偽装親友

朱宮あめ

親友の正体


 雑踏の中を歩きながら、桜木さくらぎ夢芽ゆめは首に巻いていたストールを巻き直した。

「……寒」

 今日から四月だというのに、街の風はまだまだ冷たい。

 東京都渋谷区、渋谷駅前。大きな電光掲示板に映るのは、今人気の女優や歌手たち。ぱらぱらと忙しなく変わっていく広告のひとつに自分の姿を見つけるが、夢芽は素知らぬ顔で交差点の人混みを縫うように歩いていく。

 ぱっと画面が切り替わり、軽やかなメロディが流れ出した。近日千秋楽を迎える舞台のCMだ。そこによく知る顔を見つけて、夢芽は足を止めた。掲示板を見上げた先に映っているのは、夢芽の恩人であり初恋の人――遊佐ゆさ大樹ひろきだった。

 ちくり、と夢芽の心臓が小さな痛みを訴えた。

 

 夢芽が芸能界に入ったのは、中学二年生の時だ。

 学校からの帰り道、唐突に、知らない男性に役者にならないかと声をかけられたのがきっかけだった。その男性が遊佐大樹だった。

 舞台役者を目指す大阪の高校生だった大樹は、夢芽がこれまでに出会ったことがないほど美しく、優しい人だった。夢芽は大樹を信じ、共に上京した。そして舞台役者としてデビューして間もなく、二人はすぐに話題となった。

 二人は舞台だけでなく、ドラマや映画など、どんどん活動の幅を広げていった。


 しかし、あれからもう三年が経った今。二人の進む道は分岐し、ぱっくりと別れてしまっている。大樹が事務所を移籍した今はもう、ほとんど顔も合わせていない。

 その原因は、多分夢芽にある。夢芽があの日、二人を唯一繋いでいた絆を、あんな形で壊してしまったから――。


 夢芽は現在、東京都千代田区の芸能科高校に通う高校二年生だ。職業が女優という一風変わった肩書きを持つ夢芽は、プライベートではただの人見知りで、地味な女の子だった。ほとんど通うことのない学校に友達なんて一人もいないし、京都から一人で上京してきたわけだから、昔からの友達なんてものもいない。

 ただ、一人だけ――。

「夢芽ちゃん、お疲れ様」

 女性にしてはほんの少し低い、しっとりとした重厚感のある声が、人混みに埋もれていた夢芽を呼ぶ。夢芽はハッとして振り返った。

「セツナちゃん!」

 夢芽にはたった一人だけ、親友と呼べる人がいる。

 視線の先、人の海の向こうには、一人の女性が立っていた。七海ななみセツナ。すらりと背が高く、髪型はウェービーなセミロング。無地の白ティーシャツに赤のロングスカートというシンプルな格好だが、それでも美しい彼女の魅力を引き出すには十分過ぎる装飾だった。

「レコーディングが早く終わったから、カフェでも行こうかなと思って歩いてたら、夢芽ちゃんがいるんだもん。びっくりしたよ。どうしたの?」

 夢芽が見ていた電光掲示板を見て、セツナは首を傾げた。

「この舞台って……」

 セツナが口を開くと同時に、映像が切り替わった。今度画面に映し出されたのは、真っ赤なドレスに身を包んだ美しい女性――セツナだった。

「あ、セツナちゃんだ。新曲のプロモーション?」

 夢芽はさりげなく話をすり替えた。

「あ……うん。そうだね。もう流れ始めたんだ」

「それよりセツナちゃん、今からカフェ行くの?」

「うん。そうだ、良かったら夢芽ちゃんも一緒に行かない?」

「うん! 行く!」


 現在大学二年生のセツナの職業は、歌手である。デビューは夢芽より少しだけ遅かったが、デビュー曲がドラマ主題歌として大ヒットを記録。さらに美しい容姿とは裏腹な、重厚感のある低音の歌声がギャップ萌えと話題となり、瞬く間にこの国の歌姫となった。

 そして、そのドラマは夢芽が出演したもので、その共演がきっかけで二人は知り合った。

 夢芽より三つ年上の彼女は、飾らず気さくでおまけに面倒見もいい。なにしろ、人見知りの夢芽でもすぐに打ち解けることができたくらいだ。

 夢芽は、知り合ってすぐにセツナのことが大好きになった。


「じゃあ行こうか」と、セツナが夢芽の手をさりげなく引く。当たり前のように引かれた手に、夢芽は少しだけくすぐったさを覚えた。セツナの手は女性にしては大きく、少し骨っぽい。そのせいなのかは分からないが、夢芽はいつも、セツナに触れられるとドキドキしてしまう。

