死屍累々累々累々

しがない

 教室に着いた時、僕は人生で初めて悲鳴と絶叫の違いを知った。

 悲鳴は甲高く、誰かに助けを求めている。絶叫は何よりも声の大きさに重点が置かれていて、恐怖の対象に対する威嚇と自らの鼓舞のためにある。知ったところでどういう意味があるんだろうかと思っていると、その声に押されるようにしてたむろしていた生徒はみな教室から出て行ってしまった。

 因果関係については、推理するまでもない。僕が入って来たから、悲鳴と絶叫を三々五々にあげて出て行ったんだろう。しかし、不思議だ。僕がこの教室において蛆虫ほども価値のない人間だということは知っているけれど、それでも蛆虫以下なりに目立たないように生きてきた。幸いリスクマネージメントの取れるクラスメイト達は僕にいじめをするようなことなく今までの半年を過ごしてきたわけで、こんな仕打ちを受けたのは初めてだった。

 そもそも、これはいじめと言えるんだろうか。普通、いじめというのは看過されないし、昨今の世間の風潮からして、した側は厳しく非難されるし処罰もされる。ここまで分かりやすく他人を迫害することなんて、現代日本の高等学校においてあり得ることなんだろうか。

 ただ、考えたところで意味はない。僕が廊下に出て「教室に入ってもいいよ」と言ったところで僕を見て逃げ出した彼らが「なーんだ入っていいのか」と教室に収まってくれるはずがないのだ。僕は大人しく自分の席に鞄を置いて席に着こうとする。

 そこでふと、席に着いている影が視界の端に映り込んだ。他の生徒は全員逃げてしまったのに、世界のことを知覚できていないかのように一人席に着いている生徒。

 彼女はカフカという名前だった。あるいは、名前ではないのかもしれないけれど、少なくともそう呼ばれていた。カフカ。フランツ・カフカのカフカ。チェコ語で烏を意味するカフカ。

 どうして他の生徒はみな逃げたのか。どうして君だけは教室に留まっているのか。したい質問はあったけれど、口からは出ないまま、僕の中で溶けてなくなる。そんな質問は個人的な興味に過ぎず、聞いたところで状況が変わるとは思えない。仮に変わるとしても、わざわざ変えたいとも思わない。

 けれど、幸いなのか不幸なのか、会話は好むと好まざるに関わらず始められた。

「なあ、藤野」

 カフカがそう言った。藤野。僕のことだ。藤野姓というのはこの日本という国においてそう珍しいものではないけれど、それでもこの教室に藤野は僕しかいない。

「なに」という言葉を口にはせずに目だけで伝える。何かを言わずとも、面を上げれば会話の意志があることは伝わるだろう。

「あんた、今の自分の状況分かってる?」

 そのあっけらかんとした物言いは、癪に障った。いじめられている僕を見て、彼女は嘲笑いたいのだろうか。

 ため息を吐くことすら億劫だった。僕は返事をすることはないままで席に着く。時計を見ると時刻は八時三十分を指している。朝のホームルームまではもう残り十分といったところだけれども、クラスメイトが帰って来る気配は一向にない。

 視界が遮られ、時計が見えなくなった。カフカがわざわざ席を立って僕の前に来たのだ。思えば、誰かがこうして話すために僕の席に訪れるというのは初めてのことだった。初めてだからといって嬉しいというわけではないし、むしろ不快な気分になったけれども。

「私の声、聞こえてる? それともあんた藤野じゃないの?」

 カフカの表情と声は揶揄っているようなものではなかった。だからこそ真意が掴めない。彼女はどうしてそんなことを言うのか。クラスメイト達はどうして教室から出て行ったのか。

 知りたい。けれど、これ以上人と関わるのは面倒くさかったし、嫌だった。

 うるさいな。

 僕はそう言おうとした。いや、確かに言ったはずだった。

 ぐじゅ、という腐った何かを踏み潰したような音がする。酷く不快な音だった。それが自分の身から発せられていることに気が付くのには、それなりの時間が必要だった。

「あー、やっぱり分かってなかったんだ」

 そう言って、カフカはスマートフォンを取り出してその画面を僕に見せる。カメラのアプリが開かれていて、内側にカメラが向いている。つまり、今その画面に映っているのは僕だ。僕の、はずなのだ。

 しかし、そこに映っているのはいつもの僕じゃない。そもそも、人間じゃない。

 それを名状することは出来ない。水死体と腐乱死体と焼死体を掛け合わせてヘドロに塗れさせたような物体。そう、それはまさしく物体だった。大きさこそは人間のそれと同じではあるものの、人間と認識出来るようなものはない。目も鼻も口もなければ、そもそも顔を呼べるような部分が存在しない。

 なんだよこれ。

 そんな呟きすら漏れることはなくぐじゅ、という不快な音に再び置き換わる。どうやら、この不快極まりない音こそが僕の声になってしまったらしい。

「あんたは化け物になったんだよ、藤野」

 化け物。簡潔で端的な、これ以上ない今の僕の姿を表す言葉だった。

 これなら、逃げ出すのも無理はない話だ。そもそも、僕がクラスメイトの藤野だということ自体気付かれていないんだろう。謎の化け物が突然教室に這入って来た。悲鳴か絶叫を上げて去るほかに適する行動なんてありやしない。

