第29話 研究の成果、開発の成果
転生した僕として、前世で勉強しておくべきだった学科は何だろうか、と聞かれたとき。
僕の答えは一つとなりつつある。
それは科学史だ。
異世界に、ガチの最先端で働く科学者を連れてきたとしよう。
しかし、たぶんその多くが役に立たない。
それは、前世での研究活動がもはや細分化され先鋭化され過ぎていたからだ。
例えば、物理学者の最新研究にはパソコンや高度な計測施設が必要で、今更手計算には戻れないし。
化学者は化学メーカーの販売する高純度な物質がなければ実験を進められず、自分で調剤するなんてことはできないし。
生命理工学者は遺伝子プールや高精細な顕微鏡がなければなにもできることはない。
じゃあ、何を勉強すれば異世界生活に役立てられるのか、と言えば。
まあ、サバイバル術……なのは、それはそうだけど、そうじゃなくて。
あくまで前世の技術レベルの世界を目指して、研究をリードしていくつもりなら。
勉強しておくべきは、研究を進めるための研究手法そのものだ。
どのように身近な科学理論が立証されたかを知っていれば、それを異世界でも実現すれば同様の結果を引き出せる可能性が高い。
そう、今の僕はその実演に立ち会っていると言えるだろう。
ペニシリン、という名前に聞き覚えがある人はいるはずだ。
最初の抗生物質、とかいろいろ有名な枕詞がつけられた化学物質である。
だが、ハッキリ言って、それがどうすれば得られて、どういうものに作用して、どういう性質をもつ物質か、という具体的な情報まで覚えている人はおそらくほとんどいない。
薬剤師とか医者が覚えているかというレベルだ。彼ら彼女らだって、じゃあどうやって大量生産しているのかと聞かれれば、多分答えられないに違いない。
残念ながら、それは当然、僕にも当てはまる。
僕は最初、ペニシリンの具体的な性質としては、細菌に効くくらいしか知らなかった。
ただ、ペニシリン、というか抗生物質というものがどういう理由で発見されたかという、科学史としての知識だけはあったのだ。
そして、つまるところ、科学史的なペニシリンの発見の根幹とは、カビが細菌を殺せる物質を作ることができる、ということにある。
ああ、でも他の科学史的な知識にはあまり期待しないでほしい。
僕はゼロイチの信号からノイマン型コンピュータの理論を導ける超人じゃないんだ。
さて、僕の研究の成果について、発表しよう。
僕の目の前には、目印となる箇所を円形に避けるように細菌が増殖していない、実験用プレートがあった。
いや、ここまで来るのはマジで大変だった。
まず、培地を作るのにも苦労した。寒天とかゼラチンみたいな性質の材料をさがして、日々市場を回り。表面がデコボコにならないような固め方を研究して……。それから単一の細菌が均等に生えるような方法を検討して……。
カビを生やしてみては、全面がカビに覆われてしまったり。温度が一定になるように、オーブンの魔道具を改造して……。いい具合に生えたと思ったら、普通に細菌が繁殖して……。
細菌を殺せるカビを見つけてからは、抽出方法にも苦労した。まずろ紙がないし。それから、常温で水溶性なのか油溶性なのか不溶性なのもわからず、全部試して実験して。
はあ。めっちゃ時間かかったわー。
僕があの憎たらしいクモに怪我を負わされて、抗生物質の開発の必要性を痛感してから、もう一体どれだけの月日がたっただろう。
ただ。おそらく、というか十中八九、僕の目の前の抗生物質はペニシリンではないだろう。
ペニシリンと似たような性質を示す、また何か別の物質のはずだ。
異世界において、ペニシリンの作用機序の生体的メカニズムは、この世界の細菌がたどった進化が違う以上、適用できないからである。
しかし、異世界にいる身として重要なのは、カビは細菌が生えるのが嫌いで、殺すための物質を進化的に獲得するケースがあるということ。
それさえ知っていれば、なんらかの抗生物質を得ることができる、というカラクリである。
じゃあ今からこの抗生物質で、医療チートひゃっほいかと言われれば、残念ながらそんなことはない。
第一、抗生物質はウイルスに効かないし。
その上、この抗生物質、正確に言えば抗生物質を含む抽出物には、まだ多量の不純物が含まれているのだ。
最低限、抗生物質の効能>不純物の副作用となるくらいに純度を高めていきたいところ。
そうなると、また大量の実験動物が必要になってくる、というわけなのである。
◇
さて、今日の昼から予定していたのは、別にこの抗生物質の実験ではなかった。
久しぶりにそっち関連の進歩があって、ちょっと意識が脱線していただけである。
細菌培養の実験は日単位で時間がかかる割に、結果が出るのは一瞬なのが儚い。
で、予定していたのがこれ。
僕の発明品第二号「一瞬だけ、とにかくめちゃくちゃ光る魔道具」である。
名前は『手投げ閃光グレネード』と言ったところか。
