深呼吸レトロ
七雨ゆう葉
それは、古き一冊へと……
「この匂い、私好きなんだよね」
「何だか落ち着くっていうか……」
彼女はそう言って、深く息を吸った。
堆積したインクと古紙の束が、見えない煙へと変化したかのように部屋中を包み込む。
くたびれた看板に、
いつもの部活帰り。この日も僕たちは、いつもの古本屋へ足を踏み入れる。
彼女のことが好きで、それだけで入部を決めた文芸部。できるだけ、一緒に居たくて……。
昼休みの図書室。放課後の部活。中学生では僕たちしか来ていないであろう、行きつけの古書店。
二人で過ごす時間。青春の一ページが、僕の中で日々増刷されてゆく。
「ねえ」
「今度ウチ、遊びに行っていい?」
それは、思いがけない一言だった。
どうやら彼女は、僕がどんな本を買い集めているのか気になっていたらしい。
「この匂い、私好きなんだよね」
彼女の口癖が脳裏に刻み込まれていた僕は、その日の前日、計画を実行すべくあの場所へと急いだ。舞い踊る脈動に呼応するように、無我夢中で書を手に取る。そしてパラパラと中身を開いては、鼻腔で彼女の好物の濃度を確認する。結果、既に読破済みの本から少し背伸びした近代文豪たちの作品まで、厳選に厳選を重ね手あたり次第詰め込んだ。
「あっ! これ私も持ってる!」
翌日。僕の家へとやって来た彼女は、瞳を輝かせながら書棚を見つめる。
「フフフ。この本持ってるなんて、なんかしっぶぅー」
「ふーん、マニアックな本も読むんだね!」
大きく
この日はいつも以上に本の話題に興じ合いながら、気づけばお互い時間を忘れていた。
臆病で。大の人見知り。
そんな僕は……。
ただ、この時間さえ続けばそれで—―それでいいと思った。
けど。
やっぱり間違っていた。
だって……。
僕のささやかな願いは、儚くも崩れ落ちてしまったから。
それからまもなくして。
彼女は家庭の事情で引っ越すことになり、町を去って行った。
僕にとっての優しい時間。
そして、淡き青春の後悔。
それらは時の流れと共に、いつしか古き一冊へと束ねられていく。
◆
「スー、ハァー」
「あなた、よく深呼吸なんてできるわね。古本屋のこの匂い、私苦手なのよね」
「そう? オレは割と好きだけどな」
「……オレにとって、この匂いは青春そのものだから」
「もうなによそれ」
賑やかな店内。僕の後に続きながら、彼女は呆れたように言葉を漏らす。
「やだ、もうこんな時間じゃない。そろそろ行きましょ」
急ぐように。慌てたように。僕の手を引く華奢ではあるが力強く隆起した腕。その先に光る左手の薬指が小刻みに揺れる。
青春の全てだったあの日の彼女とは、性格も雰囲気もまるで真逆の人物。目の前を進むこの女性が、大人になった僕の今のパートナー。
人生とは、何が起きるかわからない。
彼女の後ろを歩きながら、僕はフッと小さく笑った。
深呼吸レトロ 七雨ゆう葉 @YuhaNaname
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