 つまり、目の前にいるカフカは異常で異端な存在だった。今のこの姿を視認しても逃げることはなく、僕が藤野だということを看破までしている。あろうことか話しかけてまで来た。果たして彼女は恐ろしくないのだろうか。

「別に、これくらいなんて今時B級スプラッタでもよく見る程度じゃん? ハリウッドだったら多分もっとすごいよ。まあ、強いて言うならそれなりに臭うからそこが嫌なくらいかな」

 しかし、フィクションと現実は違うだろう。画面越しに見るエイリアンやジェイソンには啖呵を切ることが出来ても、実際に向き合えば全員等しく小便を撒き散らしながら知っている神様に片端から祈ることくらいしか出来ない。

「んー、でも中身は藤野だし、人を殺す勇気とかないでしょ」

 そりゃないけどさ。

 ぐじゅ。

「だから安心っていうこと。そりゃ私だって今目の前にいるのが得体の知れない存在Xだったとしたら窓から身を投げてでも逃げ出してるよ」

 逃げても飛び降りるんじゃあ本末転倒だと思うんだけど。

 ぐじゅ。

 あれ、違う。何かがおかしい。今、僕らは会話をしていた。けれど、僕が話す言葉は片端から全て何もかもまるっと不快な何かが腐り落ちるような音に変換されているわけで、他人に通じるはずがない。それなのに、今僕らの間には会話らしきものが成り立っていた。

「会話らしきものっていうか会話だよ」

 再び、カフカは僕の思考を読んだような言葉を発した。意味が分からない、もしかして、彼女はエスパーでも持っているんだろうか。

「そのとーり。よく分かったね」

 カフカは、そう言ってニヒルに笑った。エスパー。エスパー? 自分で考えておいてなんだけれども、そんなもの、現実にあり得るのか?

「化け物が居るんだからエスパーだって存在するんじゃないの。その恰好であり得るとかあり得ないとか語る方が妙だって」

 それはそうかもしれないけれど。

 ぐじゅ。

「取り敢えず」とカフカは仕切り直すように手を合わせる。

「学校サボろっか」

 サボるとか、そういう次元の話なんだろうか。教室の外を見ると怯え半分興味半分で生徒がこちらを覗き込んでいて、それらを抑えるように教師が立っていた。しかも先頭に立っている体育教師に至っては防犯用のさすまたまで持っていて臨戦態勢に入っている。これじゃあ仮に僕に授業を受ける意欲があったとしてもまともに授業が機能をしない。

 ため息を吐いたつもりになりつつ僕は立ち上がる。僕は学校も教室も嫌いだけれども授業妨害がしたいというわけではない。これがサボりかどうかは置いておいて、出ていくべきだろう。

 歩き始めると、べちゃべちゃという音がする。ずっと鳴っていたはずなのに、今の今まで気が付かなかった。そもそも、僕はいつからこの姿になったんだろうか。分からないし、分かったところで意味もないだろうけれど。

 ドアの方に向かうとドアの向こう側に居た生徒が一斉に逃げていく。いっそ、ここまでくると清々しくて気持ちがいいな。意地みたいなもので最後まで残っているさすまたを持った体育教師は、それでも膝が笑っている。

 手らしき何かで強引にドアを開くと、再び悲鳴と絶叫の混ざった何かが聞こえた。そんなに怖がるなら、さっさとこの化け物から離れていれば良かっただろうに、どうして見ようとしていたのか。

「きっ、貴様ぁ! 生徒から離れろぉっ!」

 体育教師は威勢よく僕に向かって叫ぶ。そう言われている僕自身が生徒なのだけれども、どうやらそうは信じてくれないらしい。というか、そもそも離れろと言われるほど生徒と近くにいることもないんだけれども、と思っているといつの間にか隣に立っていたカフカに気が付く。

 ほら、呼んでるよ。さっさと僕から離れろよ。

「だから、さっき言ったじゃん。サボろっかって」

 サボろっか、って、君もサボるつもりだったのか。

「勿論」

 何が勿論なのかよく分からないけれど、カフカはさも当たり前のように更に一歩僕の方に近づいた。臭いがどうのと言っていたけれど、気にならないんだろうか。

「はっ、離れろと言っているだろ!」

 なんか言ってるよ。

「気にしない、気にしない」

 そう言ってカフカは軽やかに歩き始める。仕方がないので僕も追いかけるようにして歩き始めると、体育教師は一歩後退する。一歩で踏みとどまったのは教師としてこれ以上なく褒められることだ。

「う、うおおおおおおおお!!!」

 体育教師は絶叫し、さすまたを僕の胴体に向けて突き付けながら突進してくる。この身体になって感情が麻痺したのか、それとも傍から見ても怯えと竦みが明らかなその姿は恐ろしくなかったのか、自分よりも体格の大きい人間が迫り来ているというのに僕は何も感じることが出来なかった。ただ、それを受け入れただけだ。

 一切の感覚はない。痛みどころか、何かが自分に触れたということすら知覚出来ない。視覚によってなんとかさすまたが自分の身体に触れているということが理解出来ているものの、それも触覚が機能をしていないせいで実感はない。

