第21話 後日談
うららかに晴れた空は少し霞んで、ぬるくなった風が緩やかに頬を撫でる。穏やかな春の休日、透子は公園の片隅でぼんやり遠くを眺めながらため息をついていた。近くの遊具広場では子供たちの元気な声が響いていて、その隣の広場には、今を盛りと咲くソメイヨシノを見に、散策する人たちが集まっている。
二年近く、休みの日はあの店に通っていたから、すっかりそれが習慣になっていて、家にいるのもなんだか落ち着かなくて、こうして出てきてしまうのだけれど、どうしても途中で足が止まってしまって、今日もこうして近くの公園で時間をつぶしている。
「あれ?透子ちゃん?」
何度目かのため息をついたとき、妙に明るい声が聞こえてきた。
「あ・・・凪さん。」
「やあだ、どうしたのよ、こんなところで。」
「ちょっと・・・凪さんは?」
笑顔で近づいてきたケーキ屋の凪さんは、透子の隣に腰を下ろしながら手に持った包みを掲げて見せた。
「配達の帰りよ。ついでにランチ食べて、これは旦那へのお土産。」
「お店、この近くでしたっけ?」
「ちょっと方向違うんだけど、桜が見頃じゃない?せっかくだから見てこうかなあって。で、透子ちゃんは?」
「私は・・・」
言いよどんで、口をつぐむ。自分でも、何をしているのか、何がしたいのか分からない。ずっと、もやもやした思いが心の底にあって、それがだんだん膨らんで、何をしようとしてもそれが絡まってきて足が止まってしまう。首をかしげるように見ていた凪さんは、ベンチに寄りかかって少し遠くに視線を向けた。
「和也君ねえ、あれからポンコツなのよ。」
「・・・え?」
「いつも気がそぞろで、注文間違えそうになるし、焦がすし、豆の量間違えそうになるし。この間のお休みは、透子ちゃん来なかったじゃない?余計にひどくてね、オーナーがいっそ店を閉めた方がいいかなってため息ついてたわ。和也君、よくやってると思ってたんだけどねえ。透子ちゃんがいるから頑張ってたのよね。」
「どう、かな?」
「どうして?」
「時々、距離を感じるんです。最初は、気のせいだって、思おうとしたんですけど。どこか遠慮があるというか、それ以上近寄れないというか。」
「付き合ってほしいって、和也君から言ったんじゃないの?」
「そう、なんですけど。そのときは、私もすごく嬉しくて、舞い上がっていたんだと思います。でも、落ち着いてくると、いつも壁があるような感じで。」
最初はそれでもよかった。会えるだけで、話ができるだけでうれしかった。でもだんだんと、違和感を感じるようになった。話し方も、触れ方も、いつまでたっても距離が縮まる感じがしない。
「一緒にいてもいいのかとか、彼は本当はどう思っているのかなとか、色々考えてしまって。」
このままで大丈夫とか、自分がそこにいて良いのだという自信がない。
「このままでいいのか、この人でいいのか、他の選択肢があるんじゃないか。」
「え?」
ぽつりと呟く凪さんに、目を瞬く。
「そんなこと考えたことあったなあ、私も。ちょっとだけど。」
「凪さんが?」
「そ。私だけかと思っていたけど、そうでもなかったわね。なんでかしらねえ。順調なはずなのに、ふと不安になったりするのよ。つまずいたときなんかはなおさらね。」
「不安・・・」
このモヤモヤした感じを言葉にするなら、そうなのかもしれない。
(私、不安だったんだ。)
だからあの時、突き放されたような気がして、泣きたい気分になって、彼と向き合うのが怖くなったのだ。
「私から見ると、二人はいい感じに見えたけどね。まあ、遠慮があるといえばそうかもしれないけど、尊重してるとも言えるんじゃないかな。大事な人だから。」
「正直、分かりません。和也がそんな風に思ってくれているのか。話をしなきゃとは思うけど、なんだか怖くて。」
「信じてやんなさい。不安をぶつけることも、時には必要よ。遠慮があるのはお互いさま。透子ちゃんからも距離を縮めなきゃ。そんで、もし和也君が見込み違いなら教えてちょうだい。懲らしめてやんなくちゃ。」
「・・・何をするんですか?」
凪さんはにやりと笑った。
「和也君のケーキに唐辛子を仕込んでやるわ。激辛のやつ。」
「・・・それは、ちょっと。」
凪さんと別れて、公園の中を移動しながらも、まだ彼と顔を合わせる決心は固まらない。広場から離れる散策路は人がまばらで静かだ。植えられた木々の中に、まだ若い枝垂桜がある。広場のソメイヨシノは満開で、華やかに咲き誇っているが、この枝垂桜はまだ枝ぶりも細くまばらで、おとなしい印象だ。そのせいか、花を見に来た人たちは広場に集まっていて、この木に目を止める人は少ない。
透子は桜が好きだった。特に山桜や枝垂桜を見ていると、ほっとする。そこにいると、何かいいことがありそうな気がして、子供の頃は暗くなるまで桜の下で遊んでいたこともあった。
透子はその枝垂桜に手を伸ばした。大きなものなら頭上を覆わんばかりに枝を広げ、天から降るように花が咲きこぼれているのだろうが、その若木は、透子がほんの少し見上げる程度である。それでも細くしなやかな枝には、しっかりとした薄紅の花がかわいらしく並んでいた。
何かとても、懐かしい気がする。そういえば、二年前のあの時も、桜を見ていた。上野公園であの人と会って、心が弾むのに離れなければいけないような気がして、逃げるようにその場を去ったけれど心は残ったままで、どうしたらよいか分からないまま、目の前に現れた桜を見上げた。その時にも感じた懐かしさ。なんとなく、待ち続けていた何かを見つけられるような気がして佇んでいた時、あの人がやってきたのだった。
「透子!」
その声は透子の心を揺らし、なぜか涙が出そうになった。ゆっくり振り返ると、和也がいた。エプロンをつけたまま、急いで走ってきたように肩で息をしている。
「透子。」
和也は大股で近づいてくると、透子の肩に手を置いた。
「良かった。」
そのまま包み込むように透子の背に手をまわして、大きく息を吐く。
「もう会ってもらえないかと思った。」
耳元のくぐもるような声が、少しばかり心細そうで、それが少し意外な感じがした。彼はいつもどこか先を見ていて、気弱なところを見せたことはなかった。和也はしばらくそうしてから、ゆっくり体を起こした。
「ごめん、透子。俺、ちゃんと言ってなかった。勝手に、伝わってるもんだと思ってた。」
彼の気持ち、彼の思い。勝手に想像して、そのたびに一喜一憂していた。自分から話を切り出せればよかったのかもしれないけれど、何となく怖くて、聞くことはできなかった。
「私も言い出せなかった。和也がどう考えているのかわからなくて、不安で、でも何となく流してしまってた。でも、ちゃんと話さないと駄目だよね。だから教えて。和也は、どう思ってるの?」
和也はうなずいて、少し緊張したような顔で、大きく深呼吸をした。風はゆるやかに流れて、人のざわめきは遠くから聞こえてくる。もしかしたら、きちんと向き合ったのは、初めてかもしれない。
「目標があるんだ。それを達成したら言おうと、ずっと思ってた。もう少しで、その目標に到達する。そうしたら、結婚、してくれないか。」
なにか、こみ上げてくるものがあって、目頭が熱くなる。
「うん。」
笑って頷こうとしたのに、なぜか涙がぽろぽろと落ちてきて、うつむきながら何度も頷いた。和也は肩に手をまわして、落ち着くのを待ってくれた。
ふと気づくと、小さな子供がすぐ近くにいて、透子を不思議そうに見上げていた。恥ずかしくなって、慌てて手で涙をぬぐっていると、子供は親に呼ばれたのか、おぼつかない足取りでどこかへ走っていった。その姿を目で追っていると、和也がぽつりとつぶやいた。
「いつか、さ。子供が出来たら、ここに連れてきたいな。この道を一緒に歩いたり、桜を見たり。」
透子が和也を見ると、和也は傍らの若い枝垂桜を見上げた。
「それでさ、もっと先、孫でもできるような年になっても、二人で一緒に、ここに来れたらいいな。」
桜の下にいると、何かいいことがあるような気がしていた。
この人の姿を見つけた時、ずっと待っていた何かは、この人だったのではないかと思った。この先ずっと寄り添って、共に生きて、そうしていつまでも穏やかに桜を眺めていられたら、とてもいいと思う。
「うん。きっと、二人で来ようね。」
手をつないで去っていく恋人たちは、ひときわ暖かな空気をまとっているように見える。見送る幼子は、ふいと笑うと、風に溶けるように光となった。淡い萌黄色の光は風と戯れ、枝垂桜を巡る。
『待ってるよ。きっとだよ。』
楽しそうなその声は小鳥のさえずりに紛れ、空へ吸い込まれていった。
紅想歌(くれないそうか) @tukifuyu
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