客船ナポロポリタン号の天使

ケンテイシケン

第1話

 私は幽霊船の中で座敷わらしのようにそこに棲み着いている天使。オペラ座の女優であるママの子供でもある。ママは豪華客船ナポロポリタン号のオペラ劇場で演技をする舞台女優。なのに普段は人を喜ばせる事はおろか、怖がらせる事もろくにできないでいる。船の中ではその事について、夜な夜なお客さんには見せない顔をしたりして、私も他人には見せない顔をしているし、だけど、いつも舞台裏で仲むつまじいとは行かない。

 ママは私には打ち解けているけれど、人見知りで人と話すのも苦手だ。

 そんなこんなでもいつも泣いてばかりいるのだ。

 『そんな事ではダメよ』とたしなめてはいるけれど......。

 しかしこのご時世では、そのか弱いイメージはあまりママを知らない人達には、心の優しい女優と思われる事も普段から多いと聞いた。いつかその雰囲気を醸し出していると思われるように私もなりたいと今のところは思っている。客船内部のフロアーにある居酒屋兼カクテルバーでは、その雰囲気のママのイメージは女性として長所にもなっているようで、最近では、人生相談所も、小さくこぢんまりとしたお店の一角で副業として始めた。私は私で人間の心に棲む天使だから人の気持ちの繊細なところまでは、まだ神様みたいに見たいとは思わないし、分からない。だけど、そういう事について、それは見方を変えれば、私の長所として見えてくる時もあるのだろうか? ナポロポリタン客船乗務員の私のパパは、か弱いママと落ちこぼれ天使の私の事を心配している!



 人間の心の中に居る社会性の乏しい非常識な人間と思われたりする天使の私は、例えば食のマナーを1つとってもそうだし、それぞれにある、料理別のマナーが未だ身に付いていない。


 だからそれらの食のマナーを尊重しない行動は、食という本能を満たす為だけの行為にみられても仕方がなかったかもしれない。

 外食でいえばそれまでのママのお財布事情や、お店の選び方、そこに行く服装、はては同伴者はいるのか? そういった料理店に行き着くまでの日常の出来事に関して、その食の時代の進歩と共に食のマナーの変貌があったことだろう。

 だけれどそれと日常の生活をあわせてみれば実際には、食事制限を続ける事で普段から大事にする思いとしてなら『きれいに食べるとか、作ってくれた人の事を思い遣る』とか。それが、それ相応の食事の基本的なマナーであると思うし、そこにあった気持ちは心にとどまり易いとも思っている。


 私とパパは会話を始めた。


『私、食物の元になるものの存在を考えたくても、考えられないんだ』


『人間は考えたくなくても、つい考えてしまう、といった一見、恐怖からかな? といった気持ちを持っている。それらを未成熟にも感じる気持ちは、大人にだってちゃんとある』


『うん』


『大人として納得の食事のマナーとは、赤ちゃんからの食べる意味に始まり、老人になって食べない事に終わるといった形になる。それは生きる上での長所と短所が見え隠れする事である。だから、食事のマナーとは生命を食する事で欲を満たし、その生命を食さない事で自分を律する。すなわち、長所と短所が表裏一体の不思議で、ちょっとかわいそうな現実にこの世はなっている』


『......食物連鎖をかわいそうとして見始めたんだね。パパの時代は精神的な文明開化の峠を迎えた明るい兆しも見え始めているし、そんなご時世にあるのだと思うよ』と天使の私は言った。



パパは私に言ってくれた。


『今の時代に文明開化? よく言われる事だね。それは他の動物では成しえなかった欲の抑制を、精神的に制御する事で、生命の歴史上そういった人類は非凡な成長として捉えられる事から、人間らしい安心した日常がおくれるのであろうし、そうとも皆呼びたいよね』




 そう思えるのはなにも人類や動物の私達の食事のみではない理由がある。子供時代に無意識に経験として蓄積した【それが欲深いから達成できない、だけれどそれが理由で新たな局面を迎える】といった、生きる事の意味が光輝く精神のカウントが始まる時期が脳には、あるのだろうかと思っている。それは下手に取り扱うと、悪魔のような超越思考が備わって仕舞うかもしれないと稀有もしている。


 その根源は脳の奥深くの倉庫に仕舞っておきたい、子供なのか? 大人なのか? 天使なのか? 悪魔なのか? 神なのか? といった人間の根元を見据えた精神性にある。

 それは人類の際立った能力を体験したもの達の初見だろうし、神といった存在しない存在がもしいたならば......といった未だ見ぬ世界の可能性に見切りを付けないで歩み進んだ事で、祈りや瞑想から生じる聖なる精神性は、いつしかそれが人類の本能からなる欲そのものの根元なのかもしれないと思えるようになっていた。


 それは21世紀の極まる世界論であり終末論。すなわち、人類全てに愛情を求めても偽りになるといった時代も長く続く。

 その愛情の希薄な事で新たな局面を迎える、多岐に渡る選択社会は列なる地図のドーム社会といったものである。まだ風土として定着していない現実のレンズドームといった建築領域世界の社会では、現実の子供の様な大人である私は、そのような勘の鋭すぎる存在として、価値のある、この上の無い、クエスチョンで人生の悟りを開こうとする、子供のような大人でもあるのだろう。


 それこそ考え方に子供の価値を失わないと思うので、心は子供のようであるのだが、その核心は実際のところ超越思考の極みである。


 未完成の魂の存在意義を、安易に笑いに変えずに、生命としての誠実さから達観するよりも、熟成さの全体の価値を実らせずに、価値そのものをゆっくりと健やかにいただく......賢く無くても、面白い生き方だなと、その人生を楽しめたら最高の大人だろう、と今は少しずつ思え始めている。


 されど本質的に天国を探る探偵の栄える、レンズドームのない社会では、神々が居たのかもしれない土地として、長年瞑想の熟練度として悟らせ、落ち着いた頭で宗教学を学ぶ者としての、大人像があり、青年の考えた大人像に護られて生きる事で、意味が補われるのが、現実の今の大人像であるし、それが社会のイメージを形づくっている。


 けれど、その私の意見を押し通す様な生き方は、例えるならば、三大宗教の聖書である本書の講師に対して無礼を働いてでも、一時期に背いてでも、助けなくてはならない。理由は【神に糸を引く隠者】が魔神として君臨していた世界の領域が西の孤島にあるらしい。世界中の神々はその隠者が居た時代には、人間の寿命のロウソクの準備をトチった時代があった。それはシュミレーション宇宙の包囲網をかいくぐって魔人が生きているのを見落としていた出雲の神々に護られた土地に、子供の魔人が産まれてしまったから。先祖は意味の分からない季語として俳句に魂を込めた。言葉バラシの呪文は、呪文ではなく、怒りからの謝りで伸びる、学びの時代が存在するのかなと思われる。資料の中の様な世界だとしても、現実に実行すべき愛情の抽出世界、それが書物であるだろうし、そこで留まっておかなければならない。


だってそこまでの現実が書物の情報量が成し得た人生だから。


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