 気にせず進み続けるとじゅっ、という音がした。どうやら、さすまたが溶け始めたらしい。どうやら、僕の身体は酸性のようだ。

「ひっ」という情けのない声を体育教師は出す。僕は気にせずに進み続ける。さすまたはやがて離れ、体育教師の抵抗は虚しく終わり、そして僕は障害なく下駄箱へと向かう。

 恐らく、というか確実に異様な光景だっただろう。名状のし難き化け物と女生徒が飄々と廊下を歩き、生徒や教師が怯えと好奇心を抱えながらそれを遠巻きに見ている。こんな化け物の出現はこの世のあらゆる場所で起こるべきではないだろうけれど、その中でも朝の学校は格別起こるべき場所ではない。

 カフカは下駄箱から靴を取り出し、履き替える。僕も履き替えようとしたところでこの身体じゃ靴を履く必要もないことに気が付いた。登校時、僕はどうしたんだっけ。よく思い出せない。惰性的にやっている習慣は常に意識から外れていて、回想することが出来ない。下駄箱から教室に来る間に化け物になったのか、あるいはその前から無自覚のまま化け物になっていたのか。

 君も本当にサボるつもりなのか。

 と、僕はカフカに尋ねる。

「こっちの方が面白そうだし」

 僕を口実にサボりたいだけだろ。

「まあ、その気持ちがないとは言えないかな」

 にしし、と笑ってカフカは歩き始める。何がしたいのかがよく分からない。中身が僕だとしても、化け物であることには変わりがないだろうに、ついてきて何がしたいんだろうか。ついてきて、というよりも状況としてはむしろ僕がついていっているような気もするけれど。

 視線は感じる。けれど、誰も何も言わないし、しない。当然だろう、君子でなくたって化け物には近寄りたくない。

 僕らはそうして堂々と校門へと向かった。風の音しか聞こえない、やけに静かな午前九時前だった。

 どこへ向かうつもりなんだよ。

 と僕は尋ねる。

「行けるとこまで?」

 なんで疑問符がつくんだ。

「何も考えてなかったから。それともどこか行きたい場所でもあったわけ?」

 別に、ないけど。

「なら行けるとこまで歩こうよ。そうすれば、なんとかなるでしょ」

 何がなんとかなるのかが全く分からない。どこまで行ったところで、こんな姿どうにもならないだろう。病院に行ったら元の姿に戻れるなんてはずもない。

 けれど、だからといって代替案を挙げることも出来ず、僕らは結局当てもなく歩き始める。ただ、道があるから歩くという風に、ひたすらに歩き始める。

 化け物に変身した人間が、カフカと呼ばれているの少女と歩くというのは、どういうシニカルなんだろうな。あるいは、いっそ必然とも思えるこのシチュエーションのせいで僕の変身は彼女のせいなんじゃないかとさえ思ってしまう。

「いやいや、私のせいじゃないって。エスパーが使えるのは確かだけど、出来るのは人の考えを読むことくらいで他は何も出来ないよ。そもそも私、変身って小説読んだことないし」

 カフカって呼ばれているのに?

「別に私が自分で選んだ名前じゃないし、知らないよ。そもそも、このカフカがそのカフカさんから取ったとも限らないしね」

 それは、そうか。何もカフカという姓のユダヤ人はフランツ・カフカ以外にだっていただろう。あるいは、僕の知らない別のカフカが由来なのかもしれない。

「ねえ、変身ってどういう話なの?」

 不条理な話だよ。今まで妹のために真面目に働いていた男が、目が覚めたら毒虫になっているんだ。

「どうして毒虫なんかになったのさ」

 理由なんてないよ。最後まで意味なんて分からないまま、ただ男は突然の不幸に襲われたっていう話。

「そんなめちゃくちゃな」

 だから不条理な話だって言っただろう。

 変身に救いはない。食事は腐ったものばかりを好んで食べるようになり、家族からは疎まれる。意味も意義もない、唐突に訪れた理不尽の話。

「それで結局どうなるの?」

 男がどうなるのかって?

「そう」

 死ぬよ。死んで、お荷物のなくなった家族は新天地へと向かうんだ。まるで家族想いの兄なんて元から存在しなかったみたいに晴れやかにさ。

「そりゃ惨いね」

 ああ、酷いよ。

 あんまりな話だといつも思う。どこまでも救いがない。どうせ人生なんてどこまでいっても救いがないんだから、せめてフィクションの中くらい報われたって、救われたっていいじゃないか。

 僕も、そうなるんだろうか。変身の果ては救いのない死でしかなくて、結局無為に野垂れ死ぬことになるんだろうか。

 それは、案外僕にお似合いな気もした。少なくとも、その結末は真面目に働いていたグレゴール・ザムザより惰性的に命を浪費している僕の方が相応しい。蛆虫が化け物に変わったところで、そう大差はないのだ。どうせ僕がそこら辺で死んだところで世界は平常通り回り続ける。