「セツナちゃんっていつも私の手握ってくれるよね」

「ごめん、嫌だった?」

 セツナが不安げな顔で振り返る。夢芽は慌てて首を横に振った。

 もちろん、嫌なわけではない。

「ううん。そうじゃないけど……本当に面倒見がいいなぁって。私って、そんなに危なっかしいかな?」

「あ、う、うん。そうだね。なんか、心配になっちゃって」


 セツナはたまに、焦っているような、はたまたなにかを誤魔化しているような笑みを浮かべることがある。けれど、夢芽はそれにわざと気付かないふりをしている。本人が言いたくないことを無理に聞くのはよくない。もしかしたら、今の心地よい関係を壊してしまいかねないから。


 夢芽はセツナの柔らかなぬくもりに包まれた手に、ほんの少し力を入れた。すると、セツナがしんとした声で言った。

「……今日さ、夢芽ちゃんの部屋泊まってもいい?」

「いいけど、部屋隣なのに?」

 夢芽とセツナは同じマンションで、さらに部屋は隣同士だ。夢芽が住んでいたマンションにセツナが越してきて、たまたまお隣同士になったのだ。

「話したいことがあるんだ」

 珍しく視線を泳がせるセツナに、夢芽は疑問を抱きながらも頷いた。

「分かった。いいよ」

 そして、二人はカフェでたっぷり和んだ後、自宅がある港区のマンションへ帰った。


 夢芽の部屋は、港区の高層マンションの一室だ。全体が白で揃えられていて、さらに角部屋のため、二面がガラス張りになっていて陽当たりもいい。

 部屋に入ると、セツナは慣れたようにソファに座り、テーブルにあった雑誌を広げた。

「あ、これってもしかして、この前特集組んでもらったやつ?」

「あ、そうそう」

 セツナが見ているのは、結婚雑誌の表紙だ。そこには『大親友で話題! 七海セツナと桜木夢芽の仮装ウエディングプラン大公開!!』という大きな見出しとともに、男装をした花婿役のセツナとウエディングドレスを着た花嫁役の夢芽が写っている。背が高く、中性的な顔立ちのセツナは男装が良く似合う。


「この撮影、楽しかったよね」と、セツナはうっとりとした表情で、写真の中の夢芽を指でなぞった。

「そうだねぇ。結婚って全然イメージ湧かないけど、あんな感じだったらちょっと憧れるかも」

 ウエディング特集のグラビアは、二十ページを超えていた。

 ラフな格好で、部屋で二人で寝転がっている写真や、婚姻届を書き込む写真、チャペルでの写真や、ブーケトスの写真まで、新婚ならではの写真が掲載されている。

「いいなぁ、結婚か……」

 セツナがぽつりと言うと、夢芽は手元の雑誌をじっと見下ろした。そこには、幸せそうな顔で婚姻届を書く理想の姿がある。

「……私には縁遠いものかな」

 夢芽は雑誌から目を逸らし、キッチンに立って珈琲の準備を始めた。


「どうして?」

 セツナはキッチンと向かい合ったカウンターに腰を下ろすと、頬杖をついて夢芽に尋ねた。

「だって、恋とかよく分からないし。これまで恋人だっていたことないし」

 多分、私が人を好きになることはないと思う、と、夢芽は淡々とした口調で言う。

「そんなの分からないよ。夢芽ちゃん可愛いし、お嫁さんにしたいって思ってる人、きっとたくさんいるよ」

 セツナは言いながら、優しい表情で夢芽を見つめた。夢芽は眉を下げ、想像してみるけれど、やはり首を横に振った。

「……好きになったとしても、私は自分から声をかけられるタイプじゃないから。多分、セツナちゃんが声をかけてくれなかったら、セツナちゃんとだってこんなふうになってなかったと思うし」

