第6話 プロポーズ

 二週間と経たずに、フェリクスはやってきました。


「お返事の前に、一局、お願いできませんか」

「かまいませんわ。どうぞ」


 私はいつもどおり、父の書斎にフェリクスを通しました。すでに盤上には駒が並んでいます。白と黒、整然と並ぶ駒に、フェリクスはソファに腰を下ろすなり、手をつけました。


「散々、悩んだのです」

「悩んだのですか。それはお付き合いで済ませるか、婚約をするか、それとも断るか?」

「最後の選択肢はあり得ません。私は、どうすればあなたが傷つかないかを考えていました」


 フェリクスは黒のポーンを動かします。私もそれに応じ、二回ほど白のポーンをぶつけます。


「私は軍人です。自ら志願して、騎兵隊に入り、いくつか戦場にも出ました。いつ死んでもおかしくない状況というものも、経験したことがあります」


 黒のナイトが動きます。序盤でナイトを動かすのは、フェリクスの癖です。私は白のビショップを牽制に出し、道を開けて行動を制限します。


「ですが、死にに行くというのは、思ったことがありません。戦いに行くのだと、そう思ってきました。だから、迷ったのです。もし今回、私が死んでしまえば、あなたはどうなるのだろう、と」


 案の定、白のビショップを警戒してフェリクスは黒のナイトたちの進軍を止めます。その隙に、私の白のポーンたちはどんどん進み、陣形を完成させました。


「どうすれば、あなたは傷つかないのでしょうか。婚約してもかまわないとお思いなら、それでもいい。しかし、帰ってきてから決めたいとお思いなら、今は結論を出さずに話を置いておく、ということも選択肢に入ります。それか、あくまで付き合い程度に留めて、もし何かあったとしてもあなたに悪影響が及ばないようにするか」


 私の白のクイーンが、黒のキングを射程に収めました。あとは、じわじわ包囲するだけです。


 この状況で、フェリクスは何ができるでしょうか。


「フェリクス、私はあなたを侮ったことはありません」


 私は考え込むフェリクスの手を待ちます。


「全力をもって、あなたを叩き潰してきました。手加減などしません、だってあなたはそんなことを望む人ではありませんから」


 フェリクスが無言で黒のルークを動かします。しかしそこは私の白のポーンが阻み、すぐに討ち取られました。


「あなたは何かをする前に、そこまで悩む人でしょうか。果敢に挑むことを止めない、努力を怠らない人だと私は思っています。そんな方が、何を悩まれる必要があるのでしょうか」


 私の言葉は、白のクイーンの攻勢のごとく、強くフェリクスへ叩きつけられたようです。動きの止まったフェリクスは、一瞬私を見て、すぐに盤面へ目を落とします。


 フェリクスは弱気になるかと思いきや——再度、守りに使っていた黒のナイトを動かしました。


「そうですね。あなたにそこまで評価されて、私は何を悩む必要があったのでしょうか」


 フェリクスは笑っています。しょうがない自分を笑って、私に笑いかけて。


 その屈託のない笑顔を、フェリクスは両手で叩いて引き締めました。


「ご無礼を、エルザ嬢。私は弱気になっていたようだ」

「お分かりいただけたならそれでいいのです。では、次の手を」


 もう勝ち目はないと分かっているのに、それでもフェリクスは黒の駒を掴む手を止めません。ほんの数手で投了を迎えると分かっていても勝ち筋がないかをじっと考え、悪あがきだと分かっていてもその目は熱量を持っています。


 ほんの数手は、すぐに終わります。そんなことは分かっていても、この対局には意味がった。私はそれを知っていますし、フェリクスもまた同じでしょう。


 私の勝利に終わった盤面を見て、そしてソファの背もたれに思いっきり背を預けて。フェリクスは感嘆のため息を漏らしました。


「あなたはやはり、素晴らしい。もうこの国であなたに敵うチェスの指し手はいないのではありませんか?」

「それは父を倒してからの話ですわ。最近は忙しくてお相手できていませんけれど、いずれは。それに、時々あるお方と指していますから、私も退屈というわけではないのです」

「あるお方、とは? 私以外の誰かでしょうか。いや、何というか、妬けてしまうというか」


 フェリクスは知りたがっているようです。


 もったいぶる話でもなし。私は正直に伝えます。


「皇帝陛下です。時々、お忍びで我が家を訪れて、私とチェスをするのです」


 フェリクスは目を剥いていました。


「……皇帝陛下のチェスのお相手を務めるほどの方に、私は何局も付き合わせていたのですか。ああもう、本当に、身に余る光栄だ」


 フェリクスは立ち上がって、私のソファの横にやってきました。ゆっくりと片膝を突いて、私の右手にキスをします。


「エルザ嬢。どうか、私と結婚の約束をしていただけませんか」


 もちろん、私の答えは決まっています。


「ええ、お約束いたします。お帰りをお待ちしておりますわ」


 フェリクスは少年のような輝く顔をして、喜びのあまり私に抱きついてテーブルにぶつかり、チェス盤を落としそうになっていました。

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