「あんたってほんとに暗いね」

 突然思考に割り込まれるような言葉を投げかけられ驚く。ああ、そうか。僕が伝えようとするとかしないとかに関わらず、彼女は僕の思考を読むことが出来るのか。言葉を発することが出来ない立場として理解者が居ることはそれなりに嬉しかったけれど、それでも普段の思考まで覗かれるのはあんまりいい気分はしない。

「私だって好き好んで他人の考えなんて読みたくないっての。勝手に分かっちゃうんだからしょうがないでしょ」

 僕が化け物になったように、カフカは他人の思考が勝手に読めるようになってしまった、ということか。

「そういうこと」

 それは、どれくらい憐れなことなんだろうか。自らの意志に関わらず、むしろ多くの場合は意志に反して、無限に近い情報が頭の中で響き続ける。そんなもの、殆ど拷問だ。生きているだけで、クソみたいな声ばかりが聞こえ続ける。他人に寄り掛かろうとしても、その人間の本心が、本質が見えて逃れられない。

 利他は利己の裏返しだ。誰かを助けようとする気持ちの根っこには必ず他人に好かれようとする企みか愛他的な自分への陶酔が含まれている。元々人間に期待なんてことはしてないけれど、そんなものを見せつけられ続ければ僕はさっさと厭世の末滝にでも身を投げていることだろう。

「だから、思考が暗すぎ。そりゃ、自分の利益のために何かをしてくれる人っていうのもそれなりにいるけど、純粋な親切心とか優しさみたいなもので動いてくれる人だっているって」

 果たして本当にそうだろうか。

「じゃあ藤野は人間のこと知ってんの? 心が読める私より」

 そう言われると、何も言い返せない。そもそも、僕は恐らく心を読めないただの人間よりも人間のことを知らない。蛆虫以下に人間の心も生態も分かるはずがないのだ。

「そもそもさ、人間のそういう汚い部分を見て失望するってことは藤野は人間は綺麗なものだって期待してたってことだよね」

 どうしてそうなるんだよ。

「期待がなければ失望はないでしょ。幸福がなければ不幸がないように」

 意外と藤野って、夢見で人間好きだよね、と言ってカフカは笑った。

 なら、人間好きが化け物に成り果てたのは、何の結果なんだろうか。

 僕は、自分が誇らしい生き方をしてきたなんてまさか思えない。最低か、それより少しマシな生き方をしてきたという自覚はある。それでも、化け物にされるほどのことをした記憶は一切も合切もありやしないのだ。

「戻りたいと思う? 人に」

 ……さあ、どうだろう。仮に僕が夢見な人間好きであったとしても、好きとそれになりたいは違う。案外、僕は僕らしいこの姿のままでいる方がいいのかもしれない。

「それは、誰にとってのいいことなの?」

 あらゆる他人と、僕にとって。

「ふーん、自分勝手だね」

 あっけらかんと言われた心の柔らかい部分を刺すような言葉についての思考は悲鳴によって容易く解かれた。どうやら、通行人がようやく僕のことを見つけたらしい。

 何かの映画の撮影だとでも思ってくれないものかな。

「カメラもないし難しいんじゃない? いきなり出てきたら誰でも悲鳴のひとつくらいあげるって」

 君はあげてなかったじゃないか。

「いや、私もあげたよ。その後で藤野だって気が付いたから冷静になれたけど」

 あげたんだ、悲鳴。カフカが悲鳴をあげているところはどうも想像することが出来ない。

「私をなんだと思ってるんだよ」

 さあ、なんだと思ってるんだろうな。話したこと自体今日のさっきが初めてだったから、僕はカフカに対する認識を未だ固めきれていない。強いて言うなら、こんななりをしている化け物に付き合う酔狂な、あるいは頭のおかしな人といったところだろうか。

「酷い認識だなあ」

 それくらい自分の行動が常軌を逸しているものだということを自覚すべきなんじゃないかな。腐り落ちたみたいな化け物と一緒に学校から抜け出すのはどう考えても異常だ。

 というか、君こそ僕のことをどう思ってるんだよ。どうして一緒についてこようとしたんだよ。

 もし僕が逆の立場で、化け物となっているのがカフカだと分かったとしても、僕は素知らぬふりを貫き通して化け物が学校から去るのを待っていただろう。話したこともないクラスメイトに対してそこで手を差し伸べる義理なんてないし、差し伸べたところで出来るのは一緒に堕ちることだけだ。義理があったとしてもする意味がない。

「それは別に難しい理由じゃないよ」

 というと?

「私が個人的に藤野のことが好きだから」

 好きだから。

 好きだから?

「そう、好きだから」

 分かってるから、繰り返さないでくれ。なんというか、妙な気分になる。この期に及んで冗談はないだろ。

「冗談だと思うんだ」

 僕と君が話したのは今朝が初めてだ。幼い頃離れ離れになった幼馴染も、ひと夏の冒険をした女の子も、僕の人生において伏線は存在しない。君が僕を好きになる理由がない。道理が、筋が通らない。

「藤野は物語の見過ぎだね、世の中が全て筋道立てて作られてなければいけないと思い込んでる」

 結果には原因が必ず付随する。

「それはそうだな。でも、その原因が全て理解の出来るものとは限らない」

 ……はぐらかそうとしているのか?

