牽牛花・七



牽牛花けにごし、だね」


 見舞いと称して子雲から渡されたその花を見て、叔弘はすぐさまそう言った。


「けにごし……それがこの花の名前か」


 聞き慣れない名前に子雲は首をかしげる。

 叔弘は友人の無知を笑うでもなく、真面目くさった表情でうなずいた。


「朝顔とも呼ばれるね。

朝になると共に咲く花だから」

「ふうん」

「というか、薬屋の跡継ぎが知らないでどうする。

この花の種は薬に使われているんだろう」

「知らん。薬屋なんか継がないし、花にも興味がない」

「頑固だな」


 言うと、叔弘はその紅色の花を、水を張った湯飲みに挿した。

 朝方に咲くというその花は、今はもうすっかりしおれてしまっていたが。


 間もなく太陽は中天に昇ろうかという刻限である。

 子雲は趙家を訪れていた。


 子雲の突然の来訪を迎えた叔弘は、先日会ったときと比べて顔色もよく、寝台に起き上がって話をしていても、全く苦痛そうではない。

 聞けば、今朝、目が覚めると、急に体調がよくなっていたということだった。

 子雲の脳裏に少女の言葉が蘇る。


 寝台の側に寄せた椅子に座り直して、子雲はこの数日間の出来事を叔弘に話し始めた。


 叔弘を見舞った日、女の正体を確かめようと町はずれに出向いたこと。

 その夜、屋敷の前で白衣の少女に遭遇したこと。

 屋敷の老人の話と、夜中に屋敷を見張ったこと。

 そして、荒れ屋敷で出会い、消えた女のこと。


 たった二、三日の間にめまぐるしい体験をさせられたものだ。

 子雲はつい今朝方までのことを落ち着いて振り返ってみて、気怠い疲労感を肩の辺りに感じていた。


「その荒れ屋敷のことを、少し聞き込んできた」


 子雲は自分の湯飲みを取り上げると、白湯を一口すすって言った。

 叔弘は時折うなずきながら、伏し目がちに黙って友人の話に耳を傾けている。


「あの屋敷は、かなり昔からあそこにあるんだそうだ。

屋敷の住人は何度も入れ替わってて、最後に住んでたのは、もともとは首都の偉い将軍だった人なんだと。

権力争いだか不正行為だかに巻き込まれて、住んでた家を捨ててこの北京に逃げてきたらしい。

旅の途中で奥方が亡くなって、何とか町はずれに落ち着いたが、心労のせいか病気でその将軍も亡くなって……結局、屋敷には一人娘だけが残されてしまったんだそうだ。

これは近所に住む奴に聞いたことだが」


 そこまで話して、子雲はまた一口、白湯をすする。


 あの後、荒れ屋敷に取り残された子雲は、我に返るとすぐさまこの屋敷の謂われを尋ねてまわったのだ。

 近所、と言っても、屋敷の周りには他に家などなかったから、事情を知る人間を探すのはそれなりに骨が折れた。


「屋敷の使用人も離散して、財産もなく、深窓のお嬢様が一人きりじゃ、まともに生活なんかできるわけがない。

それでも聞いた話によると、若い男が屋敷に出入りしていて、どうやら面倒を見てやっていたらしい。

越してきて少し経ってから見かけるようになって、屋敷の主が死んだ後もまめに訪ねてきていたんだと。

恋人だったんだろうが――そいつがある日を境に全く姿を見せなくなった。

どんな事情があったか知らんが――」


 残っていた白湯をまずそうに飲み干して、子雲は湯飲みを卓上に戻す。

 茶卓を打った磁器の音が妙に高く響いた。


「その男の素性は誰も知らなかった。

とにかく、屋敷のお嬢様は独りぼっちになって、父親と同じに病気で亡くなったそうだ。

それが一月ほど前のことになるらしい」


 そう言って、子雲は口をつぐんだ。

 話が終わっても叔弘は黙ったままで、ただじっと、視線をしおれた牽牛花にそそいでいる。


 開け放たれた大窓からゆるく風が吹き込んでくる。

 窓から見える緑の中庭では、腰の曲がった老人が庭木に水をやっている。

 晴天の下、青葉がきらきらとまぶしく光って、子雲は思わず目を細めた。


「彼女は――」


 不意に、叔弘がぽつりとつぶやく。


「はじめて出会ったときにはもう、この世の人ではなかったのだな」

「…………」


 そのつぶやきに、子雲は黙って応えなかった。

 叔弘はわずかに首を傾けて、


「彼女は想い人に再会できただろうか」

「さあな……」

「私はその人に似ていたのかな。

だから彼女に見間違われたのだろうか」

「叔弘――」


 子雲は怪訝そうに叔弘の白い横顔を見やった。


 叔弘は卓上の花を見つめながら、独語するように言う。


「そうだとしたら、あまり格好つかないが……それでも、彼女を慰めることができたのなら、まあ、それでもよかったかなあ」


 間髪入れずに子雲の右手がひるがえる。

 叔弘の頭が小気味よい音を立てた。


「何をするんだ、痛いじゃないかっ」


 はたかれた頭を押さえて叔弘が抗議するのを、子雲はにらみつけて、