 そう言うとセツナはなにも言わず、じっと夢芽を見つめた。夢芽はなんとなく気まずくなって、目を逸らした。

「……セツナちゃんこそ綺麗だし人懐っこいし、モテるでしょ。ねぇ、好きな人とかいないの?」

 沈黙を破るように、夢芽は無理に話題を作ってセツナに尋ねた。

 けれど、セツナは夢芽から視線を逸らすと一言、「そんなことないよ。私も臆病者だもん」と言って、それきり黙り込んでしまう。

 からからと、豆を挽く音だけが室内を満たした。

 気まずさが滲む。友達が少ない夢芽は、こういうときの対処法が分からない。ただ、困惑した。


 しばらくして、珈琲の香ばしい香りが漂い始めた。

「どうぞ」

「……あ、うん。ありがとう」

 セツナはにこりと夢芽に微笑むと、さっそくカップに口をつけた。艶やかな形のいい唇に、珈琲が細く吸い込まれていく。

「やっぱり、夢芽ちゃんの淹れる珈琲は美味しいなぁ」

「あ、そうだ。チョコもあるよ。食べる?」

「うん! 食べる!」

 いつも通りの様子に戻ったセツナにほっとしつつ、夢芽はチョコレートを取ろうと棚を探る。一番上の棚にチョコレートの箱を見つけるが、手を伸ばしてもなかなか届かない。

 背の低い夢芽が苦戦していると「これかな?」と、セツナが背後から棚にあったチョコレートの箱を取った。

「あ、ありがと……」

 突然ふわりと香ったセツナの柔軟剤の匂いと、背中についた体温に、夢芽はどきんと胸を鳴らした。

「ん。夢芽ちゃんちっちゃいからね。こういうのは私に言ってくれれば取るよ」

「うん……」

 さらりとしたその対応に、夢芽は小さく頷く。

「わっ! これめちゃくちゃ美味しそうー!」

 セツナはチョコレートの箱を見ると、途端に嬉しそうな声を上げた。

「新作みたいなんだよね」

「そうなんだ? いただきまーす」

 甘いもの好きなセツナは、さっそくチョコレートをぱくりと食べた。


 しかし。何気なくパッケージを見た夢芽は、小さく声を上げた。

「あ、これお酒入り……セツナちゃん、大丈夫?」

 成人しているとはいえ酒に弱いセツナが心配になり、ちらり彼女を見ると、案の定セツナは頬をほんのりと赤くしていた。

「夢芽ちゃん……」

 声が甘いし、瞳がとろんとしている。これはもう、確実にでき上がっている。

「わ、もう酔ってる……!? とりあえずカウンターは危ないから、ソファに行こう?」

「んー……」

 夢芽はセツナの腕を引き、ソファへ誘う。ふにゃふにゃとしたセツナは思ったよりも重く、夢芽はふらふらしながらなんとかソファまで運んだ。


 ――が。

 セツナはソファに腰を沈めると、なぜか夢芽の腕を強く引き、自身の腕の中に閉じ込めた。

「わっ!」

 突然加えられた力にバランスを崩した夢芽は、為す術なくセツナの腕の中に飛び込んだ。

「ちょっ! いきなり危ないよ」

「ねぇ夢芽ちゃん……私のこと、好き?」

 酔っ払っているためか、耳元で囁くセツナの声は掠れ、吐息混じりでやけに色っぽい。

「え、す、好きだけど……?」

 戸惑いながら答えると、セツナはじっと夢芽を見つめる。

「本当?」

「……う、うん?」

 いきなりなんだろう、と思っていると。その直後、セツナはとんでもない言葉を口にした。

「私が、男だって言っても?」

「うん……って、え!?」

 思わずセツナをバッと見る。鼻先の触れそうな距離で、二人の視線が絡み合った。いつもは気にならないはずの心臓の音が、今はやけに大きく感じる。

「え、なに、どういうこと!?」

 夢芽はひどく困惑した。

「……セツナちゃん? いきなり、なんの冗談?」

「冗談じゃないよ。私、本当は男なんだ。夢芽ちゃんも、なんとなくおかしいなって思うこと、あったんじゃない? 私が女として売り出したのは、女装してた方が綺麗だし、インパクトもあって売れそうだからってプロデューサーに言われたから。……その証拠にほら、ね? 胸だってないでしょ?」

