牽牛花・六
音を追って、子雲は夜の都を駆けた。
どこをどう走っているのか、考えている余裕などなかった。
ただひたすらかすかな音と気配にだけ集中し、獲物を追う狼の如き気迫で子雲は走った。
気づけば、たどり着いたのは都のはずれであった。
叔弘が仙女と出会ったというあの場所に、子雲は再びやって来ていた。
夜の闇の中で見る雑木林は、昼間とはまた趣を変えて、不気味な墓地のような雰囲気で満ちている。
子雲は走ったせいで上がった息を整えながら、注意深く歩き出した。
先日やって来たときは、確かにここは無人であった。
今も夜の静寂の中、人のいるような様子はもちろんない――そう思いつつも、慎重に進めていた子雲の足が、不意に雑木林の側で止まる。
雑木林の木立が音を立てて揺れた。
風はない。
木の上に何かいるのだ。
子雲はとっさに太刀に手をかけ身構える。
木の上で何か光った。
猫の目のようだと思った瞬間、それは地面に飛び降りてきた。
猫――ではない。
闇夜に光る目をして、猫のように身軽に地面に降り立った、その華奢で真っ白な姿には見覚えがあった。
「お前は――」
立ち上がって振り向いた、その幼さの残る美貌に子雲の目つきが鋭さを増す。
目の前に立っているのは、趙家の前で出会ったあの白衣の少女に違いなかった。
少女はあの夜と同じ白ずくめの姿でたたずみ、静かに子雲と相対する。
少女が子雲の顔を見つめる。
子雲はその視線をほとんどにらみつけるように見返す。
二対の視線が対峙すること数瞬。
少女は無造作に視線をはずすと、子雲に背を向けて軽捷な足取りで歩き出した。
「おい、待て――」
子雲は慌てて、歩き去ろうとする背に向かって制止を叫ぶ。
が、少女はその声など聞いていない様子で、早くも夜の闇の中に消えてしまいそうである。
両目に怒気の火花をはじけさせ、子雲は地を蹴りつけて駆けた。
すぐさま少女の後ろ姿に追いつくと、その細い肩を力任せにつかむ。
「無視するな、このガキッ」
怒声と乱暴な手の力にようやく振り返った少女は、白っぽい目つきで子雲の顔を見上げた。
「何だ、お前は」
少女の不遜な口調に、子雲は眉間に苛立ちをあらわにする。
「何だとは何だ。ガキが生意気な口を利きやがって」
少女は澄ました顔で、肩をつかんでいた子雲の手を煩わしげに払う。
「なぜ私を追う」
「お前が逃げるからだろうが」
「私は逃げてなどいない」
「逃げただろう、今も、この前の夜も」
わずかに首をかしげる少女を子雲は険しい目つきでにらむ。
「とぼけるな。
お前は一体、何者だ。
何で逃げる」
「私は逃げていないと言っている。
お前は何だ。私に何か用でもあるのか」
少女の口ぶりは露骨にとげとげしい。
かみ合わない会話に血が沸きそうになるのを、子雲はぐっとこらえた。
相手は子供だ。
一応、年上らしく落ち着いて話をするべきだろう。
子雲は深呼吸をして、ひとまず気を取り直すと、改めて会話を切り出した。
「お前、この前の夜、
あの家の叔弘っていう坊ちゃんが、最近、妙な病気で寝込んでる。
叔弘は俺の友人で、俺は奴の病の原因を知りたい。
お前、屋敷の前で会ったとき、いろいろ変なことを言っていただろう。
お前は何か知っているんじゃないのか。
知っていることがあるなら俺に教えろ」
「…………」
少女は大きな瞳で子雲の目の奥を見つめるようにして、しばらくじっと沈黙していた。
ややあって、少女は小首をかしげると、幾分和らいだ口調で子雲に尋ねる。
「お前は彼女に用があるのか」
「は……」
奇妙な問いかけに子雲は眉根を寄せた。
「俺が用があるのはお前だ」
努力の甲斐なく全くかみ合わない会話に、子雲はこめかみの辺りを引きつらせた。
「あっ、こら――」
再び背を向けて去っていこうとする少女の後ろ姿を、子雲はとっさに呼び止めた。
その声に少女は視線だけで振り返る。
そして、夜気に似た静かな声音で、
「私は彼女を送りに行く。用があるならついて来ればいい」
短く言い放つと、少女は夜の闇に足を踏み出す。
子雲は腰の太刀の存在を確かめるように、その柄を強く握った。
眉間に緊張をみなぎらせ、少女の後に続いて、子雲も暗闇の中に歩を進めた。
数歩先を歩く、少女の小さな背中に目を向けながらも、子雲は周囲の闇に気を払って進む。