「べっつにー、そういうわけじゃないけど。ま、種明かしをすると私は藤野の頭の中を勝手に見てたからね、話したことがあるとかないとかそういうことに関わらず藤野について知ってたわけ」

 分かった、確かにその話なら納得はいく。いくが、あくまでも机上論に過ぎないだろう。僕の中身が知られたとして好かれるような中身だと思わないし、むしろ中身について知られれば知られるほど嫌われるはずだ。

「そうかな、自分より下の人間が確実に存在していることを知るのって結構安心出来るようになるよ」

 ……僕は慰みものの扱いかよ。

「あはは、冗談冗談。いや、半分くらいマジだけど、半分は冗談」

 半分マジな時点で冗談だと笑って流せないと思うんだけれども。そんな僕の抗議は都合よく聞こえてないみたいな風にして、カフカは話を続ける。

「藤野ってさ、さっきも言ったけど夢見じゃん」

 そう、なのか?

「そうそう。ピュアっていうか純朴っていうかさ、そういうのって愚かな美徳だと思うよ」

 ……君は僕を貶したいのか褒めたいのかどっちなんだ。

「褒めてるつもりだよ、うん。なんていうんだろうな、君の考えって他の人間に比べてすごいシンプルなんだよね」

 そういうつもりは、ないけど。

「そりゃ意識して出来ることじゃないもん。普通、人ってもう少し現実的で複雑なんだよ。自分の考えと他人のための考えと常識と倫理観を混ぜ合わせて、それから行動を起こす。でも、君は後者の三つが全部欠けてる」

 それだけ聞くと僕がサイコパスと呼ばれるような人間に思えてくるね。

「サイコパスっていうよりももっと単純にわがままで自分勝手って言った方が正しい気がするな。都合の悪いことは全部蛆虫以下の自分のせいにして、都合のいいことからは意図的に目を逸らし続けている」

 それじゃあ自ら進んで不幸になっているみたいだ。

「そうなんじゃない? まあ、不幸って生温いし居心地いいし、浸かりたくなるのも分かるよ」

 不幸は居心地がいい。なるほど、確かにそうなのかもしれない。幸福でなろうと足掻くことは苦痛だ。苦行だ。ならば、僕の自己評価はそのための自己憐憫に過ぎないのだろうか。

 違う。僕は誇張も卑屈もなく、自分が蛆虫以下な人間だということを知っている。これは純粋で真っ当な評価だ。自己欺瞞も自己憐憫もない、ただ真実を見据えているだけの事実。

「歪んでるね」

 かもしれない。だからこそ、僕は化け物になったのかもしれない。

 悲鳴と絶叫がいつの間にか今までよりも大きくなっていることに気が付いた。どうやら、気が付かないうちに街の中にどんどんと足を踏み入れていたらしい。

 このまま進んでもいいのかな。

「まあ、引き返したところで何もないし、進もうよ」

 進んだところで何かがあるとは限らないだろうに、どうして進むことを選択し続けられるんだろうか。僕には分からないし、出来ない。それでも、彼女についていくようなかたちで僕は進む。

 街には人が居ない。より正確に言うと、居た人はみな僕のせいで去って行く。僕の見た目はどうやら、僕が思っている以上に恐怖を与えるフォルムをしているらしい。世の中の醜悪を詰め込んだような見た目。名状し難きこの姿を強いて言葉にして表すとしたら、そんなところだろうか。

 映画のヒーローのように立ち向かって来る人間なんていうのは未だ一人も見ない。ああ、体育教師がそれだったか。案外、彼はこの世界の主人公だったのかもしれない。それにしては、あまりにもあっけなく情けなく僕の前から退場したけれど。

 足元でにゃー、という声がした。その方を見ると、猫がいる。醜悪だとかそういうことを気にせずに僕に近寄って来る猫。元より動物の思考なんて読めやしないけれど、この時に限っては特にその動物が奇妙なものに見えた。

「おー、猫ちゃんじゃないですか。どしたのよ君、こんなのに近寄ってきて」

 そんな猫を撫でるような声を出して、ひょいとカフカはそれを持ち上げた。猫にちゃんとかつけるタイプなんだ。それに、僕に対する二人称はあんただったのに、猫に対しては君なのか。

「そりゃ藤野なんかよりもずっと猫ちゃんの方が価値があるに決まってるじゃない」

 それは猫の価値が高いのか僕の価値が低いのか、どっちなんだろうな。さっきまで好きだのなんだのと言ってくれていた割にあんまりにもな格差である。

 しかし、猫は逃げないのか。人間は容姿で物事を判断するという事実に対するシニカルなのか、僕みたいな化け物は人間社会からとっとと出て行って自然にでも帰りなさいという暗示なのか。特別猫が好きというわけではないけれど、人の手の届かないところで野良猫に囲まれながら暮らすなんてことが出来たら面白いんだろうな。

 カフカは猫を抱えたままで再び歩き始める。それ、持って行くつもりなのかよ。

「こうして会ったのも何かの縁かもしれないじゃないですか」

 何の縁でもないだろ。ただの偶然だよ。

「世界は何もかも偶然だよ。そこに意味とか価値を見出すのが人間なんじゃないの」

 あるいは、そうかもしれない。ダイヤモンドや金にしても、人がその価値を定めなければただそこら辺に転がる石ころでしかないのだ。物事の意味や価値というのは世界が決めたものではなくて、人が都合よく勝手に決めつけているものに過ぎない。