 セツナは夢芽の手を覆うように掴むと、自身の胸に押し当てた。身構えつつも思っていた感触がなく、夢芽は目を瞠る。

「……う、ほ、本当だ……でも、どうしてずっと黙ってたの? ……やっぱり私が信じられなかった?」

 心が急に冷めていく。口にした言葉が震えた。

 親友だと思っていたのは、夢芽の方だけだったとしたら。もしセツナに、信頼できなかったから、なんて言われたら。

「だって、夢芽ちゃんって人見知りの上、男の人も得意じゃないでしょ。それにもし、私が男だってバレたら、事務所的にも会わせてもらえなくなるかもと思って」と、セツナはどこまでも夢芽のことを考えていた。

 予想していた答えではなかったことにホッとして、夢芽は顔を上げた。

「じゃあ、言わなかったのは信頼してなかったわけじゃなくて……」

「当たり前だよ! ……本当は、ずっと騙してるようで申し訳ないなって思ってたよ。でも今さらだったし、なかなか言う機会もなくて……」

「じゃあ、私のファンってことは本当?」

「うん、もちろん。高校生の頃から大好きだった。そもそも夢芽ちゃんと知り合いたくてこの業界に入ったんだから」

「私と知り合いたくて……って、ちょっと待って!?」

「う、うん!?」

 いきなり大きく叫んだ夢芽に、セツナはぎょっとする。

「待って待って……だって、今まで手とか……」


 夢芽は呆然とした。脳裏に今までのあれこれが過ぎっては消えていく。食べ物を半分こしたり、同じペットボトルのジュースを飲んだり。手を繋いだり、一緒にトイレに行ったり……。

 それまで、女同士だと思ってしてきた何気ないスキンシップ。けれど、今となってはそれらの行為は付き合ってもいない男女がするものでは、決してない。夢芽は頭の中が真っ白になった。

「き、今日だって手繋いだり……」

 青ざめていく夢芽を見て、セツナも泣きそうな顔になる。

「夢芽ちゃん、私と手を繋ぐの……やっぱり嫌だった?」

「嫌とか、そういう問題では……」

 今にも泣き出しそうなセツナに、夢芽はハッとする。

 セツナだって騙したくて騙していたわけではないし、そもそもこれは彼女が決めたことではなく仕事の都合だ。本当のことを言うかどうかも彼女なりに悩んだはずだし、夢芽がとやかく言えることではない。それに、セツナが何者だろうと、夢芽はセツナの親友だということに変わりはないはずだ。

 夢芽はセツナの手を取った。

「……セツナちゃん、泣かないで。嫌いになんて絶対ならないし、ただちょっと驚いちゃっただけ。ほら、今まで私、セツナちゃんが女の子だと思って接してきちゃったから、距離感とかいろいろ申し訳なかったなって……」

「本当? 私のこと、好きなまま?」

「もちろん。セツナちゃんは、これからも女の子として売っていくんだよね?」

「うん。そのために脱毛とか、いろいろしてきたし」

「そっか……それなら大丈夫。絶対誰にも言わないし、これからも応援する」

「本当?」

「もちろん! 私たちは、これからもずっと親友だよ」

 夢芽の言葉に、セツナはぴくり、と肩を揺らした。

「あの、そのことなんだけど……」

「ん? まだなにかあるの?」

 夢芽はぱちぱちと瞬きをした。

「……えっと」

 セツナは苦笑を浮かべて、なにやら言い淀む。

「……なあに? もう大抵のことは驚かないし、そんなかまえなくても」

「本当に? 絶対怒らない?」

「怒らないよ。なに?」


 尋ねると、セツナはソファの上に正座して、まっすぐに夢芽と向き合った。夢芽も思わず姿勢を正す。

「……確認なんだけど、夢芽ちゃんは私のこと好きなんだよね?」

「う、うん……?」

「そして、恋人もいないし結婚の予定もないんだよね?」

「……うん」

「さっき、私が男だとしても、好きって言ってくれたよね?」

「…………」

 嫌な予感がしてきた。

「ちょっと、聞くのやめようかな……」

 思わずくるりと背中を向けようとするが、セツナの手によって防がれてしまう。セツナは半ば強引に夢芽を膝の上に抱き上げ、

「夢芽ちゃん」

 甘い声で、夢芽を呼んだ。

「わっ!?」

 セツナは、猫撫で声で夢芽に擦り寄る。夢芽が少しでも動けば、キスできてしまいそうな距離だ。夢芽は顔を真っ赤にして、慌ててセツナの胸を手で押し返した。

「ちょちょ、近いよ。もうダメだって、こういうスキンシップは……」

「ダメじゃない。大丈夫だよ」

「なにが」

 少し苛立った声で尋ね返すと、セツナは涼し気な笑顔を浮かべて、言った。

「だって私たち、結婚してるし」

「……は?」

 夢芽はぽかんと口を開けたまま、硬直した。

「結婚……って、え?」

「実は、これなんですが」と、セツナは手元にあった雑誌の一ページを開いて夢芽に見せる。そこに大きく写っているのは、夢芽とセツナが仲良く横座りして、婚姻届を書いているショット。

