第7話 赤毛の来客

 数日後、フェリクスは戦地へ旅立ちました。父もまた、数日遅れで戦地へ、バルリング伯爵領へと向かいます。


 その出立のとき、私は父とこう話をしました。


「エルザ、結局フェリクスとの話はどうなった? 見合いにしては随分と長々会っていたが」

「それでしたら、先日婚約していただけましたわ」

「そうか! それはよかった、フェリクスもなかなか見る目のある若者だな!」

「ええ、何十局負けても果敢に挑んでこられるほど立派な方ですわ」

 それを聞いて、父は顔色を変えます。

「お前、フェリクスとチェスを?」

「はい。徹底的に、負かしましたわ」

「……それでよく、婚約したな?」

「どうやら、フェリクスはとても向上心のある方で、少しずつですけれど手合わせのたびに強くなられているのです。ですから、一生懸命でひたむきで、私はとてもいい方だと思いましたわ、お父様」


 父は悩む様子を見せ、どう言えばいいのか、と顔に書いてありました。


 ようやく、言葉を口にします。


「まあ、いい。私もお前とチェスを打ちたいのだ、帰ってきたら一局頼むぞ。それと私がいない間にまた陛下がいらっしゃるだろうが、いい加減お前も手加減を覚えなさい。陛下は落ち込むから」

「努力しますわ。陛下はせっかく棋譜をお渡ししても、勉強をサボってこられるから上達されないのですわ」

「ああ見えてお忙しいのだ。少しは労って差し上げなさい」


 父はそう言って馬に乗り、部下たちを引き連れて行きました。


 私はその後ろ姿を見送って、いつかはフェリクスをもこうやって見送るようになるのだろうか、と想像します。


 戦が甘いものでないことは分かっています。祈りなど届かず、死は間近にあり、戦いは泥の中で命を奪い合うことなのだと知っています。


 その戦いを避けるための方策を、父はいくつも取ってきました。バルリング伯爵と私の婚約だってその一つだったのに、失敗してしまいました。それが私は申し訳なくて、どうしていいか分からなかったのですが——フェリクスのおかげで、少しは自信が回復しました。それはフェリクスを何十局も打ち負かしたからかもしれませんけれど、とにかく私は落ち込まなくなったのです。


 だから、また会えると信じて、私は家で待つのです。


 父の書斎でチェス盤の駒を一人動かし、何の気なしに昔の棋譜を再現していると、来客がありました。


 使用人に通させて、私は書斎で待ちます。するとすぐに、客人は現れました。


「やあ、エルザ。久しぶりだね」


 その方は、赤毛の女帝——ヴァルツ帝国皇帝、アーデルハイト・マルガレーテ・コンラート・ライファイゼン。私がいつもチェスのお相手をしている、妙齢の女性でした。







「バルリング伯爵領は戦地にはならない」


 黒のポーンを持った赤毛の女帝アーデルハイト陛下はそう言いました。ソファで足を組み、赤い礼服を着こなすさまは、いつ見ても見事なものです。


「そこへ行くかのように見せかけて、別方向から攻める。イェーリス将軍が動いたとなればオクトーレ公国連合も目を離すわけにはいかないから、そちらにかかりっきりになる。その隙に、オクトーレ公国連合の領土を削りに削ってやる。やつらは慌てて引き返してきても、もう手遅れだ。せいぜい、無抵抗で得られたバルリング伯爵領を捨てていくしかできないだろうさ」


 黒のポーンの斜め前に、私の白のポーンがあります。しかし、女帝は見向きもせず、牽制だとばかりに放置しました。


「エルザ、お前の元婚約者は私の気遣いにも気付かず、おまけにイェーリス将軍の気持ちをも踏みにじった。そして今回の失態だ。失地回復は許さぬ、バルリング伯爵家は取り潰しだ。やつに任せていてはこの先何度我が領土はオクトーレ公国連合の侵略を許すか、分かったものではない。無能の首を切るのは皇帝の仕事だからな、バルリング伯爵は戦が終わるまでの命だ」


