牽牛花・四




 不可解な夜が明け、子雲は再び趙家の屋敷を訪ねようとしていた。


 昨夜の出来事は夢であったかのようだ。

 たまらなく不愉快な夢。


 子雲は胸中に灰色のもやを抱えて、昨夜は結局果たせなかった、友人の見舞いのために都の屋敷を訪れる。


 屋敷の門前に着くと、見知った顔が子雲を出迎えた。

 ほうきを持って屋敷の前を掃き清めていた老人は、子雲の姿を見留めると、おなじみの胡乱げな目つきをしてみせた。


「おやおや、誰かと思えば、楊さんのところの不良息子じゃないか」


 子雲が口を開くより先に、老人は愛想の欠片もない口調で言った。


「坊ちゃんの見舞いなら、今日はやめておくんだね」

「何かあったか」

「今、お医者様が来ておいでなんだよ」

「……叔弘の具合はどうなんだ」

「よくはないよ。

だのに、坊ちゃんが医者にかかるのを嫌がるもんだから。

医者はだめだね、当てにはならんよ」

「何で」


 怪訝な表情を作った子雲を、老人は見下げるような目つきで見返した。


「坊ちゃんの病気は医者の範疇じゃない。

あれは呪術師の領分さね」

「……偉そうに不気味なこと言うな」


 子雲はことさら邪険な口調で老人の言葉を突っぱねた。

 その虚勢を見透かしたように、老人は鼻で笑ってみせる。


「まったく、ここのところ妙なことばかりで嫌になる。

坊ちゃんは伏せってるし、そのせいでお屋敷はずっと陰気だし、庭の掃除ははかどらないし」

「最後のは関係ないだろう」

「何が関係ないものかね」

「掃除がはかどらないのは、単にあんたの手際が悪いせいだろうが」


 子雲の意地の悪い言い方に、老人は本気で怒ったらしい。

 眉をつり上げ、声高に抗議する。


「そんなわけがあるものか。

ここのところ、庭に妙な雑草がやたらとはえてくるんだよ。

抜いても抜いても、次の日にはまたはえてきて始末に負えない。

雑草までがこんな年寄りをいたぶるんだから、まったく嫌なご時世だよ」


 時世は関係あるまい。

 子雲は口に出しては言わなかったが、表情に出ていたらしい。

 若者が年長者の愚痴に興味を示さないので、老人は不満そうに鼻を鳴らす。


「昼間、きれいに掃除しているのに、夜のうちにまた元通りはえてくるのさ。

草というより、蔓か蔦みたいなやつがいつの間にかね。

こんなことは初めてさね」

「へえ……」


 老人のその言葉に、子雲は興味を引かれるものを感じた。

 それを表情には出さないように注意しつつ、耳だけは老人の終わらない愚痴に傾ける。


「おかしいのはそれだけじゃないよ。

どうもあれは外からやって来るようだ」

「何だって」


 老人の言い回しの奇妙なことに子雲は眉根を寄せた。


「外から来るっていうのは、一体どういう意味だ」

「そのままさ。

あれは庭中に葉や茎を伸ばしてはいるが、根がね、ないんだよ。

外に根を持つ蔓がずぅっと細長く、お屋敷を目指して伸びてきているみたいに思えてならないんだよ」

「おいおい、気味悪いこと言うなよ」

「まったく気味の悪い話さ。

まるであの草は自分の意思か何かを持っていて、どんなにつみ取られても、しつこくお屋敷にやって来るようだね。

今日はとうとう、坊ちゃんの部屋近くまで伸びて来ていたよ」

「叔弘の部屋だと」


 子雲は両眼を険しくさせて聞き返す。


「ああ、いくら色男だからって、雑草までも夜這いに来るとはね。

坊ちゃんも病気になったり雑草に懸想されたり……本当に災難なことだ」


 他人事のような口調で老人はそう言ってのける。

 ふと、何か思い出したような表情で、そういえば、とつけ加えた。


「そういえば、あれがはえてくるようになったのは、丁度、坊ちゃんが寝込んだ日からじゃなかったかねえ」

「ふうん……」


 子雲の相づちは素っ気なかったが、その双眸は強い興味を宿して鋭く光っていた。


 奇怪な老人の話を、普段の子雲なら言下に笑い飛ばして相手にしなかっただろう。


 だが、老人の話を頭の中で反芻しながら、子雲はひとつの決意を引き締めた表情にみなぎらせていた。


「用事がないならさっさと帰りな。

そんなところに突っ立てられちゃ、掃除の邪魔だろうが」


 そう言って、老人はそっぽを向くと、野良犬を追い払うようにわざとらしく子雲に向かってほうきでちりを掃きかける。


 子雲は口の中で舌打ちをすると、大人しくきびすを返した。

 実際、叔弘を見舞えないのであれば、今は屋敷に用事はない。

 まずは準備が必要だ――。


 そう考えながら数歩進んだところで、子雲は首の後ろをちり、と焼くような感じを覚えて反射的に振り返った。


(……何かが見ていた……)


 視線を感じたように思った。


 しかし、通りを見渡せるかぎりでは人の姿はなく、ただ、いかにも不機嫌そうにほうきを動かしている老人が、屋敷の前にいるだけだった。


 子雲は手のひらで首筋を撫でる。

 気のせいだったのかもしれない。

 そう思い込むことにして、子雲は趙家の門前から足早に歩き去った。




   * * *


 ――ざ。


 地を這うものの気配が空気を泡立てる。


 ――ざ、ざ。


 その形は見えない。

 足元に近づいてくる気配だけが、冷感となって認識できた。

 肌の上を撫で過ぎていく空気の波。


 ――ざ、ざ、ざ。


 頼りなく揺れながら、それでもただ一所を目指して進む。

 白いさざ波のように寄せかけ、奔流のように溢れる、執着。


 ――ざ。ざざ。ざざざ。


 近づいてくる。

 強く結びついて、離さないために。


 もうすぐ、そこに。


 ざ――。


   * * *



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