 僕が化け物になったのも、カフカがエスパーに目覚めたのも、ここで猫にあったのも、縁であり必然。もし神様がいるのだとしたら、きっと僕と同じくらいに性格が悪いんだろう。猫以外の何もかもが、あんまりにも残酷だ。

 カフカに抱かれた野良猫は街に住んでいて人に慣れているのか、取り立てて抵抗らしいものを見せることもなく、あろうことか欠伸までしてカフカの腕の中に納まっている。気楽でいいな、猫は。触ってみようかとも思ったけれど、さすまたを溶かしたことを思い出してやめた。

「あはは、猫を触れないなんて可哀想に」

 全くだよ。この身体になって、一番困ったことかもしれない。

「なら早く人間に戻ればいいのに」

 戻ろうと思って戻れるならな。

「きっとそうだよ。そういう風になっている」

 君は、変身の結末を聞いてなかったのか。男は死ぬ。理不尽に、不条理に押しつぶされて、意味も意義もなく死ぬ。治療方法なんて存在しないんだよ、ただ死ぬだけだ。それだけだ。

「知識人ぶってる人の欠点だよね、そういうところ」

 そういうところ?

「身勝手に符合を見出して、これはこういうことなんだ! って思い込んじゃうの。世界ってそんなこと考えて回ってないっつの」

 果たしてそうだろうか。

「そうだよ。藤野は人間に戻れるし、戻る」

 はっきりとした言葉だった。何も根拠はないのにいやに心強い言葉。こういう言葉を聞くと、僕みたいな人間はかなり参る。実際に人間の真っ当さに中てられると、自分の惨めさみたいなものが改めてまざまざと感じられてしまう。

 にゃー、と猫が鳴いた。僕の事情とか思考なんていうのは猫には関係がない。

「例えば、私がキスなんかをしたら藤野は人間に戻るのかな」

 んな馬鹿な。

 なに突然訳の分からないことを言ってるんだこの人は。どういう道理でその結論に行き着いたのかの意味が分からない。

「あー、でもその恰好だと口がどこか分からないからキスが出来ないか」

 そういう問題じゃなくて。

「今の藤野の状態だと私の口も溶けちゃうもんね」

 そういう問題でもなくて。

 カフカの感情が結局よく分からない。好き云々という発言を、結局僕は戯言の一種だと思って流していたけれど、本気なんだろうか。まさか、あり得ない。

「でも、仮にキスをして戻るんだとしたら、私は藤野にキスするよ」

 ぬけぬけとカフカはそんなことを言う。冗談であれ本気であれ、こういうことをさも当然のことのように言える人間が僕は苦手だ。人間と人間の間の絶対的に埋まるはずのない距離感を確実に測り損ねている。

 猫は持ち手とその隣に居る化け物のことを特に気にすることなくごろごろと喉を鳴らす。なんというか、呑気でいいな、猫は。

「呑気って言っても猫にも猫で大変なことはあるんじゃない?」

 そりゃあるだろうけど、でもこうして抱きかかえられて欠伸が出来るなんてのはやっぱり羨ましいよ。

「え、何。藤野も私に抱きかかえられたいの?」

 そういうことじゃなくて。そもそも今の僕を抱きかかえるなんてしたら手が溶けるだろう。

「じゃあ戻ったらして欲しいの?」

 なんでそうなるんだよ。恥ずかしがっているわけでもなく、単純に嫌だった。他人に触られるのが好きじゃないというか、一言で言うならパーソナルスペースとか言われるものが僕は恐ろしく狭いんだろう。

 他人の温度というのはなかなかどうも薄気味が悪いものだ。人肌は人間が最も落ち着くことの出来る温度だという言説もあるけれど、あの生きている感じが僕は好きじゃない。人間ほど恐ろしいものなんてないだろうしさ。

「ふうん、難儀だね」

 難儀だと思うよ、我ながら。

「でも、時々無性に人肌恋しくなったりとかしないわけ?」

 しないな。あるいは、したとしてもその気持ちをさっさと殺しているか。

「いや、なんで殺すのさ」

 他人に頼ることが好きじゃないから。より正確に言うなら、他人に弱みを見せることが好きじゃないから。

「頼ることは弱みを見せることじゃないでしょ」

 そうかな。自分独りの力じゃ出来ないところを他人に露呈させるっていう意味では弱みを見せると同義だと思うんだけど。

「誰だって、元より一人じゃ生きられないんだし、そういう生き方は厳しすぎるんじゃない?」

 でも、独りで生きるには必要なんだよ。

 誰かに弱みを見せれば、そこに付け込まれるし、何より自分自身の耐久性が下がる。僕自身が弱いなんていうことは確認するまでもなく分かっていることなんだけどさ、それが他人に知られることによって不可逆的に決定されてしまう気がするんだ。

