『いいわけ』無問題/現代ドラマ

 夕方、お風呂を洗っていると外から子供たちの賑やかな笑い声がする。

 もうそんな時間か、そう思ったら何かがプツンと切れた気がした。


 それが何か分からないまま乾いた洗濯物取り込み、今日の食材をセールで買う。ものによっては見切り品も使って安く済ませる。

 買ってきた食材と今ある食材で献立を考える。昨日の食事と被らず頻出していないものを考える。ついでに明日のお弁当に詰めるものも考えないといけない。

 一汁二菜。作りおきを一品入れて一汁三菜にする。家庭科の教科書を使ってバランスも考えて野菜も多めにした。

 しっかり一汁三菜を作れる人はすごいと思う。


 夕飯の用意もできた。片付けもした。けれど胸の奥が冷たくてスースーする。

 床を見ると濡れていて慌ててティッシュで拭くと今度は手の甲が濡れた。

 そっと触れた頬が濡れている。

 なぜだか分からないけれど、どうしても止まらずポタポタと床を濡らす。




 洗濯物も畳まず、夕飯の配膳もせずに夢遊病のように家を出た。

 クラスメイトに見つかったら何て言われるだろう? そもそも話題にも上がらないだろうな。

 反射的に持ってきたバッグを斜めにかけて直して歩く。

 小さなバッグの中にはお財布が一つ、夕刻セールで食材を買った残りの百円玉が数枚。

 今日はいつもより多く残せた。

 家がいっぱいあるところは足音を立てないようにスパイ気分で歩く。車のヘッドライトを避けて通行人とすれ違わないように気を付ける。

 午後9時。

 誰かに見られたらすぐに通報されて逮捕されるかもしれない。気を付けないと……。


 まだ頬は濡れたまま。

 目的なんてないけれど高い所に行きたい。


 頭の中で声がする。

「もう嫌だ」

 そうだね。

「楽になりたい」

 そうだね。

「消えてなくなりたい」

 そうだね。

 自分の声とも怨霊の声ともつかない、絞められた喉から漏れだした苦しそうな声たち。


 自分一人いなくともちっとも世界は変わらない。この数年だそれは証明された。

 いなくなっても何の問題もない。

 足下で電車が通過する。小刻みに揺れる橋。鉄と土の匂いが舞い上がる。

 自分には「消えてなくなりたい」いいわけがある。

 今ここでこの柵を乗り越えてこの暗闇に飛び込めたら……なんて妄想してしまう。

 果たして楽になれるだろうか?


 何にもなれない私はこのまま何にもなれずに、一生を家事に尽くすのだろうか?

 それはもはや家族という群れに捧げられた生け贄なのではないか。

 群れを円滑に回す潤滑油はどこででも必要で、それは大抵の場合誰かの犠牲のもとで生まれる。


 家事をする=使用人=ぞんざいに扱っていい。

 そんな事許していいはずがない!


無問題モーマンタイ

 虚無に向かって呟くとクスリと笑えた。

 違う世界の言葉を口にしただけなのに、なぜか腹の底がくすぐられるような感覚がした。

 クラスで流行ってた呪文。確か「大丈夫」って意味だったはず。

 口元が緩み、頬が熱くなる。

 私はまだ無問題。

 私は冷たい鉄道橋を抜ける。


 知っている世界で知らない世界の言葉を呟く。車の喧騒、大人たちの話し声、漏れでたBGM、全部知らない言葉の気がして異世界にいるような感覚がある。


 一度、路地に入ればそんな雑踏は夢かと思うほどに静かで夜を受け入れている。細い道に向かってカタカタと煙を吐き出す筒からは焼肉のいい香りが漂ってくる。

 お腹は空いていないのに胃が勝手に鳴いた。

 久しぶりに聞いたその音に胸が満たされる思いがした。


 自分がいなくなったら、洗濯は誰がするのだろう? 誰がご飯を作るのだろう? 誰が掃除するのだろう?

「消えられない」いいわけもあった。


 いなくとも世界は回るそんなちっぽけな自分。

 いても、いなくても何も変わらない。

 何にもなれなくても、いつか全てが嫌になるその瞬間までいてもいいかもしれない。


 私はまだ無問題。


 とりあえず、捕まるまであと数ヵ所下見しておこう。

 足取り軽く私は駆け出した。

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KACの浮遊霊たち 宿木 柊花 @ol4Sl4

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