その本屋は〈奇跡〉をもたらす

山法師

その本屋は〈奇跡〉をもたらす

 カラン

 古めかしいドアベルの音が鳴り、その扉が開いたと告げてくる。続いて、コツコツ、と室内へ入ってくる靴音。


「……」


 入ってきた人物──大柄で黒いコートを着た男だった──は、その、古いのやら新しいのやら大きいのやら小さいのやら、店に収まりきっていないのか床に積み上げられているものまである、沢山の本だらけの室内を見回し、


「……ここが……」


 奇跡をもたらす本屋、か。

 そう、呟いた。

 男は店内を再度見回し、奥にカウンターらしきもの、そしてそこに座る人影を見つける。

 男はまっすぐそこへ向かい、カウンターの目の前に立つと、


「〈我、愚かなる者なり。とこしえの夢を求める者なり〉……で、いいのか」

「お客さん、言う相手が違うよ」


 カウンターに座り、頬杖をついて彼を見上げていた長い金髪を持つ女は、にやりと笑い。


「それはあっちに頼むんだよ」


 と、右手の人差し指をまっすぐに伸ばし、示した。


「……」


 男が示されたほうを見れば、そこには一匹の猫。錆色の毛の成猫がすうすうと、床に積み上げられた本の上で、体を丸めて眠っていた。


「……」


 男は猫を見つめ、女へと振り返り、


「……」


 にっこりと笑顔を見せながら猫を指差すその女を眺め、数秒。浅く溜め息を吐いて猫へと足を向けた。

 コツ、コツ。男の靴音が、猫へと近付く。

 ──コツ。男が、猫の前で足を止めたその瞬間。


「!」


 猫は、ひょいと頭を上げ、その動きに驚いた男の目を見つめた。


「にゃおん」


 猫が鳴く。男をまっすぐに見つめたまま。

 うず高く積み上げられた本のおかげで、男と同じ目線にある猫の瞳は、左が青く、右は緑だった。

 青は、夜空のように深く。緑は宝石のように煌めいている。


「……っ……」


 その二色に見つめられ、何故か気圧された心持ちになった男は、そこから一歩、無意識に体を引いた。


「帰るのか?」


 高く、透き通った声だった。その美しい声音に気を取られ、その声が、言葉が、目の前の猫から発せられたものなのだと気付くまで、男は十数秒を要した。


「……、……いや、すまない。なんでもない」


 男は頭を軽く振り、額に手を当て浅く息を吐くと、猫へと顔を向け、改めて口を開く。


「……君が、ここの店主なのか」

「まあ、そのようなものだ」


 猫は、人がするようににたりと笑い、かぎの尾をゆらりと振る。


「で?」


 愛らしさと不気味さの狭間のような顔で問いかける猫に、男は一瞬呆け、次には慌てたように口を開閉させた。


「あ、……と……〈我、愚かなる者なり。とこしえの夢を求める者なり〉」

「〈その求め、応えよう〉」


 猫の両目が光ったと思うと、空間が歪み、


「っ……?!」


 倒れそうになった男がたたらを踏んだ次の瞬間には、そこは本屋ではなく、別の空間になっていた。


「……ここは……」


 そこは広く、とても広く。どこまでも空間が続いていた。足元には昼間の青空が、上には星の瞬く夜空が広がっている。そしてその広大な空間を埋め尽くすように、無数の本がそこら中に散らばり、空中を漂っていた。


