本を燃やす話

曇空 鈍縒

第1話

 一人の男が、道の真ん中で本を燃やしていた。


 俺は、いつの間にか、その様子をただ見ていた。ふと我に返った俺は、あたりを見渡す。


 ずっと遠くまで続く夜闇に包まれた廃墟の商店街ゴーストタウン。朽ちたビルのネオン管の看板が、どこか、もの悲しさを感じさせた。


 その物悲しさの中には、不思議なほどの異様さがある。まるで、いつも見ている景色を、全く違う方面から見たような、そんな異様さだ。


 だが、その異様さの中でも、ひび割れたアスファルトの道路の上で、本を薪代わりに火を焚く男の異様さは、群を抜いていた。


 それなのに、俺は、その風景を、何故か、朽ちた町の姿に対して、とても自然なものに感じた。


 だが、何故、彼が本を燃やしているのかは、分からなかった。


 俺は、話しかけようかとも思ったが、本当に話しかけてもよいものかと、しばらくの間、思案した。


 その間、男は一切俺のことを気にすることなく、ただ、本を炎に焚べつづけた。


 このまま黙っていても、何の利にもならない。俺は、話しかけることにした。


「なぜ、本を燃やしているのですか」


 そう聞く。何と返答が返ってくるかなど、見当もつかなかった。


「危険だからさ」


 無視されても仕方ない。というか、無視される可能性の方が、はるかに高いと思っていたので、むしろ、返答が返ってきたことに驚いた。


 だが、危険だから燃やしているという返答を理解できる人間は、ごくわずかだろう。俺も、理解できなかった。


 今までの人生で、本に危険を感じたことなど無かった。


「なぜ、危険なのですか?」


 俺が聞くと、男は、まだ火が燻っている本のページの破片を手に取ると、それを煙管キセルに入れて、深く吸った。


 これは、自分が思っている煙草の吸い方とは大きく異なったが、最も自分も、正確な煙草の吸い方など知らなかったから、これで正しいのだろうと考えた。


 男は、三回ほど煙を燻らせると、火皿の灰を、燃え盛る炎の中に落とした。炎が少しだけ爆ぜた。


「美味しいですか?」


 俺は、彼が答えられないような質問なのかもしれないと考えて、質問を変えることにした。別に、問い詰めているわけではない。


「ああ」


 彼は、静かに肯定した。流石に、本のページを刻み煙草代わりにするのは、間違っていると思ったが、彼は特に気にしていないようだった。


 彼は、一冊の文庫本を、炎に放り込むと、突然、俺に話しかけてきた。彼から話しかけてくることは無いと思っていたので、とても驚いた。


「なあ、さっき、『なぜ本が危険か』と聞いたな」


「はい」


 俺は、特に深く考えることなく肯定した。最も、ここで否定してしまえば会話が続かないし、それは、僕にとっても彼にとっても良くないことだと思った。


「危険なのは、本じゃない」


 彼は、静かな声でそう言うと、一冊の分厚い本を、炎に放り込んだ。本は、羽ばたくようにページを開きながら、しばらく空中を飛んで、炎に飲み込まれた。


 深緑色の表紙が、一瞬で漆黒の黒へと変わっていく。炎で切り裂かれたページが、熱気に吹き飛ばされて、煙と一緒に空を舞った。


 俺は、しばらくの間、その様子をぼんやりと眺めていた。男は、そんな俺を気に欠けることなく、さらに本を火にくべた。


 男は、俺が、空を舞った灰を見届け終えたのに気づいたようだ。突然、俺に


「その質問に答えるためには、少し多くの時間が必要だ。そこに座るといい」


 男は、ひび割れたアスファルトの上に積み上げられた本の山を指差して、そう言った。


 確かに、立ったまま彼の話を理解することは、立ったまま哲学書を読むのと、同じぐらい難しいだろう。


 俺は、男に軽く頭を下げると、座り心地がよさそうな革表紙の本が山積みになっているあたりに座った。


 男が話を始めるのを待つ。男は、さらに一冊の本を炎に放り込むと、ゆっくりとした口調で、話し始めた。


「少し、向こうを見るといい」


 男は、木のこぶの様な指で、ずっと続く道の向こうを、指差した。本が燃える炎から離れれば離れるほど、道は暗さを増す。


 消失点のあたりでは、道は、闇と見分けがつかなくなっている。


 まるで、吸い込まれてしまいそうなほどの、深い闇。心の奥底の扉を、得体の知れない何者かにノックされるような恐怖を、感じた。


「分かったか、何が危険なのか」


 男は、しわがれた老人の声で、俺に言った。俺は、その闇を見つめたまま、頷いた。危険なのは、本ではなく、この、闇なのか。


 不思議だ。とても怖いのに、何故か、いつも見ているような普通を感じる。自分は、自分が生きる世界と、とても似ているような気がする。


 酷く、奇妙な気分だ。


 俺のそんな様子に気づいたのか、男は


「今度は、この炎を見てみろ」


 と、言った。俺は、たかが炎程度では、この奇妙さを消すことなどできないと思ったが、男が言うことは、何かが正しい気がした。


 俺は、炎を見た。背中には、まだ、何かが迫って来ていて、自分がそれに飲み込まれてしまうような恐怖がある。


 だが、その炎には、迫る何かを焼き払えるだけの、力があるように感じた。


 さっきまでは、本を燃やす、ただの炎だったが、その炎は今、周囲を満たす闇に勝ちうる、唯一の存在に、変わっていた。


「分かったか。俺が本を燃やす意味は」


 俺は、ここに来てようやく、彼が何のために本を燃やしているのか、理解できた。闇は悠久の時を生きる。それに比べて本は、一瞬で朽ち果ててしまう。


 次々と燃え盛る本たちが、その身を賭してともす炎は、我々の心に、明かりと、力を与えてくれる。


 男は、また一冊、燃え盛る、熱い炎に、本を放り込むと、深く息を吐いた。


 男の話は、終わったらしい。男は、まだ火が付いた本を一冊、炎の中から取り出した。本は、すぐに燃え尽きてしまいそうだった。


「これをかがりにして、行くといい。この昏い世界で、その本は、灯になるだろう」


「でも、もう燃え尽きてしまいそうです」


 俺は言った。本に付いた炎は、激しく燃えている。炎はあと少ししない間に、本全体の飲み込んでしまうだろう。


「ああ。すぐ燃え尽きる。だが、これが燃え尽きるよりも、お前の命が燃え尽きる方が早い」


 男はそう言うと、さらに一冊の本を、炎に放り込んだ。男は、もう、俺と話すつもりは無さそうだった。


 俺は、その本を掲げると、男の炎から離れて、歩き出した。

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