音も立てずに、しなやかな足取りで闇の中を歩いていく少女は、猫そのものに思われた。
少女は、背後からついて来る子雲には全く気を配るでもなく、ただ夜道を淡々と進んでいった。
「おい」
子雲は少女の背に向けて声をかける。
「どこへ向かっているんだ」
「彼女の元へ」
「……その彼女とは何者なんだ」
短すぎて意味を得ない少女の返答に、また内心いらつきながら子雲は重ねて尋ねた。
少女はしかし、その問いには答えずに、ちらりと背後の子雲を振り返って言った。
「お前、剣を使えるのか」
少女は無感情に言ったが、細い肩越しの視線は、心なしか興味深そうな様子で子雲の太刀を見ている。
子雲は気負った調子で少女の視線を見返した。
「当然だ」
「だが、武門の人間ではないな」
「俺は剣客――武侠だ」
力強く言ってのけた子雲の自信に満ちた表情を、少女の眼差しがひと撫でする。
その冷めた目つきに、子雲は矜持を傷つけられて、腹立ちにまた顔を引きつらせた。
そして少女は、言葉に出しては何も言わずに、気色ばむ子雲の様子は無視してすたすたと歩いていってしまった。
馬鹿にされているようだ。
子雲の憤慨は、言葉にする前にさえぎられる。
どこまで行くのかと思われた少女の歩みが唐突に止まったのだ。
つられて足を止めた子雲は、少女の横顔が暗がりを見上げていることに気づき、その視線の先を追った。
二人の視線の先、夜の暗がりにたたずむのは一軒の屋敷だった。
雑木林の陰に隠れるようにして建っている、その荒れ屋敷には見覚えがある。
以前に来たときに、子雲はここで引き返した。
月下、改めて目の前にした荒れ屋敷は、雑草の生い茂る中に埋もれて、かろうじて建っているという様子だ。
傾きかけた屋敷の門戸に鍵はなく、隙間からうかがい知れる屋内は、夜の街より濃く暗い闇がよどんでいる。
「ここだ」
少女は小さくつぶやくと、屋敷の扉に手をかけた。
呆気にとられる子雲の眼前で、少女は微塵のためらいも見せずに、開いた扉に細い身体を滑り込ませた。
「おいっ――」
子雲は暗闇の濃度に二の足を踏んだが、一瞬遅れで少女の後に続き、屋敷の中へと足を踏み入れた。
湿っぽいほこり臭さが鼻について子雲は顔をしかめる。
ほこりの臭いと温い空気が暗い室内で渦を巻いていた。
むせかえるほど濃密な、五感にのしかかってくる闇。
息づまる閉鎖感に嫌な汗が浮いた。
怖じ気づきそうになる心を奮い立たせて、子雲は闇の中に足を踏み進めた。
ひゅ――。
か細い音。
すきま風だろう。
耳元を通り過ぎたそれが女の嗚咽のように聞こえた。
――…………――。
首筋に悪寒。
子雲はぎくりとして肩をこわばらせた。
暗闇から声がする。
離れたところから、確かにささやくような声がした。
子雲は注意深く足を踏み出しながら、じっと闇の中に耳を澄ませた。
――……さま――……様……。
誰かが呼んでいる声がする。
――……ようこそ……いらしてくださってうれしい……。
女の声だ。
寄せかける白波のように、女の声がどこからともなく聞こえてくる。
――お優しい方……あなた様のような方に気にかけていただけて、うれしく思います……本当に……。
女が何者かに向かって語りかけている様子だが、相手の声は聞こえなかった。
ただ女の声だけが、闇の中から鼓膜を打つ。
――私のような者にまで親切にしてくださった……優しく美しいあなた様に……お会いできてうれしい……あなたが私に会いに来てくださることが、うれしいのです……。
女の声は微熱を帯びて、見えない相手に向かって切々と言葉を紡いでいく。
――……お慕いいたしております、美しい方……どうか、私をお見捨てにならないで……わたくしを一人にしないでくださいませ……もう私には、あなた様しかいないのです……。
震えて響く声は、背後で、頭上で、すぐ傍らの耳元で、取り巻く闇をさざ波立てて揺らした。
――約束を、くださいませ……あなた様のくださる約束を頼りとして、私はここでお待ちしましょう……どうか、また来てください……また私の元へ……お待ちしております、愛しい方……。
まるで、闇の中に秘め隠された、見知らぬ他人の睦言を盗み聞いているようだ。
一歩、足を進めるごとに、闇の帳が揺れて、かすかにその声が漏れ聞こえてくるのだ。