「……うん? これが、なに?」

「このときに書いた婚姻届ね」

「うん」

「実はあれ、区役所に出しちゃったんだよね」

 一瞬、時が止まったかのように部屋の中が静まり返った。

「!?」

「えへ」

 目玉が飛び出そうなくらいに目をひん剥いたのは、夢芽の十七年間の人生でも初めてのことである。

「ど、どういうこと!?」

「そのままの意味だよ。つまり私たち、夫婦だったりして」

「ふ……」

 一瞬にして、顔面から血の気が引いていく。

「婚姻届!? 区役所!? え!? 婚姻届って、二人揃わなくても出せるの!?」

「うん」

「……証人は?」

「……うちのプロデューサーと夢芽ちゃんのマネージャーが酔っ払った隙に……こう、ちょいちょいと」

「…………」

 夢芽は頭を抱え、回らない頭で必死に考える。

「冗談……だよね?」

「本当です」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。

「さすがに困るよ。結婚なんて……」

 セツナが突拍子もないことをするのはよくあることだし、慣れていたつもりだったけれど。今回ばかりはさすがに理解が追いつかない。

「夢芽ちゃん、あのね。こんなやり方になっちゃったけど、私本気だよ」

 セツナはまっすぐに夢芽を見つめ、口を開く。

「夢芽ちゃんのこと、本気で好き。女の子として、誰よりも。だから、私にチャンスをください。もし一緒に生活してみて夢芽ちゃんがダメなら、頑張って諦める。……でも、もし夢芽ちゃんが少しでも楽しいって思ってくれるなら……私、本気で夢芽ちゃんと生きていきたい」

 セツナは真剣な顔で、まっすぐに夢芽を見つめて言う。夢芽は困ったように唇を引き結んだ。

「……い、いやいやいや。そんなの困るって……」

「好きな人いないのに、考えるのもダメ?」

「好きな人……」

 夢芽の脳裏に、ちらりと大樹の顔が過ぎる。

 夢芽は、大樹のことが大好きだった。だから、彼のそばにいたくて役者になった。大樹は夢芽に対していつも優しかったけれど、遠かった。夢芽が想いを告げなければ、もしかしたら今もそばにいてくれたかもしれない。けれど今、大樹はここにはいない。

 セツナに対しても、何度も恋心のようなものを感じたことはあった。けれど女同士だし、初めての親友だし、きっと勘違いだろうと思い込んだ。なにより失いたくなくて、ずっと気付かないふりをしていた。