火薬に相当するような物質が発明されていないこの文化圏には、グレネードに相当する概念がなく古代語から引っ張ってくることになった。
ぶっちゃけて言うと、実はもう半分失敗品なのは秘密だ。
というのも、まあ名前でわかるように、僕はスタングレネードを目指して開発を行っていた。
ゲームとかで使われるアレだ。ピカッとして短時間行動が制限されるヤツ。
しかし、実際に何度かネズミで実験してみたところ、思ったほどの効果がないことが分かったのだ。
まあ単純に、今の状態では出力が足らないということかもしれないが。
僕の作った魔道具は、前世のスタングレネードの機能の内、実は片方の効果しか再現できていなかったのが、主な原因と考えている。
もったいぶるほどのことではないけど、スタングレネードは光だけではなく、音も同時に発することで混乱状態を招いている。
爆発的な化学反応によって、同時に光と音が発せられるスタングレネードと違い、僕が作った『手投げ閃光グレネード』は完璧に光しか発しない。
だから、スタングレネードとしての機能は、十全に果たされなかったというわけだ。
ここまで半分の失敗についての説明だったけれど。
半分失敗ということは、もう半分は成功ということでもある。
どういうことかと言えば。ある意味、閃光だけでも良かったという話だ。
前述の通り、混乱状態を招くという触れ込みにはならなかった『手投げ閃光グレネード』だが。そもそもの目的は、戦場のマッドサイエンティストに求められる防御と逃走のための手段を確保すること。
それを踏まえて考えると、今回の開発目的である、"脱走のための時間稼ぎ"という役割は、現状でも十分に果たせることがわかったからだ。
ようするに、ただの目くらましである。
まあ、音も同時に発するように改良を加えれば、効果を高められるとわかっているのは、悪くないことだ。肝心の、そんなデカイ音を発する魔道具の作り方がわからないことを除けば。
魔法とはいえ音波なのだから、波を重ねるなりなんなりで大きな音にすることはできるかもしれないが、そうすれば指向性が高くなり脱走向けじゃなくなってしまう。
ここら辺は、やはり今後の課題といったところか。
さて、この『手投げ閃光グレネード』だけれども。
当然、対人目的の発明品だ。
ではこれを、どうやって試験するのかと言えば、当然人体実験という話になる。
で、紆余曲折も特になく、対象は僕の奴隷、ということになったわけだが。
僕だって鬼じゃない。
強い光が失明の危険があって危ないということくらい、レーザーの危険性から知ってるし。安全対策、と言われると微妙だが、それに近いものを用意している。
マッドサイエンティストなら安全対策なんて気にせず実行、と言われると否定できないけれど、事前に対策できるのなら、対策しないのは単なるリソースの無駄だ。
そして、僕の用意した安全対策は【祈祷療術】だった。
いや、そりゃそうだろ。と言いたくなるのもわかる。
だけど、回復魔法って失明に効くの?
と聞かれてたらどうだろう。
失明は前世の医学では完全には治療できなかったし、じゃあ回復魔法でもダメかと言われると微妙だ。
僕も気になって、実験を行ってきた。
この一言で、僕の数週間分の研究が過ぎている、という愚痴は置いといて。
実験結果としては、【祈祷療術】は失明にも効果があるというものだった。
もちろん、先天性の失明とかにも効くのかとかはまだ不明だが、少なくとも強い光で失われた眼の光は、この魔法で回復できるというわけだ。
さすがは神様お祈り回復魔法である。
と、同時に残念な結果もある。
実は、この『手投げ閃光グレネード』による強い光は、あんまり蟲の類に効果がなかったのだ。
まあ。連中はカメラ眼じゃないしね。
水晶体レンズのような光を大きく集光する仕組みがない以上、効果が薄いのは仕方ない。
連中だって光受容体を持っている以上。今より出力をあげれば、やがては効くのだろうけれど。そこまですると単価が高くなるし。下手したら使った方のダメージが大きくなってしまうし、で却下だ。
なので、この『手投げ閃光グレネード』はカメラ眼を持つ動物専用である。
ヨシ。それじゃあ、準備も済んだということで。
いよいよ人体実験だ。
人体実験。
これほどマッドサイエンティストにふさわしいものがあるだろうか。
そう、僕の強くてカッコいいマッドサイエンティスト人生は、ここから始まるといっても過言ではない。
まあその内容が、ヒトに光を当てるだけ、というのはちょっと味気ない気もするけれど、気のせいだ。
僕としても、もうちょっと人体のキリハリとか、せめて投薬とか、そんな感じのもっとマッドな奴を思い描いていたけども!
現実というのは得てしてそういうもの。
抗生物質の投与実験とか、ハッキリ言ってまだまだ先なのだ。
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