第8話 ご指南、よろしくお願いします
一ヶ月後、フェリクスが帰ってきました。父はまだ戦地で和平交渉に関わっていますので、しばらく帰りそうにありません。
フェリクスは帰ってくるなり、私がいる父の書斎へ駆け込んできました。
「エルザ! やっと帰ってきた、一局手合わせを」
そう言って、フェリクスはやっと気付いたのでしょう。
私の他に、もう一人が書斎にいることを。
私とチェス盤の載るテーブルを挟んだ向かいに、ソファに足を組んで座る女帝を見て、フェリクスは顔を引きつらせました。
「こ、ここ、皇帝陛下! ご無礼仕りました!」
「よい。目通りを許す、こちらへ来い」
「はっ!」
緊張しつつも、フェリクスはきびきびと動き、女帝の横にやってきて片膝を突きました。さすがは侯爵家の子息、礼儀作法が体に染み付いています。
「シュヴァルツェンブルク侯爵が子息、フェリクスだな。我が友エルザが世話になっていると聞いた」
「はっ、エルザ嬢にはチェスを指南していただいております。それから」
「婚約をしたそうだな? よい、無事帰ってきてエルザを悲しませることがなかったのだ。今はその幸せを噛み締めるとよい」
改めて他人に言われると、フェリクスは恥ずかしかったようです。耳まで真っ赤にして、顔を上げられなくなっていました。
「しかしだ、フェリクス。余は一つ、疑念を抱いている」
「疑念、でございますか」
「ああ。お前はシュヴァルツェンブルク侯爵の次男だ。つまりはシュヴァルツェンブルク侯爵家を継ぐことはない、仮に家を出て新たな貴族として家を立てるとしても、貧乏貴族のままだろう。お前にイェーリスほどの才覚があればともかく、エルザをそれで幸せにできるのか、余は深く憂慮しておるのだ」
女帝の問いかけは意地悪くはありますが、確かにそれは考えなくてはならないことです。
フェリクスはこのまま軍人として身を立て、私を妻として迎え入れるつもりなのでしょう。しかしそれは、貴族として暮らしてきたフェリクスには、少々耐えられない生活になるかもしれません。軍人はそれほど裕福ではありませんし、何より平民になるということに抵抗を感じるのではないでしょうか。
それは私の口からは聞きづらい、しかし確かめなくてはならないことです。だから、女帝は自らその問いをフェリクスへ投げかけたのでしょう。
フェリクスは、顔を上げずに答えました。
「陛下の御宸襟を煩わせたこと、深く謝罪申し上げます。しかしながら、私は一介の軍人となることを、軍に入ったそのときから覚悟しております。シュヴァルツェンブルク侯爵家はそれを理解して、私を貴族としての責務から解放しました」
フェリクスは軍人です。シュヴァルツェンブルク侯爵の子息であるということは、貴族の息子であるということは消せない烙印のようなもので、しかしそれらを捨ててでも軍人になると決めたのです。
「平民であろうと貴族であろうと、私はエルザ嬢を愛しています。決して、エルザ嬢に恥じることのない軍人たらんと微力を尽くしてまいる所存でございます」
しばらくの間、私たちは黙ったままでした。
フェリクスは微動だにせず、女帝の言葉を待ちます。
私は——目を閉じている女帝の様子を窺いながら、そのときを待ちました。
「ふむ。ならば、証明してみせよ。お前はイェーリスの息子になるということだ。この余が持つ帝国一の頭脳、戦略家の娘を娶り、その名に恥じぬ軍人でなければならぬのだ。それがどれほど険しい道か、分かっているのだな?」
「もちろんでございます。非才の身ながら、イェーリス将軍の背を追いかけてみせます」
その言葉に、ようやく女帝は納得したようです。
「いいだろう。このエルザは余の数少ない友人であり、大事な妹のようなものだ。もし何かあれば、エルザは余を頼るであろうな。そうならぬよう、邁進せよ」
「はっ!」
フェリクスは一層頭を下げ、女帝へ最敬礼をします。
その一方で、私はただソファに座って、その様子を眺めているだけです。盤上には先ほどまでの私と陛下の一局——陛下がボロ負けしたチェスの盤面があります。
陛下はそれをなかったかのように、駒を倒し始めました。
「うむ、それでだ、エルザ。余はこれで帰る。次もまたよろしく頼むぞ」
「はい、お待ち申し上げております。お見送りを」
「いや、いらぬ。お前はフェリクスと一局してやるといい。ではな」
女帝は颯爽と、書斎から出ていきました。
ようやくフェリクスが頭を上げ、立ち上がります。
「はあ……緊張した。まさか、ちょうど陛下がいらっしゃるとは」
「陛下にも結婚を認めていただきました。これでいつでも式を挙げられますわ」
「まいったな、そこまで話が進んでいたのか。いや、いいのです。どのみちその話をしに来たのだから、ちょうどよかったというもの」
私とフェリクスは、互いの陣地にそれぞれ駒を置きながら、笑い合います。
「改めて、エルザ嬢。私と結婚してもらえますか?」
揃った駒の上で、私はにやけを抑えきれず、こう言いました。
「はい、もちろん。これでいつでも、対局できますね」
フェリクスは意表を突かれた、とばかりに目を丸くしていました。
「ははっ、そうか。じゃあ、ご指南、よろしくお願いします」
私は白の駒を、フェリクスは黒の駒を持って、対局は始まりました。
いつまでも、いつまでも。
一度だってフェリクスは私に勝てなかったけれど、フェリクスは諦めることなんてしませんでした。
天才戦略家ドミニク・イェーリス将軍の義理の息子、フェリクス・イェーリスは、やがては将軍と呼ばれるまで出世して、騎兵隊運用に革命を起こすほどの戦術家として名を馳せるようになりますが——それはもう少し先の話です。
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