「強い人間なんていないでしょ。みんな弱いよ」

 仮にそうだとして、自覚しているのとしていないのでは大きく異なるよ。僕は、これ以上自分の弱さを自覚したくないんだ。

「目を逸らすんだ」

 逃げるのは人生における処世術のひとつだよ。

「目を逸らすのと逃げるのは違うよ、全く。私は逃げることを否定しないけど、その場を凌ぐためだけに目を逸らして解決したつもりになるのは嫌いだな。個人的に」

 自分なんていうものはどこまでいっても不可分で、ついて回る。だから、目を逸らすしかないんだ。切り離すことが出来ないから、その場凌ぎでも誤魔化し続けるしかないんだよ。

「なら向き合うしかないんじゃないの。目を逸らすんじゃなくて。どうしようもないって時は人間生きてれば何回かあるだろうけど、そういう時に腹を決めて向き合わないのは、愚かだよ。現実は必ずいつか、追いついて来るんだから」

 それが言えるのは、出来るのはカフカが強いからだ。そういうことが出来ない人間が居るということを、君は知るべきなのだ。

「出来ないじゃなくてするしかないんだよ。生きるってそういうことなんだろうし」

 随分と苛烈なことだ、生きるって。全く、嫌になる。

「止まれぇ!」

 不意に聞こえたその声に面を上げると、そこには警官が居た。しかも、僕に向けて拳銃を突き付けている。仕方がないので、僕は止まるしかない。こんな化け物になっても、拳銃で撃たれるのなんて御免だ。

「そこの子、さっさとそれから離れなさい!」

「なんでよ」

「なんでって、危険だからだ!」

「何もしてないのに危険って笑わせるね」

 カフカは拳銃なんて見えてないみたいにくすくすと笑った。猫も同調するみたいににゃー、と鳴いた。僕と警官、カフカと猫では住んでいる世界のレイヤーがどうもズレているらしい。

「私はこれの友達なの。だから一緒に居るし一緒に行く」

「友達って……、君はそいつの正体を知ってるのか?」

「うん、藤野」

 なんの説明にもなっていないんじゃないだろうか、その説明は。いきなり藤野なんていう苗字を言われても、まさか人間の姓と目の前の名状し難き化け物を結びつけることも出来まい。

「と、ともかくそいつから離れてこっちへ来なさい!」

「もー、分からない人だな。ようするに私はこれから離れたくないの。オーケー?」

 警官はぐるぐると目まぐるしく表情を変える。僕への恐怖、カフカに対する対処への思案、警官としての仕事。さまざまなものが頭の中をもの凄いスピードで回っているんだろう。公務員というのも、楽な仕事じゃないらしい。

「そんなに拳銃が撃ちたいんなら私を撃ちなよ。それか退くか。どっちかにして」

 そう言ってカフカは僕と警官の間に立ちはだかった。本当に理解が出来ない。彼女は、何がしたいんだろうか。僕みたいなのより、よっぽど意味不明だし、化け物じみている。倫理とか恐怖みたいなものが頭から抜け落ちてしまっているんだろうか。

 警官は拳銃を構えながら小さく震えている。それは僕に対する恐怖なのか、カフカに対する憤怒なのかは分からない。

「ほら、行こう藤野。こんなのに構ってるだけ無駄だよ」

 警官の警告を無視してまで僕らに向かうところなんてあるんだろうか。

「じゃあ大人しく撃たれる?」

 それも御免だけどさ。

 僕がずず、とどろどろの身体を引き摺って歩き出そうとすると、何か世界の大切なものが破裂したみたいな不気味な音が響いた。警官が、威嚇射撃をしたのだ。猫はその音に驚いたようでカフカの腕から降りて行ってしまう。

「そ、それ以上進んだら本気で撃つぞ」

「一般市民に向けて撃つつもり? 正気?」

「そんな得体の知れないものを放っておくことは出来ない!」

「得体の知れないっていうよりも正体を知ろうとしてないだけじゃないかな」

 やれやれ、とでも言いたげにカフカはため息を吐く。威嚇射撃にはまるで怯えても怯んでもいないようだった。しかし、それは勇敢というより蛮勇と言うんじゃないか。

「蛮勇でもなんでも、間違ったことには抵抗しなきゃいけないんだよ」

 社会も世界も、間違ったものを受け入れながら生きていくしかない。意地を張るのは、子供っぽいわがままだ。僕よりもよっぽど夢見じゃないか。

「そうだよ。私は夢見だよ。でも、それの何が悪いのさ。誰だって理想論を語って、綺麗ごとを並べたいでしょ。正義をかざして、愛を信じたいでしょ。現実を見てますなんて顔をして斜に構えて、陳腐な理想を嘲って、それの何が恰好いいわけ?」

 カフカは警官の方を向きながら僕に向かって話す。

「不条理だとか理不尽だとか言って、じゃあどうしようもないねって、僕たちにどうこうすることも出来ないことなんだって割り切って。それって最低にダサいよ」

 彼女は不条理を否定する。

「泥臭く生きろだなんてことは言わない。けど、本当に大切なものは無理だと分かってても足掻いて、もがいて、死に物狂いで手を伸ばさなきゃいけないんだ。そうじゃなきゃ、自分が自分じゃなくなる。一般論によって普遍化されたよく分からない何かだけが残るようになる」

