深呼吸レトロ

七雨ゆう葉

それは、古き一冊へと……

「この匂い、私好きなんだよね」

「何だか落ち着くっていうか……」


 彼女はそう言って、深く息を吸った。

 堆積したインクと古紙の束が、見えない煙へと変化したかのように部屋中を包み込む。

 くたびれた看板に、びれた煉瓦れんが色の外観。対照的に、どこか温かくアンティークな内装。暖色に灯るランプと彼女の笑みが美麗に重なり、僕の心は絶えず高揚していた。


 いつもの部活帰り。この日も僕たちは、いつもの古本屋へ足を踏み入れる。

 彼女のことが好きで、それだけで入部を決めた文芸部。できるだけ、一緒に居たくて……。むさぼるように本を手に取っては、まなこに活字をうずめる日々。彼女を追いかけるように。慣れなかった読書にも、今ではだいぶ親しむようになった。

 昼休みの図書室。放課後の部活。中学生では僕たちしか来ていないであろう、行きつけの古書店。足繁あししげく通っては互いに本を紹介し合い、共に追いかける作品の続刊が発売されれば、感想を熱く語り合った。

 二人で過ごす時間。青春の一ページが、僕の中で日々増刷されてゆく。


「ねえ」

「今度ウチ、遊びに行っていい?」


 それは、思いがけない一言だった。

 どうやら彼女は、僕がどんな本を買い集めているのか気になっていたらしい。

「この匂い、私好きなんだよね」

 彼女の口癖が脳裏に刻み込まれていた僕は、その日の前日、計画を実行すべくあの場所へと急いだ。舞い踊る脈動に呼応するように、無我夢中で書を手に取る。そしてパラパラと中身を開いては、鼻腔で彼女の好物の濃度を確認する。結果、既に読破済みの本から少し背伸びした近代文豪たちの作品まで、厳選に厳選を重ね手あたり次第詰め込んだ。




「あっ! これ私も持ってる!」

 翌日。僕の家へとやって来た彼女は、瞳を輝かせながら書棚を見つめる。

「フフフ。この本持ってるなんて、なんかしっぶぅー」

「ふーん、マニアックな本も読むんだね!」

 大きくかがませた両脚。それは何とも無防備で。嬉しそうに、常時ゆらめき続ける身体。あどけないその横顔に、僕の心臓は高鳴りを見せる。

 この日はいつも以上に本の話題に興じ合いながら、気づけばお互い時間を忘れていた。


 うぶで奥手で。

 臆病で。大の人見知り。

 そんな僕は……。

 ただ、この時間さえ続けばそれで—―それでいいと思った。


 けど。

 やっぱり間違っていた。

 だって……。

 僕のささやかな願いは、儚くも崩れ落ちてしまったから。


 それからまもなくして。

 彼女は家庭の事情で引っ越すことになり、町を去って行った。

 僕にとっての優しい時間。

 そして、淡き青春の後悔。

 それらは時の流れと共に、いつしか古き一冊へと束ねられていく。



 ◆



「スー、ハァー」

「あなた、よく深呼吸なんてできるわね。古本屋のこの匂い、私苦手なのよね」

「そう? オレは割と好きだけどな」

「……オレにとって、この匂いは青春そのものだから」

「もうなによそれ」


 賑やかな店内。僕の後に続きながら、彼女は呆れたように言葉を漏らす。

「やだ、もうこんな時間じゃない。そろそろ行きましょ」

 急ぐように。慌てたように。僕の手を引く華奢ではあるが力強く隆起した腕。その先に光る左手の薬指が小刻みに揺れる。


 青春の全てだったあの日のとは、性格も雰囲気もまるで真逆の人物。目の前を進むこの女性が、大人になった僕の今のパートナー。


 人生とは、何が起きるかわからない。

 彼女の後ろを歩きながら、僕はフッと小さく笑った。

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深呼吸レトロ 七雨ゆう葉 @YuhaNaname

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