巨木

此糸桜樺

ごめん

 木の匂いがするな、と思った。

 今に始まったことじゃない。ずうっと昔からだ。

 目の前に広がる大量の本を見ながら、僕は、再度強くそう思った。




 『図書館からは、木の匂いがする』




 紙からは木の匂いがする。紙は木からできているのだから当然だ。

 本からは木の匂いがする。本は紙から作られているのだから当然だ。

 しかし、彼は、「紙は加工されているんだから、木の匂いなんてしないよ」と笑う。そして、いつも「本は本の匂いがするんだよ」と言った。

 僕は、彼に抗議するためにくんくんと鼻をとがらせる。――うん、やっぱり。木の匂い、するじゃないか。どうして分からないんだ。どうして感じないんだ。


 窮屈そうに呼吸する巨木の影が。

 居心地の悪そうな大木の息遣いが。


 なあ、どうして分からないんだ。


「あのね、ここは図書館だよ。巨木の息遣いは、物語から感じたらどう?」

「物語なんて、つまらない」

「じゃあ、どうして毎日毎日ここに来るんだい。本も読まないで」


 呆れるように僕に声をかける彼は、図書館司書をしている僕の友達。読書が好きで物静かな彼と、出不精で人付き合いの苦手な僕は、一見似ているようで、明らかに正反対の性格だった。しかし、僕は、彼といると楽しかったから、いつも彼のあとをついて歩いていた。なんだかんだ小学生の頃からのつきあいである。ちょっと犬みたいな気分だった。

 とは言っても、僕には、彼しか友達がいないのだけれど。


 今思えば、図書館特有の木の匂いは、僕が小学生の頃から感じていた。


 僕は、彼と一緒のクラスになったことはなかった。でも、僕は、彼と友達になりたくて、一生懸命に図書館へ通っていた。彼は昔から読書が好きで、小学生の頃から図書委員会に属していたから。

 僕は、図書館の居心地の悪そうな木の匂いが、少し苦手だった。なんだか本に嫌われているような気がしてしまって。本の好きな彼にも嫌われているような気がしてしまって。

 でも、大自然を感じられる、森の匂い自体は大好きだった。


「落ち着くから。紙は木の匂いがする」

「だからねえ……。本は本の匂いだよ」


 僕は、ふん、と顔を背けた。彼はこんなに長く図書館にいるから、きっと鼻がおかしくなってしまったんだろう。うん、きっとそうだ。僕は間違ってなんかいない。


「本のにおいなんて、ない」


 僕は彼の言葉を真っ向から否定する。しかし、彼は僕の言葉をやんわり否定する。

 いつだって正反対のふたり。

 だって、彼は優しいから。


 すると彼は何かを思いついたように「あ」と呟いた。


「もしかして、棚の匂いじゃない? 本じゃなくて、木製棚」


 彼は、ずいっと僕の目を覗き込んだ。


「棚?」


 僕は、訝しげに辺りを見渡した。……ふむ、なるほど。確かに全ての棚が木製である。


「そうだ。試しに本屋へ行ってごらんよ。少なくとも大型書店なら、きっと木の匂いはしないよ」

「本屋なんて、つまらない」

「そんなこと言わないでさ。ね?」

「しかし」

「いいからいいから。もう時間もないし、行ってみな」

「……分かった」


 僕はしぶしぶ彼の言葉に頷いた。物語なんて嫌いだから、本屋なんて行ったことがないけれど、そんなに言うのなら行ってみようか。彼に嫌われるのは、いくら僕でも居心地が悪い。

 図書館を出ると、ちょうど背中に「蛍の光」の曲が流れ始めたところだった。「ああ、閉館の時間だから追い払われたんだな」と気付くも、「まあ、また明日来ればいいや」と楽観的に考える。