この荒れ屋敷の記憶、誰も知ることのない過去、いつか過ぎ去った日の出来事……ささやかなそれらのひとつひとつが、そこかしこに種となってまかれ、根づいて広がり、しっかりと巻きついて結びつこうとしている。
たとえば、蔓草がそうして葉を広げ、いくつものつぼみをつけるように。
ここには根をはやし、張り巡らされた細い幾筋もの執着が、小さくふくらんだ願望のつぼみをつけているのだ。
他人が触れれば敏感に揺れ、かすかな干渉にも、たちまちその内包物を溢れさせてしまいそうなくらいに繊細な――。
ひゅ――と、また耳元で風が鳴る。
吹き込んだすきま風が肌を撫でて汗を乾かす。
たちまち全身を冷気に覆われたような感覚に襲われた。
凍りついたかのように、足が止まる。
いつの間にか、子雲は屋敷の一室に足を踏み入れていた。
暗い室内に目が慣れ、見渡せば、そこには家具も調度品の類もなく、ただ土ぼこりが部屋中に薄く積み上がっているばかりだ。
壁に、傾いた窓が見える。
その隙間から一筋、月光が差す。
子雲の視界に、ほの白く浮かび上がって見える人影が――二つ。
一つは先に屋敷に踏み込んだ白衣の少女。
子雲に背を向けてたたずむ後ろ姿だ。
もう一つ、それは少女と相対している。
子雲は目を見はった。
女がいた。
仙女、と言っていた叔弘の言葉が思い起こされる。
うらぶれた屋敷には似つかわしくない、典雅な着物をまとった若く美しい女だ。
ほっそりとした肢体とやせた白い面とが、暗闇の中で、陽炎のような頼りなげな印象を作っている。
女は泣いていた。
薄汚れた床の上にうずくまって、濡れた黒瞳を茫と中空にさまよわせている。
月光に映えて青白く見える頬に、幾筋も涙のあとが残って見えた。
女の目は
ぼんやりと焦点の合わない瞳から、一筋、また涙が頬を伝う。
――汚れて傾いた窓と壁に、細い蔓が這っていた。
少女が一歩、女の方へ足を踏み出す。
「なぜ、泣く」
問われて女は、その青白い面を上げた。
視線は少女に向いてはいるが、やはりどことなく焦点が合っていないようだった。
結わずに背に流した長い黒髪が、さらりと音を立てて揺れる。
「……あの方が、いらっしゃらないのです……」
女はか細い声で答えた。
夜風に草木が震えて鳴るような、力なく、おびえている様子がうかがい知れる声だった。
「怖いのか」
少女がまた短く問いかけた。
女はうなずく代わりにゆっくりと瞬く。
閉じたまぶたから涙が溢れ、音もなくこぼれた。
「……あの方は、約束してくださった。
必ずまた来ると……だから、わたくしはずっとここで待って……待って……」
女は繊手で顔を覆う。
細い肩が震えて、髪が胸元へ落ちかかった。
白い手の隙間から嗚咽がこぼれて夜陰を打ち、響いた。
――ざ。
鼓膜をこする音に、子雲は背に虫が這うような感覚を味わった。
全身がこわばる。
女が泣く、その息づかいに呼応するかのように、壁に這った蔓が動いた。
暗がりに凝固した影が女の背後で、百足の蠢動か黒い血管が脈打つかのように動いているのだった。
子雲の右手が、考えるより速く動いて太刀をつかむ。
だが、その手が次の動作に移るのを、別の手が重なりさえぎった。
小さな白い手の先で、白衣の少女の静かに圧する双眸と目が合う。
「女に剣を向けるのが武侠のすることか」
少女はとげのある口調でささやいた。
子雲は表情を硬くしたまま、そろそろと握った柄から指を引きはがす。
子雲が太刀を放したことを横目で確認すると、少女は再び女と相対した。
細くすすり泣きを続ける女の前に少女は膝をつく。
うつむいた女の顔をのぞき込むようにして、
「泣くのはおよし」
少女はそうささやきかけた。
まるで幼子をあやす母親のような口調は、子雲に向けるものとは比べものにならいほど優しい。
「何も怖がることはない。
もう何も怖いことはないよ」
少女の言葉に女はようよう顔を上げた。
泣きはらした瞳で女は少女を見つめる。
茫洋としていた眼差しが、初めて焦点が合って少女の光る両目にじっと見入った。
「――あなたは、誰……」
「君を送るために来た」
女が問うのに、少女はやはり子供に対してするように、ゆっくりと言葉を選びながら答える。
「残念だけれど、君が待つ人はここには来られない」
「どうして……」
「君が、彼の元に行くことができるから。
君はもう、ただ待っていなくてもいい」
