あなたのそばに夢幻堂

澤田慎梧

あなたのそばに夢幻堂

 その日は珍しく残業もなく、定時退社できた。

 なので、いつも遅くまで起きて待っていてくれている妻への感謝の証として、ちょっと高いワインを買って、帰路を急いでいた。

 そんな時のことだ。


(……あれ? こんな所に本屋なんてあったっけ?)


 勤め先から程近い商店街を歩いていた時のこと。不意に、路地裏に建つ一軒の本屋が目に入った。

 店構えは随分と古く、どう見ても昨日今日開店した風情ではない。

 この街に通ってしばらく経つが、今まで全く気付かなかった。


(せっかくだから、ちょっと寄ってみるか)


 特に読書が趣味という訳ではない。が、この店には、何となく心惹かれるものがある。

 心の中で妻に謝りつつ、僕は古いアルミサッシの引き戸を開け店内に入った。


「いらっしゃいませ」


 しわがれた声の主は、いかにも「個人経営の本屋の主でござい」といった雰囲気の老人だった。

 くたびれたポロシャツとチノパン姿の上から、やはりくたびれたエプロンを身に付けている。エプロンには「夢幻堂」と書かれている。


 店内を見回す。

 どうやらかなり手狭な店のようで、四畳半程度の広さの中に棚が三列並べられ、様々なサイズの本が押し込められていた。

 古書店のような雰囲気だが、見たところ新品ばかりのようだ。

 しかし――。


(見覚えのない本ばかりだな。変な店)


 いくつかの本の背表紙を眺めてみたのだが、知らないタイトルや著者名のオンパレードだった。

 出版社名やレーベル名が書いてあるものは、殆どない。

 これはもしや、噂に聞く「自費出版本ばかりを集めた本屋」というやつだろうか?


「お客さん、うちの店は初めてですか?」

「えっ? ああ、はい」

「うちの店は、私が選りすぐった本しか置いていないんですよ」


 まるで僕の内心を見透かしたかのように、店主が教えてくれた。

 しわくちゃの顔に浮かんだ笑顔はどこか人懐っこく、不思議な安心感を与えてくれる。

 だからなのか、気が付けば僕は自然に口を開き、こんなことを言っていた。


「なにか、お薦めの本とかありますか?」

「そうですねぇ、こちらなんか、いかがでしょう」


 僕の言葉に気を良くしたのか、店主が棚の一つから、文庫サイズの本を取り出し、差し出してきた。

 タイトルは「僕」、著者名は「夢幻堂 編」と書いてある。


「うちの店のオリジナルの小説なんです。きっとお気に召すと思いますよ?」


 言いながら、裏表紙を見せてくる店主。そこには「500円+税」と書かれていた。

 普通の文庫本と比べても、かなりお得な値段だ。


「毎度あり」


 手早く会計を済ませ、店を後にする。

 店主は店先まで出てきて、僕を見送ってくれていた。


   ***


 帰宅ラッシュ時だというのに、電車の中はやけに空いていた。

 僕は体よく席を確保し腰を落ち着けると、早速とばかりに先ほど購入した文庫本の表紙を開いた。


 ――物語は、なんというか、とても地味だった。

 とある地方都市に生まれた主人公の「僕」が、ごく普通に進学しごく普通に就職し、結婚していく、そんな話だ。

 抑揚もへったくれもない。普通だったら「金返せ」と思いたくなるレベルで、なにも起こらない。

 

 にも拘らず、ページをめくる手が止まらない。何故ならば。


(この主人公、僕とそっくりじゃないか)


 そう。小説の中の「僕」は、出身地も血液型も、両親の職業も、あまりにも僕と似通っていた。

 まるで僕自身をモデルに描かれたかのようだ。

 結婚相手も僕の妻そっくりだし、勤め先だってそうだ。


 何かに急き立てられるように、ページをめくり続ける。

 平凡な会社勤めの毎日も、残業続きの日々も、妻がいるから頑張れるという「僕」の呟きも、何もかもが僕自身を思わせるそれだった。

 そして――そのページが訪れた。


 残業続きだった主人公は、珍しく定時で退社できた。

 妻へのお土産に良いワインを買って、その帰り道に不思議な本屋に出会い――。


 思わず、ページをめくる手が止まる。

 小説の中の「僕」は、いつしか現実の僕に追い付いていた。

 となると、この先のページに待っているのは、僕の未来ということになる。


(何を、そんなバカな)