「お前がおかしなことを言うのが悪い。

死にかけてたくせに」

「おかしなものか。私は本気だ」

「もう一発殴られたいか」


 子雲は拳を固めてみせる。

 二人は一瞬にらみ合ったが、ふと叔弘が笑った。


「本気だったのだよ」

「叔弘」

「いや、伏せっている間は、本当に本気で彼女のことしか考えてなかった。

本気で彼女のことを想っていたのさ。

だが、今は夢から覚めた気分だ。

もう彼女に私は必要ないのだろう。

本当に愛する人と一緒にいられるのが、正しい幸福なのだろうからね」


 私では役者不足だ、と言って、叔弘は卓上の牽牛花を穏やかな眼差しで見つめた。


「彼女のことは、今はただ哀れに思うよ。

自分が死んでいたかもしれないと考えると、恐ろしい気もするけれど……そうだね、死は恐ろしい。

まだ死にたくはないな、やりたいこともあるからね。

私が本当にこの命をかけて想う女性に巡り会うときまで、まだ大事に取っておくとことにするよ」


 そう言って叔弘は笑った。


 清々しいその表情に子雲は拍子抜けして、固めた拳の始末に迷った。


 迷ったあげく、無造作にその拳を叔弘の頭に振り下ろす。

 鈍い音が室内に響いた。


「何をするんだっ」

「振り上げた拳はどこかに下ろさねばならんのだ」

「だったら自分の頭に下ろしたまえよ」


 理不尽な暴力に抗議の声を上げて、叔弘は殴られた頭をさする。

 子雲はわざとらしく不機嫌な表情を作って中庭へ視線を移した。


「しかし、叔弘、お前いつになったら本当の運命の女に巡り会うんだ。

それまで命を取っておいたら、よぼよぼの爺さんになっても死ねないことになるんじゃないか」

「うるさいよ、子雲。

そういうお前は、無茶なことばかりして、うっかり命を縮めるんじゃないぞ」


 冗談と本気を混ぜ合わせて言う子雲の横顔を、叔弘は憮然としてねめつけた。


 庭の緑が明るくまぶしい。

 真っ白な光の粒子が舞い散っている。


 白光――ぼんやりとした白い朝日。

 うすぼらけの中の、白衣の少女。


 脳裏に浮かんだのは、夜明け前の一瞬の微笑。


「あのガキ――」


 子雲の漏らしたつぶやきを、叔弘は耳ざとく聞きとがめて首をかしげる。

 それには気づかず、子雲は庭を眺めながら思考を巡らせていた。


 荒れ屋敷の幽鬼となった令嬢。

 幽鬼となった令嬢を待っている恋人。


 では、その恋人の元へ令嬢を送るという、あの白衣の少女は――。


「一体、何者だったんだ……」

走無常そうむじょうだのう」


 独り言に答える声に、子雲ははっと我に返る。

 見ると、先ほどまで庭木に水やりをしていた老人が、いつの間にか窓辺に来ていて、相変わらずの非友好的な目つきで子雲を見ていた。


「走無常とはなんだい、李翁りおう


 幼なじみに代わって、叔弘が老人に好奇心に満ちた声で尋ねる。


「死者を冥府に案内していく役目を持った人間のことでございますよ、坊ちゃん。

生者の世界と死者の世界を行き来して、魂を無事に送り届けてやるのです。

冥府の十王に仕えているのだそうですよ」


 老人がしかつめらしい口調で答えてみせると、叔弘はその博識ぶりに感心した様子でうなずいた。


 走無常――あの少女が。


 子雲は少女の姿を思い出す。

 猫のようにしなやかで優美な姿態で、月光を宿した不思議な瞳をしていた。

 生意気で可愛げがなくて、始終こちらを馬鹿にしているようだった。


 感情の読み取れない、冷たくすら感じる美貌に、ほんの一瞬だけ浮かんだあの笑みが、なぜか子雲の胸に印象深く映り込んでいるのだった。


 おかしな目に遭わされた――まるで、長い夢を見せられていたかのようだ。

 そして、まだその夢から目覚めきっていないような気さえする。

 現実と夢の区別のつかない、ぼんやりとしたまどろみの中を漂っているような――。


 ……だが、決して不愉快な気分ではなかった。


 多分、もう出会うことはないだろう。

 こんなおとぎ話じみた出来事、一生の内に一度でも遭遇すれば充分だ。


 子雲は茶卓に頬杖をつく。

 庭から吹くそよ風が首筋に当たった。


 ゆるく吹く風は随分と涼しく感じられるようになっていた。

 夏の気配は遠ざかり、秋の訪れがかすかに香る。

 涼風の愛撫は疲労を感じる身体に心地よく、優しく巧みに午睡へと誘う。


 今、眠ったら、不思議な夢をもう一度見ることができるだろうか――ぼんやりとそんなことを思いながら、子雲は両のまぶたを閉じた。


 風に揺れる葉ずれが子守歌に聞こえる。


 それは女のささやく声に似た音となって、意識の遠くで反響していた。




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