 私は白のルークを少し進めます。黒のビショップに狙われていると分かったからです。女帝の思惑は外れ、黒のビショップを戻しました。


「そうですか。何もかも、あの方のせいで台無しですわね」

「そうだな。お前にとっても、いいやら悪いやら。あんな無能に嫁がず済んでよかった、そう思ってもらえれば私も気が楽だ」

「もちろん、今はそう思えますわ。気の毒ですけれど、戦が迫っても何もできないお方が領地を治めるなど、領民の不幸ですから」


 白のポーンが女帝の領地を襲います。すぐさま女帝は黒のナイトで応戦し、黒のキングの守りを固めます。しかし、その一方で孤立無縁となった黒のクイーンは、あっさりと私の白のビショップに奪われてしまいました。


 やってしまった、と女帝は顔を歪めます。


「うーむ、お前は本当に手加減をしてくれぬなぁ」

「あら、して欲しいのですか?」

「いいや、全力で戦うことこそ相手への礼儀だ」

「であれば、遠慮なく」

「あ、いや、少しはこう、私に花を持たせてくれ」


 女帝の言葉を、私は聞く耳など持ちません。


 じわり、じわりと黒の駒は減っていきます。ついには隅に追い詰められた黒のキングの護衛は一つの黒のポーンとルークだけ、という状態にまでなってしまいました。


「チェックメイト」

「……無様に負けたなぁ」


 はあ、と女帝はため息を吐きました。いつものことです。


 私は白黒の駒をそれぞれの陣地へ戻しつつ、女帝の話に耳を傾けます。


「なあ、エルザ。聞いたぞ、お前はシュヴァルツェンブルク侯爵の息子と最近よく会っているらしいな」


 私はにっこり笑って、その事実を認めました。


「ええ、婚約いたしました」

「何? それを早く言わないか!」

「だって、数日前に父へ話したばかりですわ。そのうち陛下のお耳に入るだろうと思って、こんなに早くお会いできるとは思ってもいませんでしたもの」


 なるほどそう来たか、と女帝は独り納得しています。


「フェリクスはチェスは大してお上手ではありませんけれど、何度も向かってくるその気概は目を見張るものがありますわ。いい方だと思います、あとは」

「うん、私はお前の亡き母に後見人を頼まれているからな。いいだろう、私の目に適う相手なら、許す」


 女帝はそう言って、大きく頷きました。私の亡き母は、前に陛下のチェスのお相手を務めていて、母が亡きあとは私がそのお役目を継いでいました。だから、陛下は私のことを妹のように可愛がってくださっています。


 その女帝の許しを得たなら、もう結婚への障害はありません。


「しかし、お前がもう結婚する年齢になるとはな。結婚式に私も出ていいだろうか?」

「父が許可を出すなら。出席される皆様が驚いてしまいますわ」

「なら、こっそり出るか。どうせ軍人ばかりだろうし、貴族は新郎側にしかいなさそうだ。そこに私が花を添えるくらい、大したことではあるまいよ」


 そうは言いますが、いくら結婚相手が貴族だからと言って、平民の娘の結婚式に皇帝が出るなど前代未聞です。しかも凛々しい赤毛の女性となれば、一目で皇帝陛下だと分かってしまいます。


 それはそれでおかしな話で、私は思わずふふっと笑ってしまいました。


「お前が喜ぶなら私も嬉しいぞ。花嫁衣装はどうする? 仕立て直すなら日数がかかるぞ。私の専属の仕立て人を使え、すぐに終わらせられる」

「では、遅れそうになったら、お願いしますわ。衣装のことはフェリクスと相談して決めたいと思いますから」

「おお、そうか。結婚に関して新郎を差し置いては無礼だな、許せ」


 そう言って、女帝は機嫌よく笑います。


 二人して、窓の外の空を見上げました。


 遠い空の下で、フェリクスは戦っているのでしょうか。父は無事でしょうか。


 そんな心配など、必要ないかもしれないけれど——私も陛下も、せずにはいられなかったのです。


 そして、それからほんの一週間と経たず、オクトーレ公国連合領内にヴァルツ帝国軍が電光石火のごとく侵攻を開始した、という報が届くと、市井はお祭り騒ぎのように沸き立ちました。


 父の采配は、ヴァルツ帝国の勝利を確信させるものでした。

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