「……ここが、奇跡の……」


 その光景に圧倒されたのか、呆然と呟く男の言葉に、


「ふむ。奇跡、か」


 猫が静かに続けた。


「! ……ああ、いや」


 それにハッとした男は、猫の声がした方を見やる。猫は男と同じ目線のまま、浮遊する一冊の本の上に居た。


「して、お前の求めるものは?」


 猫が目を細め、問う。


「……求めるもの……私が、求めるものは……」


 男は、絞り出すように、それでいて凪いだ顔で、それを口にする。


「死んだ人間を、蘇らせること、だ」


 一時の、静寂。


「……ふむ。お前の心の揺らぎからするに、ただの蘇生術ではなさそうだな」


 猫の言葉に、男の眉間に微かにしわが寄った。


「どういう意味だ」

「そのままだ。その、お前が蘇らせたい人間、今すぐ蘇らせることなど容易だが、お前はそれ以上を望んでいるだろう?」

「何を言ってる」


 苛立ちを含んだ男に、猫はあくびを一つ。


「ふぁ……ふむ。お前の心の内が見えてきた。お前、その者が死んだ事実を無くしたいのか」


 その言葉に、男は息を呑んだ。


「死んだという事実を無くし、何事もなかったかのようにその者と過ごしたい。そんなところか」

「…………どう、して…………そんな…………」

「なに。お前が分かりやすいだけのこと」


 慄くような顔をした男に猫が言い終わるかどうかというところで、一冊の本が、上からふわりと降りてきた。


「それを叶えるのは、この本だ」


 猫と男の間で停止した本は、深い緑の装丁で掌より小さく。


「これ、が……?」


 男が疑問の色を声に混ぜる。


「ああ、間違いなく。──それで、」


 猫はその小さな本に一度目を向け、


「その求めに対するお前の代償だが」


 男へ顔を向け直し、そう言った。


「……ああ。代償」


 望みを叶えるには代償が必要だ、とはここを教えてくれた者から聞いていた。

 男は頷く。


「この望みが叶うなら、本当に叶うなら、何でも差し出そう」

「……ふむ。そうさな……」


 猫は伸びをし、両耳をくるりと回し、


「では、お前とその者との想い出を貰おう」


 放った言葉に、男が目を見開いた。


「想い出……?」

「そう、想い出。お前とその者が過ごした日々、お前がその者を想っていた日々、その想い。今まで培った、あらん限りの全て。それが代償だ」

「……そ、れは、……な、……」


 男は頬をひくつかせ、怒りと悲壮感の混じった声を出す。


「それでは、蘇らせる意味がなくなるじゃないか!」

「なぜ?」

「今まで過ごしてきた日々があったから! 積み重ねてきたものがあったから! またともに生きていきたいんだ……! なのに、なのに! それを、私の生きてきた糧を無くせと?!」


 叫ぶ男に、猫は目を細めた。


「代償を払えぬというのなら、帰れ。これまで通りに過ごすが良い」

「っ! いやっ、待ってくれ! 駄目だ! 嫌だ! もう独りで生きるのは嫌なんだ……!」


 頭を抱え、背を丸めた男を見下ろし、猫は言う。


「想い出など、また作ればよいだろう。何をそんなに嘆き悲しむ」


 その言葉に、男は顔を上げた。その頬には涙が伝っていた。


「……また、作る……?」

「そう。お前たちは、覚えもいいが忘れやすくもある。このことも、そういうものだと思えばいい。……さあ、どうする?」


 口角を上げた猫を見つめ、涙に濡れていた男の顔に、笑みが現れた。


「ああ、ああ、そうか……! そうだ! また作ればいい! また二人で、今まで以上に幸せになればいい!」

「……心は決まったか?」

「ああ。代償を渡す。代わりに、私の願いを」

「それは、この本を読めばいい」

「本……」


 男は一瞬不思議そうな顔をして、目の前の緑色をした小さな本が目に入ると、「あぁ」と苦笑した。


「そうだった。ここは奇跡をもたらす本屋だったな」

「……。本は、今ここで読め」


 猫の言葉に男は頷き、空中で停止していたその小さな本を手に取る。

 そして、表紙を開いた──




「……。……?」


 男は気付くと、沢山の本が雑多に置かれた本屋の隅にいた。

 どうしてここにいるのか、何か大事な用事があった気がするが、どうにも思い出せない。

 どこか満足感があり、空虚な気分もあった。

 先程まで手に何か持っていた気がして、両の手を見つめる。そこには何もない。


「にゃおん」


 足元からのその声に、男が顔を向けると。


「にゃあ」


 一匹の錆猫が、男を見上げていた。


「……」

「にゃうん」


 猫は男の足の間をすり抜けながら歩いていき、奥の方へ、本の影へと行ってしまう。


「……」


 もう、用は済んだのだ。

 男はどうしてかそう理解して、コツコツと靴音を鳴らし、

 カラン

 古めかしいドアベルの音を鳴らして、その本屋をあとにした。



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