牽牛花・終




   * * *


 薄暗く、湿った空気が淀み充満している獄舎の中。


 生臭い血の腐臭が漂う檻の前で、二人の牢番がひそひそと、小声で不穏な言葉を交わし合っている。


「……おい、あの囚人はまだ白状しないのかい」

「何を白状するって言うんだ。

奴はなんにも知らんのさ。知らないもんはしゃべれない。

どれだけ拷問にかけてみても無駄ってことだろう」

「だが、お偉いさん方はそうは思ってないようだぜ。

実際、奴はあの都落ちしたこう大将を匿ってたんだろう」

「それじゃあ聞くが、黄大将が一体何をしでかしたって言うんだ。

強欲で腹黒い宮廷の連中に、濡れ衣着せられて厄介払いされたんだろうが。

おかわいそうに、あんなにいい方だったのに」

「馬鹿、あんまりでかい声を出すな」


 牢番の一方は、慌てた様子で辺りをせわしなく見渡す。

 もう一方の牢番は、相方のその挙動を鼻で笑って、


「聞いてる奴なんかいやしない。ここには囚人しかいないんだからな」

「妙なとばっちりはごめんだ。

しかし、馬鹿というなら、あの囚人の野郎も馬鹿だな。

黄大将は確かにいい人だったが、死人にいつまでも義理立てしてさあ」

「大層な恩があるんだろうよ」

「下心の間違いじゃあないのかい。

黄大将には美人のお嬢さんがいただろう」

「お前こそ馬鹿だ。お嬢さんも亡くなったとかいう話だぜ」

「まあ、恩にしろ下心にしろ、そんなもんのために自分の命を無駄にする奴の気は知れんがなあ」


 牢番二人はそんな話を言い交わしながら、獄舎の見回りのために、檻の前を去っていった。


 鉄格子のはまった強固な檻。

 その暗い中に入れられているのは、一人の囚人だった。

 その囚人は、以前は秀麗な面立ちの青年であったが、獄舎での度重なる拷問、過酷なその生活のために今ではすっかり見る影もない。

 顔はやつれ、ぼろ切れのようになった衣服の下にあるのは、縦横に傷の走ったやせ衰えた身体だ。


 囚人は牢の暗がりにうずくまって、冷たい鉄格子を見据えて耐えている。

 苦痛と恐怖、そして果たせなかった約束への罪悪感と、たった一人への募る恋情に――。


 こつ、と鳴った軽い足音に、囚人はわずかに視線を上げた。


 見ると、いつの間にそこに現れたのだろうか、この殺伐とした牢獄には似つかわしくない、白衣をまとった美貌の少女が鉄格子の向こうに立っていた。


「――送りに来たぞ」


 唖然とする囚人に向かって、少女は凛とした声で告げる。


「お前は間もなく死ぬ……わかるか」


 少女の無情な宣告に、囚人は顔をこわばらせて息をのんだ。

 囚人が何か言おうと、口を開きかけたところへ、それをさえぎって少女は続けて宣告する。


「だが、一人ではない。

覚えているか、お前のした約束を。

今、その約束を果たしてもらおう――」


 少女の言葉が終わるやいなや、檻の中にふわりと冷たい風が吹き込んだ。


 囚人は自分の傍らに現れた気配に、緩慢な動作で顔を上げる。

 その顔が、驚愕の表情を浮かべて、視線を宙に凍りつかせた。


 檻の中、薄暗がりのその中に、一人の若く美しい女が立っていた。

 ほっそりとした身体に典雅な着物をまとい、白い面には淡い微笑を浮かべて囚人を見つめている。

 艶やかな長い黒髪を結わずに背に流して、暗がりの中にその美しい姿を浮かび上がらせてたたずむ様は、輝く雲霞をまとった仙女のようだ。


「――お嬢様……」


 囚人の震えるのどが、驚愕と畏怖、そして歓喜の入り交じった複雑な感情をようやく声に出す。


 囚人の発した声に、女は白い頬をほんのり朱に染め、喜びにその黒い瞳を潤ませた。


「お会いしたかった、愛しい方……ずっと、あなた様をお待ちしておりましたのに」

「お嬢様、私も……あなたに会いたかった。

ずっと……あなたのことが気がかりで、あなたのことばかり想っていました――約束を――」


 囚人の声が揺れ、胸の痛みにその表情はゆがんだ。


「――約束を果たすことができずに、申し訳ありません……あなたの傍を決して離れぬと誓ったこの身であるというのに。

このように囚われ、声を届けることも、想いを伝えることすらできずに……お父君を亡くされた、か弱いあなたを長い間独りにしてしまった。

さぞや、私を恨んでいることでしょう。

恨まれても仕方のないこと……」


 うなだれる囚人の傍らに、女は衣ずれの音を立てて膝をついた。

 そして、細い腕を伸ばすと、囚人のたれた頭をそっと優しく自らの胸に抱き寄せる。


 女の襟から、馥郁ふくいくたる香りがほのかに立ち上った。

 甘く、かぐわしいその香粉の香りが、空気に溶けて囚人の身体に染み通る。

 香りは暖かな霧となって、囚人の意識を包み込む。


「いいえ……愛しい方。

交わした約束は、これから成就させましょう……」


 囚人の頭を胸に抱いて、女はその耳元にささやきかけるように言った。


 女の声と言葉とが、しなやかな蔓草となって、恋人同士のふたつの心を結びつける。


「……共に、いってくださいますか……」


 女の言葉に、囚人はその腕の中で視線を上げる。

 微笑む女の黒い瞳を見つめながら、囚人はゆっくりとうなずいた。


「――はい。共に、いきましょう……どこまでも」






 数刻の後、見回りの牢番が、檻の中に横たわる囚人の姿を見つけたときには、既に彼の息はなかった。


 囚人の死に顔はどういうわけか、以前のような秀麗な容姿を取り戻しており、そしてとても穏やかで、喜びに安らいだ表情をしていたという。


 囚人の冷たくなった手の中には、これもどういうわけか、あるはずのない花のつぼみが握られていたという。


 紅の、牽牛花の花が――。






                 了

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走無常鬼譚 宮条 優樹 @ym-2015

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