女は瞬き、少女の言葉の意味をはかりかねてか、小鳥のような仕草で首を傾けた。
不安そうに見つめてくる女の瞳を、白衣の少女は真っ直ぐに見つめ返して言う。
「君はもうどこへでも行ける。
自分で行きたいと望む場所へ行ける。
待っているだけは辛かったね」
「ええ……」
「一人は不安で恐ろしかったね」
「――ええ……」
言いながら、女の両目にまた玉のような涙が浮かんだ。
少女はその瞳を気遣わしげに見つめて、
「彼に会いたいか」
優しく尋ねる。
女はこくりと、無垢な野の花がそよ風に揺れるのに似た素直さで、小さくうなずいた。
「会いたい――」
「彼も、君に会いたがっている」
少女の声は、厳かな宣告でもするのに似た響きを持っていた。
小さな白い手が女の前に差し出される。
目の前の手と少女の顔を交互に見比べて、女は戸惑う様子を見せた。
そんな女に向かって、少女はふと目元と唇をゆるめる。
笑った――少女が初めて見せた年相応の微笑に、子雲は驚き、心臓を一瞬跳ね上げさせた。
「おいで。彼の元へ送ってあげよう。
一緒に行くか」
少女は柔らかく女に問う。
その言葉にうながされてか、女はおずおずと細い手を持ち上げる。
女の手が少女の掌に重なると、少女はそれを確かめるようにそっと握った。
「では、行こう」
女の手を優しく握ったまま、少女は立ち上がる。
手を引かれて、女も衣ずれの音を立てて身体を持ち上げる。
――窓の外が、白んでいた。
傾いた窓から、白い朝日の先駆けが差し込み、部屋の中に陰影を浮かび上がらせる。
子雲は目を見開き、瞬いた。
うすぼんやりとした外からの光に照らされて、少女がぽつねんとたたずんでいる。
その目の前、夜の残影の中で相対しているはずの女の姿が、忽然と消えていた。
「何だ、これは――」
「……朝だな」
子雲が思わず漏らした驚愕の声に、少女は答えにならないつぶやきで応えた。
唐突に、つい今し方までいたはずの女が消えてしまったというのに、少女は超然として落ち着きはらっている。
少女のその澄まして大人びた無表情に、子雲は疑問を投げつけることもできずに呆然とする。
少女は朝日の漏れる窓におもむろに近づいた。
その窓には細い蔓草がまとわりついている――なんの変哲もない、ただの蔓――。
白い日の光の中で、白衣を着た少女はかすんで見え、そのまま朝日に溶け消えてしまいそうに思えた。
少女の手が蔓に伸びる。
よく見ると、蔓の先に小さなつぼみがついていた。
つんとして薄紅に染まったつぼみに、少女の指先が触れようとして、止まる。
「ああ、開く……」
唇から嘆息に似たつぶやきがこぼれた。
少女が見つめる先、朝日に照らされて、その薄紅色のつぼみがゆっくりと咲こうとしていた。
陽のぬくもりの中、つぼみは緊張を解き、薄く柔らかそうな花びらを開いていく。
少しずつ扇を広げるようにして――咲ききったときには丸い紅色の花となった。
花の咲くのを見守っていた少女は、咲いた花の茎を指先でつまむと、そっと蔓草から摘んだ。
少女は、摘んだ花をしばらく見つめていたが、
「お前にやろう」
不意に振り向き、子雲に花を差し出す。
無造作に差し出された花を、反射的に子雲は受け取った。
変わった花だ、と子雲は思った。
底の広い円錐を逆さにしたような形のその花は、花びらの縁が濃い紅色に染まっている。
婦人の着る
子雲は手の中の花をまじまじと見つめた。
「友人とやらの見舞いに行ってやるといい。
直によくなる」
少女の言葉に子雲ははっと顔を上げた。
だが、子雲の視線は虚空で空振る。
ほんの数瞬の間に――今度は、目の前についさっきまでいたはずの少女が消えていた。
まるで本当に、朝日に溶けて消えてしまったかのように。
明るくなりつつある部屋の中には、今までそこに人がいたという痕跡すら残っていない。
足跡ひとつ残さずに、消えてしまった。
窓から一陣、吹き込んだ朝一番の風が、子雲の足元に積もっていた土ぼこりを、差し込む朝日の中に吹き散らした。
ただひとり取り残された子雲は、荒れ屋敷の中で、しばらく身じろぎすらできずにたたずんでいた。
手の中で、紅色の花だけが柔らかな感触でその存在を主張していた。
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