牽牛花・五
子雲は闇の中で息を殺していた。
その姿を見下ろす月が時折雲に隠れてしまうと、深夜の中庭は真の暗闇となる。
星のない月夜である。
昼間、叔弘を見舞わずに帰った子雲は、夜を待って再び屋敷を訪れた。
正面を避け、わざわざ裏道から塀を乗り越えて、庭に忍び込んだのだった。
子供時分には垣根にもぐって鬼ごっこをしたり、木登りをして遊びまわった庭である。
勝手知ったるもので、忍び込むなど造作もなかった。
家人は皆、とうに休んでいるのだろう。
屋敷はしんと静まりかえっている。
子雲は叔弘の部屋の窓辺に近い、庭木の影に身を潜めていた。
叔弘も眠りについているのか、部屋の灯りは消え、物音ひとつしない。
月は中天を過ぎ傾いて、子雲の頭上で冴え冴えとした光を放っている。
子雲はじっと山野の獣のように身を潜め、中庭の様子をうかがっていた。
その手にしっかりと握られているのは、一振りの太刀である。
それは彼の亡父が息子に遺した唯一の遺品であり、財産だった。
その太刀を両手で握り、胸元に抱くようにして、子雲は暗闇に向かって意識を凝らし、待っていた。
叔弘は言っていた。
毎夜、夢に女が訪れると。
老人は言っていた。
不気味な雑草は夜中のうちにやって来ると。
夜に訪れるもの――その符合を、子雲は手がかりと考えた。
叔弘の出会った女、夢に現れるというその女と老人の話に、どんな関係があるのかは皆目わからない。
だが、貴重な唯一の手がかりなのだ。
だから今、子雲は待っている。
何が出るかは知らないが、それが悪意を持つものであれば、子雲は実力でそれを排する覚悟で、こんな真似をしているのだった。
暗闇に凝らす目は鋭利に、太刀を握る手には自然と力がこもる。
鏡のような月が下界に光を降りそそぐ。
静かな夜だ。
子の刻はとうに過ぎていた。
子雲は自分でも知らぬ間につめていた息を吐き出す。
緊張にこわばっていた全身から、わずかに気が抜けた。
自分は途方もなく馬鹿馬鹿しいことをしているのではないか――そんな考えが、頭のすみに澱のように沈んでいる。
他人が知れば、今の自分を笑うだろうか。
少なくとも、これで何事も起こらなければ、子雲は自分で自分を笑うはめになるだろうが。
それも、何もしないままに迷ったり後悔することに比べれば何のこともないと、子雲はそうきっぱりと思い定めている。
夜風が頬を撫でた。
丑の刻はもう過ぎる頃だろう。
風が雲を動かす。
薄絹のように広がった雲は月を覆い包んだ。
月光がさえぎられて、下界は一瞬、暗幕に覆われた。
視界の利かない暗闇の中で、子雲は両を目を閉じた。
――ざ。
その気配に、子雲の中の動物的な感覚が反応した。
張りつめた皮膚に不確かながらも感じられた気配は、次には遠くから、葉ずれの音として子雲の鼓膜を打った。
――ざ。
背筋に冷たい緊張が走る。
音は中庭の、下生えの間から聞こえてくるようだった。
まだ遠い。
(どこだ……)
闇夜に目が利かない。
子雲は手の中の太刀を慎重に握り直す。
――ざ。
夜の庭に現れたものを探るには、その音だけが頼りだった。
子雲は意識を凝らし、耳をすませる。
(どこにいる――)
額に汗が浮かんだ。
音は次第に近づいているようだったが、その位置も正体もはっきりとは知れない。
――ざ。
蛇の這う音。
夜風が騒がす葉ずれの音。
婦人の引く、長い裳裾の衣ずれの音。
いずれにも似た音、いずれにも似ていない気配。
音はもう近い。
――ざ。
風が吹く。
雲が流れ、月が再び姿を現す。
冴えた光が中庭を照らした。
ざ――。
子雲の視界の端で影が動いた。
反射的に巡らせた視線の先には屋敷の壁がある――それは中庭に面した叔弘の部屋の壁だった。
その壁面を、固く閉じた部屋の窓を目指して這う、細く黒い影がある。
(……女の腕――)
細い影はゆるゆると壁を這い上がって、まさに窓枠に達しようとしていた。
子雲は木立の影から飛び出す。
駆けると同時に太刀を鞘走らせた。
白刃が月光をはじきひらめく。
風を起こしてひるがえった刃は鋭く影をとらえた。
手応えを感じた瞬間、影は半分に断ち切れる。
刹那。
疾風が巻き上がる。
子雲はとっさに両腕で吹きつけるほこり混じりの疾風から顔面をかばう。
視覚ばかりか聴覚をも奪う疾風の中で――。
――…………――。
悲鳴が上がった。
女だ。
女の言葉にならない甲高い絶叫が夜気を激しく震わせた。
風は一瞬で吹き過ぎた。
風がおさまると同時に、女の悲鳴も聞こえなくなった。
白刃を下げたままで子雲は左右を見渡す。
が、視界に人の姿はなく、真夜中の屋敷は静まりかえっている。
ただ耳の奥に悲鳴の残響がするばかりだ。
――ざ。
足元から聞こえた音に、子雲は驚き飛びすさる。
子雲の足元には、たった今斬り落とした影が、月光に照らされその姿をあらわにしていた。
影では女の腕のように見えたそれは、何のものとは知れないが、細い蔓の一部に違いなかった。
壁に張りついていた方の半分は、地面にぐたりとして動く様子もない。
ただの草にしか見えないそれを、子雲は呆然と見下ろした。
――ざ。
背後でまた音がした。
素早く振り向いた視線の先で、細長いものが地面を這っていった。
斬られた蔓草のもう一方が、まるで手負いの蛇がのたうつように庭を這いずり逃げていく。
――ざざざ。
――ざざ。
――ざ。
蔓草は地面を這って、たちまち暗闇の中に見えなくなってしまった。
子雲ははっと我に返ると、蔓草の消えた後を追って駆け出す。
ここで手がかりを見失うわけにはいかなかった。
――ざ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます