不思議な本屋さん

平 遊

不思議な本屋さん

 夫の執拗な言葉の暴力に耐えきれず、ようやくのことで離婚に漕ぎつけた私は、離婚を機に実家へと戻ってきた。

 いわゆる、出戻りだ。

 実家ももともと裕福では無い家庭で、両親ともに今はつましい年金暮らし。

 専業主婦で、一刻も早く夫と別れたかった私は、無一文での出戻り。

 両親の反対を押し切っての結婚の結末がこんな形になるとはと、情けない限りではあったが、そんな私に何を言うでもなく、両親は傷ついた私を温かく迎え入れてくれた。


 そうはいっても、いつまでも年老いた両親に甘えてばかりいるわけにもいかないと、仕事を探し始めたものの、離職後かなりのブランクのあるなんの資格もない私がそう簡単に仕事を見つけられるはずもなく。

 焦りと情けなさと虚しさを抱えて、実家への道を歩いている時だった。


「あれ?ここって…」


 実家からそれほど離れてはいない場所に、ポッカリと空いた更地。

 以前は何があっただろうか。


 立ち止まり、古い記憶を手繰り寄せていると。

 向かいから、母親に手を引かれた小さな女の子が、片手で大きな絵本を抱きしめて、ニコニコしながら歩いてきた。

 その瞬間。

 色褪せた古い記憶が、鮮明に蘇った。



 ※※※※※※※※※※



 当時小学校の低学年だった私は、親友と大喧嘩をしたことがきっかけで、クラスでひとり浮いていた。自分が悪かったということは分かっていたのだが、どうしても素直に謝れず、日を追うに連れて意固地にもなっていた。

 ただ。

 泣いたら負けだと。

 毎日ひとりで涙を堪える日々。

 泣かないことが、ひとりで耐えて自分を曲げないことこそが強さなのだと、そう信じていたから。


「どうしたの?」


 涙をこらてえ歩いていた、学校からの帰り道。

 突然掛けられた優しい声に、私は顔を上げた。

 そこにいたのは、眼鏡をかけ、パーマでもかけているのかフワフワとした髪の毛の優しそうなお兄さん。でも、見たことのない人だった。


 知らない人には気をつけなさい。


 日頃、両親や学校の先生からそう言われていた私は、体を固くしてお兄さんから目を逸らした。

 その拍子に、涙がポロリと頬を伝い落ちる。


「さやかちゃんにオススメの絵本があるんだ。読んでみない?」


 私の目線に合わせるように私の目の前にしゃがみ、流れ落ちた涙をハンカチで優しく拭いながら、お兄さんが言った。


「えっ?」


 思ってもみない言葉だった。

 大人が言ういわゆる『誘拐犯』は、おもちゃやお菓子で子供を巧みに誘惑するという。

 けれども、お兄さんが口にしたのは、『絵本』。

 おまけにこのお兄さんは、私の名前を知っていた…名前がすぐに分かるようなものは、何ひとつ身につけてはいなかったというのに。


「お兄さん、誰?」


 既に興味が警戒心を上回っていた私は、お兄さんの目をじっと見つめた。

『目がきれいな人に悪い人はいない』

 いつか読んだなにかの絵本にそう書いてあったのを思い出したのだ。


「お兄さんはね、本屋さんなんだ」


 そう言って微笑んだお兄さんの目は、とてもきれいな澄んだ目だった。



「ここだよ。さやかちゃんも知ってるでしょ?よく、お母さんやお友達と一緒にここの前を歩いているよね」


 お兄さんに連れられてきた場所は、学校から家への帰り道にあり、家からそう離れてはいない。道路側へ少し顔を出せば、家がチラリと見える距離。

 けれども、こんなところに本屋なんてあったっけと、私は首を傾げた。

 いくら思い出そうとしても、全く記憶に無いのだ。


「さ、入って」


 お兄さんに促されるままに中に入ると、そこは本当に、紙の匂いが漂うありふれた普通の本屋のようだった。

 私のような背の低い子供の手に届く下の棚には、可愛らしく装丁されて目を引く絵本が何冊も並んでいる。


 可愛いな…でも、高そうだな。


 そんなことを思った私は、致命的なことに気づいた。

 お金を持っていなかったのだ。

 学校からの帰り道なのだから、当たり前といえば当たり前のこと。

 可愛らしい表紙の絵本に後ろ髪をひかれながらも、私はお兄さんに言った。


「ごめんなさい!私今、お金持ってないです…帰ってお金持ってきます!」


 すると、お兄さんは言った。


「お金はね、要らないよ」

「えっ?」

「この本屋ではね」


 お兄さんは楽しそうに笑い、腰をかがめて一冊の絵本を手に取ると


「お代はお客さんの笑顔、なんだ」


 と言いながら、私に差し出す。


「…笑顔?」

「そう。それも、【とびっきりの笑顔】、ね?はい、どうぞ」


 私はぼんやりとお兄さんの言葉を聞きながら、差し出された絵本を受け取った。

 それは、表表紙が真っ青、裏表紙が真っ赤で、どちらにも金色の装飾が施されたとてもきれいな装丁の絵本。

 私はひと目で気に入ってしまった。


「本当に、いいの?」

「うん、もちろん。大事にしてね」

「ありがとう!」


 本を受け取った私を、お兄さんは私が家に入るまで、外に立って見送ってくれていた。



 その本のタイトルを、私は全く覚えていない。ただ、内容だけは今でもちゃんと覚えている。

 自分は偉いからと、我儘放題で自分の意見を曲げず、我を通し続けた王様が主人公のお話だ。



 自分が悪いと思っても、謝ることができなかった王様の周りからは、気づけば誰もいなくなっていました。

 大きなお城に独りぼっちになってしまった王様は、寂しくて寂しくて、たくさんたくさん泣きました。

 流れた涙が水溜まりになって池になったとき、そこに一匹の美しい真っ赤な金魚が住みつきました。

 王様が金魚に「友達になって欲しい」とお願いすると、金魚は言いました。


「あなたが、いいですよ」


 と。

 金魚と友達になった王様は、毎日楽しく笑って過ごしました。

 すると。

 金魚の住む池は次第に小さく小さくなり、やがて金魚が住めないくらいの小さな水たまりになってしまいました。

 苦しそうに口をパクパクする金魚。

 王様は悲しくて泣きそうになりましたが、金魚との約束があり、泣くことができません。


「助けて…誰か、助けて!」


 王様は、かつての家臣たち一人一人に、頭を下げて頼みました。

 王様ひとりの力では、金魚のために水を運んでくることもできなかったからです。


 王様の必死のお願いが通じたのか、一人、また一人と、家臣が城へと戻ってきて、金魚の池に水を運んでくれましたので、金魚はまた元気に泳ぎ始めました。


「ありがとう」


 金魚が王様に言いました。


「あなたには、優しい友達がたくさんいるのですね」


 その時、王様はやっと気づいたのです。

 自分が変われば、周りのみんなも変わるのだと。


 王様は、金魚のために水を運んでくれた家臣たちに改めてお礼を伝え、今までの我儘を心から謝りました。

 家臣たちは、心を入れ替えた王様に忠誠を誓い、生涯王様を支え続けました。

 その後も、王様と金魚はずっと友達。

 仲良く暮らしました。



 長い尾ひれの美しい赤い金魚はまるで妖精のように、青い目をした気品漂う王様はまるで彫刻のように、美しく描かれていた。

 でも私は、その絵の美しさだけに心を打たれた訳ではなかった。

 王様は、私だ。

 そう思ったのだ。


 翌日。

 私は親友に頭を下げ、自分の間違いを心から謝った。

 すると、親友は私に言った。


「さやかが、許してあげる」


 そんな彼女とは今でも、大親友だ。


 親友にも絵本を見せてあげたくて、走って家に帰ったのだが、どこを探しても本は見当たらない。

 私は慌てて、あのお兄さんの本屋に駆け込んだ。


「お兄さんっ!」

「やぁ、さやかちゃん。いらっしゃい」

「本がっ!本が無くなっちゃったのっ!」


 せっかくお兄さんがくれたのに…と、泣きそうになっている私の目の前で、お兄さんは屈んで私の目を覗き込む。


「あの本なら、ちゃんとあるよ」

「えっ?どこっ?!」

「さやかちゃんの、ここに」


 お兄さんが指をさしていたのは、私の胸。ちょうど、心臓のあたり。


「どうだった?面白かった?」


 お兄さんの言っていることはよく分からなかったけれど、でも、面白かったか面白くなかったかといえば、もちろん。


「すごく面白かった!」


 そう答えると、お兄さんは嬉しそうに笑い、私に向かって丁寧に頭を下げた。


「【とびっきりの笑顔】、確かにいただきました。ありがとうございました」



 ※※※※※※※※※※



 間違いない、ここはあの本屋があった場所だ。

 けれども私はあの日以来、あの本屋も見ていないし、あのお兄さんにも会っていない。

 両親に聞いても親友に聞いても他の誰に聞いても、そんな本屋など知らないと、誰もが口を揃えて言うのだ。


 私は本屋があったはずの更地に背を向けて立った。

 もしもまた、あのお兄さんに会うことができたなら。

 今の私に、お兄さんはどんな本を勧めてくれるのだろうか。

 職もない、お金もない、築いたはずの家庭さえ壊れてしまった私。

 一体この先どうすればいいのだろうかと、将来への不安に涙が込み上げてきた時。


「どうしたの?」


 聞き覚えのある声が聞こえたような気がして、私はゆっくりと振り返った-。


【終】

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