第9話 後日のこと

 結婚が差し迫った、ある日のことです。


 私が黒、父が白の駒を持って、今日も朝からチェスの対局です。父が暇なときは、一日中こうして書斎でチェスを打っていることもあります。


 父はしみじみ、私の手番を見てこう言いました。


「お前もすっかりチェスが上手くなったなぁ」

「まだまだですわ。お父様に勝ち越せるまで、精進あるのみです」

「私に勝ち越したあとはどうするつもりだね」


 勝ち越したあと、と言われると、私も考えていませんでした。今までずっと父が目標で、勝てるようになるまで勉強を続けてきたからです。その父はヴァルツ帝国一のチェスの名手と呼ばれているのですから——その先は、どうなるのでしょう?


 私は父にその疑問を返します。


「どうしましょう?」

「そうだな、ライトン共和国にアンシュラーク劇場というところがある。そこで年に一回、チェスの殿堂入りをかけて大会が開かれるのだが」

「そこに出られるくらいになれば、ということですか?」

「まあ、一つの目標にしておけばいい。私も若い頃は目指したが、戦争で行けなくなってそれきりだ」


 父は少し寂しそうでした。ライトン共和国は遠いところです、そう簡単に行けませんし、貧乏だった頃の父はいくらチェスの腕が立っても手が届かなかったのでしょう。今となっては父は立場が邪魔をして、ライトン共和国に限らず気楽に諸外国へ出かけることもままなりません。


 それはとても残念なことで、父はチェスの腕前を披露する機会を失ってしまったままなのです。


 でも、私がその夢を継ぐことができれば、父は喜ぶでしょうか。そう考えると、俄然やる気になってきました。いつかライトン共和国のアンシュラーク劇場に。私はそんな夢を、胸に抱きます。


 フェリクスが書斎にやってきました。手には紅茶のカップを三つ載せたお盆を持っています。


「やあ、お義父様、エルザ。今日も対局ですか。私も混ぜてもらえませんか」


 私は快諾します。


「かまいませんわ。もう一つ盤を持っていらして」

「いや、二つだ。三人で二つずつやればいい」

「えっ」

「そうですわね。暗譜でもかまいませんけれど、フェリクスは慣れていないでしょうから」


 私と父は、フェリクスを加えて二面で相手をすると言っていたのですが——。


「き、今日は見学させてもらいます……お邪魔になりますので」


 フェリクスは遠慮していました。そうか、と父は興味がなさそうです。


 フェリクスは椅子を持ってきて、テーブルを眺められる位置に座りました。


「盤面が複雑すぎてよく分からないのですが……これはお義父様が勝っているのですか?」

「いや、優勢ではあるが、いつでもひっくり返る接戦だ」

「そうですわね。悩んでいるのですけれど、なかなかいい手が見つからなくて」

「こらこら、敵にバラすものじゃない」

「あら、これも計略のうちなら?」

「恐ろしいことを言うな。誰に似たことやら」

「お父様ですわ」


 私と父は笑い合います。隣でフェリクスが苦笑いをしていました。


「そういえば、シュヴァルツェンブルク侯爵から手紙が来たよ。息子をよろしく、とのことだ。結婚式には出席しない、とも書かれていたが」

「ああ、それは大丈夫です。私は軍に入る際、あの家とは縁を切りました。もちろん世間的にはそうは見られないでしょうが、侯爵家の跡目争いや財産分与に関わらないよう、今後一切の付き合いは断つと誓約書に書いていますので」


 フェリクスはそう言いますが、本当にそれでいいのでしょうか。


 家族としては、心の底では結婚式に出てフェリクスを祝福をしたいのではないだろうか——そうは思いますが、シュヴァルツェンブルク侯爵家の事情が分からない私には、どうすることもできません。