 ……誰だって、そんなものだよ。生きるっていうのは、大人になるっていうのは多分、どうしようもないことに折り合いをつけていくことに慣れることなんだから。

 カフカは一歩、警官の方に進む。警官は何やら喚いているけれど、その声は僕には届かない。

「なら私は子供のままでいい。論理も合理も要らない」

 彼女は不合理を肯定する。

「私は私の正しさの中を進む」

 僕には出来ない。正しさの中を進むには、強さが必要だ。傷つく覚悟が必要だ。

「傷つかない限りは何も得られない。仮に得たとしても、それは得たつもりになっているだけだ」

 でも、正しさは何も生まない。その果てに、死ぬかもしれない。

「それでもいいんじゃないの。形骸化した存在としてじゃなくて、私は納得をして死にたい」

 歪んでいるよ。

「だろうね」

 彼女の言っていることはようするに、自分勝手でわがままな、子供っぽい夢想だ。けれど、夢想も突き詰めれば現実になる。カフカは警官に向かって歩き続ける。

「ちっ、近寄るな!」

 警官の表情にはありありと恐怖が浮かんでいた。それは化け物足る僕に向けられたものではない。暴力的なほどに純粋で理解不能な、カフカに向けられたものだ。

「近寄るよ。私たちはあんたを通り過ぎなきゃいけない。進まなきゃいけない」

 私たち?

「そう、私たち」

 カフカは僕の方を振り返って笑った。

「進むんだよ、藤野も」

「止まれ!」

「止まらないっつってんだろうが! 撃てるもんなら撃ってみろよクソポリ公!」

 その言葉がまさしく引き金だった。警官はリボルバーの引き金を引いて、そして弾丸は射出される。この世で最も暴力的な鉛の塊は、不可逆的に9mmの銃口から放たれる。

 条理も合理もなかった。陳腐だけれども最も適している言葉を遣うのであれば、身体が勝手に動いていた。僕は、ぐずぐずでどろどろな最悪の身体を引き摺って、銃弾とカフカの間に入り込んでいた。

 何かが身体を貫いた感覚がする。痛みはなくて、妙な熱さだけが疼痛のように胸に現れる。どうやら、銃弾はしっかりと僕の身体で受け止められたらしい。

 気が抜けたのか、耐えきれなくなったのか、ヘドロのような身体は重力に従うまま地面に墜ちる。べちゃり、という薄気味の悪い音がした。全く、どこまでいっても恰好のつかない身体なことだ。

 空が見える。底抜けに青くて明るい空が。

「大丈夫?」と言ってカフカが顔を覗かせる。

「銃弾に身体を貫かれたことを大丈夫というのなら」

「なら大丈夫だよ」

 他人事だからとよくまあ、そこまで楽天的なことを言えるものだ。庇ったことに後悔はないけれど、それでも忌々しさみたいなものを覚える。

「これも、想定の内か?」

「まさか。撃たれて死ぬならそこまでだと思ってたよ」

「……馬鹿だよ、君」

 本気で死ぬつもりだったのかよ。本当に、どうしようもない馬鹿だ、こいつは。

 にゃー、という声がして気が付くと猫が顔の近くに来ていた。お前は相変わらず呑気だな、と思っているとぞりぞりとした舌で顔を舐められる。なんだか顔が削られるみたいで気味が悪い感覚だった。

 カフカが屈みこんで僕の顔を見る。キスがどうのこうのと言っていたせいで何が起こるのかと腹の底がふわふわとした妙な気分になったが、何をするでもなくカフカはにっ、と笑った。

「こりゃキスは必要ないらしいね」

「は?」

「あれ、残念だった?」

「いや、そういうことじゃ、なく、て」

 僕はようやく気が付く。ぐじゅ、という不快な音でもなく、心を覗き込まれるわけでもなく、自分の声で会話が為されているという事実に。

 身体を見ると、良く分からない腐敗したような残骸の中に人間の身体がある。元に戻って嗅覚もまともになったのか、自らが放っていたらしい異臭も感じ取ることになる。それは脳味噌をかき回されたみたいな最悪の臭いだった。

「お疲れ様」

「ああ、なんだか、とんでもなく疲れたよ」

「でも、死んではいないし、家族に見捨てられてもない」

「……そうだな」

 現実とはかくも不条理で、理不尽だ。突然化け物になることだってあるし、エスパーに目覚めることもある。そういうものはどうしたって避けられないし、起こってしまった以上どうにもならない。

 それでも、僕らは進まなくてはいけないのだろう。生き続けなければならないのだろう。そうすれば、いつか報われることもある。かもしれない。

 意味も意義もなくても、抗い続けることこそが人生ならば、蛆虫以下なりに歩き続けるべきよう。死ぬまでとまで言うことは出来ないから、取り敢えず少しだけ。少なくとも、どこかのエスパーに心を覗かれている限りは、そうしないといけないと思えるのだから。

「……僕も、君のことは嫌いじゃないと思えてきたよ、カフカ」

「濁して言っても、私には分かるってことを忘れてない?」

 そう言ってカフカは悪戯っぽく笑った。

「単純だなあ、藤野は」

 悪かったな、単純で。

「そこも、嫌いじゃないけどね」

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死屍累々累々累々 しがない @Johnsmithee

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