ペトリコールの幽霊

双 平良

ペトリコールの幽霊

 雨の日になると、その女はそこにいた。


 いつもの通り、貸本屋の店番をしていた白坂しろさかは、店内で初めてその女を見た時、驚きのあまりに勘定場の椅子から転げ落ちた。

 女は、くすんだ青色のデイドレスを着た若い婦人だった。

 薄い金の髪をシニヨンで結っている。近頃は洋装で出歩く人も増えたが、それにしても華族でもなければデイドレスなど着ない。さらに金髪となれば、異人であるのは確実であるが、白坂がこの街で異人を見たことはなかった。都会ならいざ知らず、電気もやっと通ったほどの田舎だ。白坂が通う隣町の大学でもまだ見たことない。

 それだけなら珍しい客で済ますところであるが、見過ごせない問題があった。

 女に足が無かったのである。ちょうど膝あたりから下が無い。開店中は開け放している入口向こうの往来と雨模様が見えている。

 さらに言えば、見えている膝上から頭も透けていた。霧か霞の塊のようだった。

 それを初めて視界に入れた三カ月前、白坂の脳は現実を拒否し、腰を抜かしたのだった。

 この事件をすぐさま店主の女将に訴えたが、女将にはその女が見えないらしい。

 白坂がその女を認識した以降、彼女が現れる度に客にもそれとなく訊いたが、答えは同じだった。

 しつこく尋ねれば、自身の頭の心配をされかねない上に、貸本屋を追い出されてしまえば死活問題である。せっかく貸本屋の店番をする代わりに、二階の一室を無料ただ同然で間借りしているのだ。勉学に励む貧乏学生としてはこの条件は絶対に手放せなかった。


 そして、今日も女はそこにいる。

 店の入口、白坂が座る奥の勘定場から見て右の端、天井まで所狭しと敷き詰められた本棚に向かって佇んでいる。怖くて近くに寄れないが、何事かを呟いている声が聞こえることと白坂以外には見えないこと以外は、特に害はない。

(いつも雨の日に出るんだよなあ)

 観察して分ったことを彼は考えた。午前はうだるような暑さで客足は少なかったのだが、午後に曇り出したと思ったら降り出した雨は、店前の大通りからも人の気配を消した。店の中には雨の匂いが充満し、どこからともなく現れた洋装の女だけが立ち尽くしている。近頃はそれに合わせるように、紙魚しみが増えた。女が向かっている本棚に群がる紙魚は雨が降る度に増えている。最近は、棚の形が見えないほどに群がっている。

(あれも誰にも見えていない……)

 白坂は背中に冷たいものが走るのを感じた。女――幽霊には慣れたが、紙魚には未だに慣れなかった。数ミリのそれは遠目でみれば白い魚のようにも見えたが、近くで見ると見紛うことない虫だった。うじゃうじゃと秩序無く這いまわるそれらは、白坂に水辺の大きな石の裏にびっしりと張り付いた水生の虫を連想させた。

 古い紙に紙魚はつきものだが、そのあたりは店主がしっかり掃除や虫干しなどをしており、白坂が知る限り、買い付けた当初からあるもの以外で、虫食いを起こしている本を見たことはなかった。

 すでに虫食いをしている本は洋書に多かった。海を渡ってきたであろうそれらは、長い船旅で管理が悪かったのだろうか。前の持ち主の管理が悪かったのかもしれない。

(いずれにしても、俺にはどうしようもできないことだ)

 平穏な学生生活の維持のために見て見ぬふりを決め込んだ白坂はあくびをした。

 ばたばたと雨が瓦屋根を叩き、店先の軒を伝って、滝のように地面に落ちていく。雨量のわりには外は明るい。通り雨なのだろう。

「すみません。これを買い取りたいのですが」

 唐突にかかった声に、白坂は椅子からまた転げ落ちそうになった。

 勘定台にしがみついて辛うじて持ち直すと、声をかけてきた者に彼は向き合った。

 いたのは、書生風の青年であった。白い立ち衿のシャツに灰色の着物、黒い袴がまるで喪服のようだった。

「大丈夫ですか?」

 青年は白坂が転びそうになったのを目ざとく見つけて、声をかけてきた。

「は、はい。おかまいなく……!」

 うろたえながらも返事はするが、白坂の目は客の後ろ、肩越しに釘付けだった。例の幽霊が客について来ていたのだ。相も変わらず足は無く、うすぼんやりと浮いている。そして、客が持ってきた一冊の本には見えないあの紙魚が群がっていた。