「エルザ、大丈夫だよ。どうせ結婚式には出ないと言っておきながら、教会の外で偶然を装って見にくるだろうから」

「……そんなことを?」

「そういう人たちです。結婚式の日取りくらいは知らせておいてもいいですか?」

「ん、そうしておきなさい。ああいや、私が返信に書いておくよ。場所と日付でいいかね」

「はい。よろしくお願いします」


 どうやら、シュヴァルツェンブルク侯爵家の人々は、かなり愉快なご様子です。








 深夜、父の書斎から、明かりが漏れていました。


「フェリクス、眠れないのですか?」


 いつでも開放しっぱなしの父の書斎で、フェリクスが一人、チェス盤の駒を動かしていました。手には本を開いています。


「うん、少しね。ちょうどいいから、チェスの棋譜を読んで勉強しようと思って。今までろくに本で学んだことがなかったんです」

「そうなのですか? じゃあ、実戦でそれだけの腕をつけたということですね」

「そう言えば格好は付きますが、実際のところ基礎は何もない、というところです。ちゃんと強くならないと、あなたの相手だってできません」


 私はフェリクスとテーブルを挟んだところのソファに座り、フェリクスが駒を動かす様子を眺めます。


「軍では賭けチェスが流行っていて、騎兵隊ではあまり娯楽がないものだから、皆熱中していてね。私はあなたのおかげで、私は騎兵隊では負けなしになってしまったものだから、誰も相手にしてくれなくなってしまって」

「あら、残念ですわね」

「ええ、せっかく交流を深めるいい機会だったのに……ああ、その代わり、あなたとはそれなりに打てるのだから、良し悪しですね。まだ足元にも及びませんが」

「大丈夫ですわ。今のところフェリクスは陛下よりも少し上手くらいですもの、サボってばかりの陛下よりもすぐに上達しますわ」

「ははっ、よりによって皇帝陛下と比較されるなんて、夢にも思わなかったな」


 フェリクスは何だかおかしげに、楽しそうに笑っています。そんな様子のフェリクスを見ることが、私は幸せで、何とも愛しいのです。


「エルザは今まで、誰かとチェスを? お義父様とだけですか?」

「いえ、お父様のお知り合いはしょっちゅうやってくるので、よくお相手しましたわ。でも、私が十歳になる頃にはほとんど勝ってしまっていたので、それから時々貴族の方の紹介でチェスの上手な方たちと打ったりもしていましたわね」

「なるほど、鍛えられていた、というわけですか」

「でも、一番最初は幼い頃に亡くなった母から教わったのですわ。母はお父様も負かすほどチェスのお強い方で、皇帝陛下の指南役でしたもの。今は私がそのお役目を継いでいますけれど」


 それは遠い昔、もう私は母の顔も憶えていません。憶えているのはチェスの駒の動き、その駒を操る細い指先だけです。


 だからでしょうか。私と母を繋ぐものは、チェスだけなのです。チェスに触れているときだけは、朧げにでも母を思い出せるのです。


「お会いしたかったな。でも、お会いしたらきっとエルザよりも容赦なく私をチェスで負かせてくれたでしょうね」

「間違いなくそうしたと思いますわ。だって、幼い頃の私相手でも一切手を抜かなかった方ですから」

「エルザそっくりですね」

「そうかしら」


 その評価には少し異論がありますけれど、とりあえず。


 フェリクスは駒の動きを止めました。


「うーん、やっぱり私は、エルザと対局するのが一番楽しいな」

「あら、そうですか?」

「幾千の言葉よりも雄弁に、というくらい、一度の対局では分かり合える気がするんです」

「フェリクス、意外と詩人ですわね」


 思えば、私はフェリクスのそういった面を、まったく見ていませんでした。チェスを通して気性を知っているだけで、何が好きか、どんな音楽を聴いているのか、家では何をすることが好きなのか、そういうことを聞いたことがありませんでした。


 でも、それでもいいような気がします。


「そういうことなら、夜も更けましたから一局だけ。すぐに終わらせますわ」

「お手柔らかに頼むよ。前よりは時間がかかるといいんですが」


 幾千の言葉よりも雄弁に。


 私はフェリクスと分かり合うために、今日もチェスの駒を握ります。


(了)

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Shall We Chess?-あなたとチェスを- ルーシャオ @aitetsu

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