

 かくして、エンジニアの話が終わるころには、Xの視線は真っ直ぐ私に向けられていた。

 ああ、ものすごく、もの言いたげな目だ。何一つ言葉にしていないのに、いつも通りの無表情に見えるのに、これほどまでもの言いたげなXは初めてだ。

「X、……発言を許可するけど、何か、言いたいこと、ある?」

 恐る恐る問いかけてみる。どこまでももの言いたげなX、その少々ピントのずれた視線から目を逸らすわけにはいかなかった。今回の件に関しては、尚更。そうして、どれだけの時間が経過しただろう、そろそろいたたまれなくなってきた頃に、

「私は」

 ぽつりと、低い――けれど、不思議とよく通る声が、Xの薄い唇からこぼれる。

「どのような扱いを受けても、構いません。そういう、取り決めなので。命を落とす可能性も、理解は、しています」

 ただ、と。重々しく告げたXは、ゆるゆると首を横に振る。

「そちらの不注意による命の危険は、想定外ですよ」

 それはそう。それはそうだ。

 もはや、私は「ごめんなさい」と深く頭を下げるしかなかった。

 

 

 なお、翌日には床一面を覆うケーブルカバーを用意し、本来『潜航』を行うはずだった一日を設置に費やしたのは言うまでもない。

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