 本屋までは、徒歩だと少しかかる。だから、耳にイヤホンをつけ、音楽を聴きながら、せっせっと目的地へと向かった。特に聴きたいものもないので、YouTubeの音源を聴くことにする。耳に流れてきたのは『箱根八里』だった。『はっこねの山はー 天下のけーん』と力強く太い声で、僕の鼓膜を震わせた。我ながら渋いチョイスだな、と苦笑する。しかし、自然豊かで壮大な歌詞には、いつも感心させられるものがあった。色褪せない、自然の歴史。


 僕は、小学生の頃、金魚のフンと呼ばれていた。いつも、彼にくっついてまわっていたから、そう呼ばれていた。しかし僕はそんなの気にしたことはなかった。なぜなら、フンになって、自然の中に排出されて、土の養分になって――そうやって循環する自然のサイクルに憧れを持っていたからだ。

 僕はいつもハブられる。家でも、学校でも、会社でも。だから少しくらいは、世の中の一部になってみたかった。

 そして僕は、僕をハブらない彼のことが、友達として大好きだった。彼もまた、僕のことが大好きに違いなかった。

 だって、彼は、僕を拒絶したりはしないから。

 だって、彼は、優しいから。


 そうこうしている間に、本屋についた。仕事帰りのサラリーマンが何人かいる。見たところ、小説の棚よりも実用書の棚のほうに多く人がいるようだ。

 見渡す限り、本、本、本。硬そうな金属製の棚に、光沢のある紙に書かれたポップ。いかにも「本屋」という感じを醸し出している。まあ、当たり前だ。本屋なのだから。


 すん、と店内を嗅いでみる。

 なるほど。木の匂いはしなかった。








 翌日、本屋から木の匂いはしなかった旨を報告するため、また図書館を訪れた。しかし僕は、あれ、と首を傾げた。木の匂いがしないのだ。木製の棚はいつも通りあるのに。


 おかしいな、と思ってひとまずカウンターに向かった。すると、なぜか彼がいなかった。彼が通常座っているイスは、ぽつんと所在なさげに佇んでいる。すると、いつも彼の隣で、同じく図書館司書をしている女性が顔を上げた。女性は僕の顔を見るなり、藪から棒に口を開いた。


「ああ、今日はね、午後からなのよ」


 僕は、すぐに、彼のことを言っているのだと合点がいった。


「なんでですか」

「子供たちへの読み聞かせ会があるの。ほら、奥のほうでやってるわ」

「そうですか」


 僕は迷わず奥に進んだ。子供の本コーナーなんて、少し気恥かしい気もしたが、思いのほか大人もいた。きっと子どもたちの保護者だろうと思った。そして、子ども達にまあるく囲まれた中心に彼はいた。

 子どもは騒がしいものだ。言うことを聞かないものだ。ものすごくわがままだ。しかし、彼を囲んでいる子供たちは静かだった。彼の読む物語に夢中になっていたのである。

 まるでオアシスに集まった動物たちのように。


 ふわりと広がる森の香り。のびやかに根をめぐらし、颯爽と枝を伸ばす、軽やかな巨木の息遣い。オアシスを求め、憩いの場を求め、水飲み場にやってくる動物たち。


 木の匂いは、彼だった。


 生命に満ち溢れた巨木は、生き生きとしていた。いつもの窮屈さを一切感じなかった。僕のいない図書館は、僕のいない巨木は、こんなにも美しいのだ。──僕の知らない彼の姿だった。


 ああ、そうだったのか。


 僕は、そっと彼に背を向けた。なんとなくだが、今日は本を読んでみようかな、と思った。でも小説の棚に行っても、まるで魅力を感じない。僕にとっては、物語なんてつまらないものだから。

 昨日、サラリーマンが実用書やら新書を買っていたのを思い出す。あれなら僕でも読めそうだと思った。そして僕は本屋へ向かった。音楽を聴く気にはなれなかった。


 本屋についた。

 もう決して図書館には行くまいと思った。

 巨木に窮屈さは、似合わないから。

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巨木 此糸桜樺 @Kabazakura

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