 貸本屋の中には売却をしない店もあるが、白坂の店では求められれば本を売る方針であった。売った本の名前を記録し料金をもらえば、なんら問題がないのだが、どこから現れるのか大量の紙魚のせいで、本の表紙さえ白坂には読めなかった。

「もしかして、貴方、これが見えています?」

 客が発した言葉に、はっと白坂は顔を上げた。

 そこにきて、白坂は客が男ではなく女であることを知った。服は白坂と同じような書生姿ではあったが、絹のような真っ直ぐな黒髪をうなじでまとめ、きめ細やかな白磁の肌に、化粧気がないのに淡く紅をひいたような薄く形が良い唇、少し吊り目の瞳をしたその人物は、どう見ても女性であった。深緋こきひ色の中華風の結び飾りの耳飾りが洋装と和装の組み合わせには不釣り合いのように見えて、異様に似合っている。

 男装の麗人とも言っても過言ではない彼女は、白坂が驚く様子も気にせず、本を持ち上げる。やはり紙魚が群がり、背後では女が何事かを呟いている。一瞬、群がりそびれた大群の隙間から本が見えた。薄暗い臙脂色の洋書のようだった。

「あんた……。いや、君はそれが何か、知っているのか? 雨の日になるといつも!」

「これは普通の人には見えないものなのですが、貴方、ピント焦点が合ってしまったんですね」

「焦点?」

「ええ、雨の日などは境界があいまいになりがちなので、感度が高い人は見えることがあります」

 それが貴方です。

 白坂には何を言っているかよくわからなかったが、彼女の玲瓏な声には不思議と聞き入る説得力があった。

「これは誰かの“想い”が詰まった本だったのでしょう。例えば後ろにいる彼女とかの」

 ちらりと麗人は後ろを見る。女は相変わらずそこにいる。初めて間近で見た彼女は遠くで見た時よりは鮮明に見えたが、髪は掻き乱れ、長く垂れ下がった前髪の間からは虚ろな瞳が本をずっと睨みつけている。一体何があったのか、呟き声も異国の言葉で、白坂には見当がつかなかったが、ぞわりと悪寒が走って止まない。

「実際どんな想いがあるのかは、この本を解読しないとわかりません。ただ、海を渡ってまで募る念はさぞかし重いのでしょう」

「じゃあ、この虫も……」

 初めて物事を共有することができた相手に、白坂はここぞとばかりに訊ねた。

「この蟲は想いを喰う紙魚。想いが強ければ強いほど群がってくる。人が憑くほどの想いならば、さぞかし美味しいのでしょうね」

 彼女は驚くこともなく続けた。

「まずはこいつらをすべて落として、修復してみないことには、この本がどんなものだったのか分からないのですが。そして、たっいへっん、その作業が面倒なのですが」

 手にまで群がる紙魚を気にもせず、苦笑いをする彼女に白坂もつられて苦笑いをした。背には冷や汗がじわじわと流れている。白坂は自分でもどうしてか分からなかったが、今すぐここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。でなければ、また腰を抜かしそうだ。

「たまたま立ち寄った町でしたが、良いお店を見つけました。貴方は店主さんですか?」

「いや、俺は臨時職員というか……住み込みで働いてるというか……」

「なら、日によってはいらっしゃるんですね?それはよかった!」

「どういう意味……だ?」

「私、こういった曰くのある本を収集するために、貸本屋などを覗いて回っているのです。しかし、一人でこういった珍しい書籍を収集するのは限界があります。なので、見える人が店員にいると大変ありがたい」

 彼女は嬉しそうに着物の懐から、一枚の名刺を差し出した。

 そこには、『本の修復屋・びぶろふぃりあ』とだけ、書かれていた。

 ビブロフィリア。

 愛書家と呼ばれ、読書を愛する読書家と違い、書籍そのものを愛し、収集する者を意味することを何かの本で読んで、白坂は知っていた。

「裏に連絡先が書いてあります。でしたらご連絡ください」

「……」

「この本はどんな味がするのか楽しみです」

 彼女はにこりと笑うと、本の上の紙魚たちを片手で払った。

 ざっと一斉に紙魚が除けられ、店の影に消えていく。

「さあ、店員さん。お代はいくらですか?」

 何事もなかったかのように尋ねる彼女に白坂は声が出なかった。

 いつの間にか後ろの女幽霊も紙魚も消えている。


 雨はもう止んでいた。

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