「困る……」

 それなのに、こんなふうに頼まれてしまったら、夢芽に断る選択肢なんてなくなってしまうではないか。

「……私だって、セツナちゃんのことは大好きだよ。でも私……誰かとお付き合いした経験もないし、それこそ結婚なんて、全然イメージが湧かないよ」

 半分は嘘。でも、半分は本当だ。

「夢芽ちゃんはなにも心配いらないよ。ただ、そばにいたい」

「…………」

 それでもなかなか頷くことができず、夢芽は俯いた。しばらく悩んでいると、セツナはおもむろに言った。

「……夢芽ちゃんの中の一番が、大樹さんだってことは知ってるよ」

「!?」

 夢芽は思わずビュン、と音がなりそうなほど素早く顔を上げる。セツナは少しだけ寂しそうな顔で笑っていた。

「気付いてないと思った? ……分かるよ。ずっと見てきたんだもん。好きなんでしょ? 一緒に上京した大樹さんのこと」

「……大樹はただの同期だよ。それに、もう結婚してるし」

 そっと目を逸らして呟く。すると、セツナは夢芽を優しく抱き締めた。

「そういう問題じゃないでしょ。好きな気持ちは、そう簡単になかったことにはできないよ。無理やり抑え込もうとしないで」

 セツナの優しい声音に、夢芽の瞳にじわり、と涙が滲む。一度緩んでしまった栓は、もう引き締まることはなかった。

「でも……大樹はもう、どう頑張っても手の届かない人だから」

 大樹は結婚した。夢芽より歳上の綺麗な女優と。夢芽では、ダメだった。大樹は夢芽に、愛させてはくれなかった。

「……夢芽ちゃん。よく頑張ったね」

 セツナはとんとんと、まるで赤子をあやすように夢芽の背中を叩く。

「セツナちゃん……」

 夢芽はぎゅっとセツナの胸に抱きついた。

「大丈夫。私が忘れさせてあげる」

 セツナの声に、泣き止むどころか夢芽はさらに泣き出した。泣き止もうと頑張っても、涙が次々と溢れ出してしまう。

 

 しばらく泣き続け、ようやく涙が止まると。夢芽はゆっくりとセツナから離れた。

「夢芽ちゃん……」

 セツナが小さく夢芽を呼ぶ。

「……分かった」

 夢芽は真っ直ぐにセツナを見上げ、言った。

「……え?」

「お試しの結婚生活、してみるよ」

「ほ、本当に!?」

 セツナは信じられないとでも言うように、もともと大きな目をさらに大きく、丸くしている。

「うん。でも、もしどうしてもダメだって思ったら……」

「……そのときはちゃんと、頑張って諦めるから」

 まるで自分自身に言い聞かせるように、セツナは頷きながら言った。

「ありがとう、夢芽ちゃん」

 優しく微笑みかけてくるセツナに、なんとなく気恥ずかしさを感じた夢芽は、ふいっとそっぽを向く。すると、セツナは今度こそ強く夢芽を抱き締めた。

「あああ、もう! 夢芽ちゃん可愛い……!」

「わっ、ちょっと、セツナちゃん……いきなり近い!」

 突然強くなったセツナの匂いに、夢芽は思わず逃げる。

「え、ハグダメ?」

 しゅんと、あからさまに落ち込むセツナ。

「ダ、ダメじゃないけど……セツナちゃんはなんでもかんでもいきなり過ぎるんだって」

 すると、セツナはうーんと眉を寄せて考え込む仕草をする。

「……だって私、男だからさ。これでも結構我慢してきたんだよ? 目の前に好きな人がいたらキスだってしたいし抱き締めたいし。これまで手を繋ぐだけで、よく我慢できてたなって思うよ」

「えぇ……」

「ねぇ、夢芽ちゃん」

「な、なに……?」

「好き」

「もう分かったからいいよ」

「ダメ。好き」

「……うん」

 セツナの甘い声に、夢芽はくすぐったさを覚える。

「これからは毎日言うよ。少しでも夢芽ちゃんに意識してもらえるように」

「お、お手柔らかに、お願いします……」

「うん! あ、そうだ」

「ま、まだなにかあるの!?」

 夢芽は思わず身構えた。

「一応念の為に言っておくけど、テレビとか外ではこれまで通り親友として出ようね? お互いの仕事のこともあるし、夫婦っていうのは二人だけの秘密だよ?」

 セツナは悪びれる様子もなくそう言って、にっこりと笑った。その笑顔は、どう見ても確信犯だ。

「いきなり秘密が増え過ぎだよ!」

「ははは」

 文句を叫ぶ夢芽を、セツナは笑いながら優しく抱き締める。

「ごめんごめん」

 夢芽は頬をぷっくりと膨らませながらテレビをつける。ぱっと明るくなった液晶に、人気のアニメが流れている。

「……でもよかった。エイプリルフールの冗談にならなくて」

 呟いたセツナの本音は、アニメの音に紛れて夢芽にはよく聞こえない。

「なにか言った? セツナちゃん」

「ううん、なんでもないよ。それよりほら、もっとこっちおいで」

 セツナは笑顔で首を振り、夢芽を膝の間に閉じ込める。

 大好きな夢芽を膝の上に閉じ込めて、セツナは満足気に口角を上げる。すん、と息を吸うと、柔らかく甘やかな夢芽の香りがセツナを満たした。

「はぁ、幸せ」

 こうして親友同士だったセツナと夢芽は、ひょんなことから親友を偽装する夫婦になった。

 

 これは、誰も知らない、絶対に知られてはいけない人気女優と歌姫の密やかな物語である。


 

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