 何かの偶然だろうと自分に言い聞かせながら、震える指でページをめくる。

 そこに描かれていたのは、身の毛もよだつ「未来」だった。


   ***


 嫌な予感に突き動かされるように、音もなく玄関を開け、自宅マンションの部屋に忍び入る。

 玄関には、我が家では見慣れぬ靴。僕のものよりも随分と大きい、男物のビジネスシューズだ。

 息を殺しながら玄関を上がると、リビングからはくぐもった男女の声が聞こえてきた。

 女の方は、間違いなく妻の声。男の声にも覚えがある。――僕の親友の声と、そっくりだった。


(小説の通りなら、この先には)


 脳内に鳴り響く警告音を無視して、リビングの扉に忍び寄り、そっと中を窺い、息を呑む。

 ――筆舌にしがたい光景というのは、きっとこういうものを指すのだろう。


 中で行われていたのは、紛れもない背徳の宴。

 僕の最も愛する女性が、僕の最も信頼する男と、許されぬ行為を交わしている姿だった。

 二人とも行為に夢中で、僕が帰ってきたことに全く気付いていない。

 熱い愛の言葉を囁き合い、蠢いている。


 冷めきった脳髄に突き動かされるように、僕はカバンの中に手を差し入れた。

 そこにあるのは、先ほど購入したばかりの、冷たく尖った金属の塊。

 僕は大きく息を吸うと、音もなく二人に忍び寄り、その凶刃を振るった。


 何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――。


   ***


「――はっ!?」


 目を覚ますと、そこはまだ電車の中だった。

 手には読みかけの文庫本。丁度「僕」が、妻と親友の不貞の現場に出くわし、二人を包丁でめった刺しにしたところだ。


(この本のせいで夢を……見ていたのか?)


 夢にしては生々しく残った手の感触に、思わず吐き気を催す。

 今のは本当に、夢だったのだろうか? 分からない。あまりにも現実味があり過ぎた。

 ――そこでふと気付く。本にはまだ、数ページの続きがあるようだ。


 「僕」は果たしてどうなったのか? それだけが気になって、僕は続きのページをめくった。


   ***


 ――僕は自宅マンションの前に身を潜めていた。

 手の中のスマホは、先ほどから録画モードでマンションのエントランスを撮影している。


(……来た!)


 エントランスから、見知った男が出てくるのが見えた。僕の長年の親友だ。

 妻とも知り合いではあるが、彼女が一人の時に訪ねてくるほどの仲ではない――はずだった。

 僕がここに隠れて既に三十分が過ぎている。その間、彼がマンションに入っていった姿は見ていない。

 つまり、彼はそれ以前からマンションの中にいたことになる。


 親友だった男の姿がすっかり見えなくなってから、録画を止め天を仰ぐ。

 星の見えないくすんだ都会の夜空は、今の僕の心に似合い過ぎていた。


 さて、これからどうしようか?

 さしあたっては、何も気付かないふりをして家に帰って。

 そして、明日からは腕のいい弁護士と探偵を探すことにしよう――。


   ***


 その後の話を少しだけしよう。

 僕は色々な人の協力のお陰で、妻と親友の不貞を暴くことに成功した。

 円満離婚と多額の賠償金、そして周囲からの同情を得た僕は、転職にも成功し、今は気楽な独身貴族だ。

 独り身は寂しくもあるけれども、今はまだ、誰かと付き合うとか結婚するとか、そういう気分にはならない。しばらくは傷付いた心を癒すことに専念するつもりだ。


 その後、例の本屋を探したけれども、見付からなかった。

 例の裏路地には似ても似つかないお洒落なバーがあるだけで、本屋の建物自体が存在しなかった。


 あの本屋は、この世ならざる存在だったのではないか――あまりにもベタな発想で自分でも笑ってしまうけれども、僕はそう結論付けることにした。

 もしあの本屋で例の文庫本と出会っていなければ、僕は妻と親友の不貞の現場に覚悟無しに出くわしていたはずなのだ。

 事前に包丁こそ用意しなかっただろうが、それでも相当の修羅場が繰り広げられただろうことは、想像に難くない。それこそ、僕の人生が滅茶苦茶になるくらいの修羅場が。


 きっとあの本屋は、僕に未来の可能性の一つを示し、踏みとどまらせる為に現れたのだ。

 そして、今日もどこかに現れて、誰かの人生が台無しにならないよう、店主がお薦めの本を教えてくれているのだろう。


 とりあえずは、そういうことにしておこうと思う。



(了)

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